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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第47話 すれ違う二人

 冬の柔らかな日差しが、床暖房の効いたリビングのラグの上に四角い光の模様を描いている、日曜日の昼下がり。

 俺の太い太ももの上では、小さな黒い毛玉が必死の抵抗を試みていた。


「……きゅぅん、きゅぅ〜ん!」


 悲痛な鳴き声を上げながら短い四肢をバタつかせているのは、愛犬の豆柴・レオだ。

 彼がこれほどまでにジタバタと暴れている理由は、俺の右手に握られている犬用のイヤークリーナーと丸めたコットンにある。

 犬にとっての耳掃除は、爪切りやシャンプーと並んで、この世の終わりのような苦行らしい。レオも例に漏れず、俺がクリーナーのボトルを手にした瞬間、ソファの裏にサッと隠れようとしたところをあえなく捕獲されたのだ。


「ほら、レオ。暴れるな。耳の中が汚れてると病気になるぞ」


 俺は低い声で優しくなだめながら、レオの体を左腕でしっかりとホールドし、右手のコットンを彼の耳の入り口にそっと当てた。


「ウゥーッ……!」


 最初は「僕の大事な耳に触るな!」とばかりに黒い鼻にシワを寄せて威嚇のポーズをとっていたレオだったが、俺の指先が耳の付け根のツボを適度な力加減でマッサージし始めると、その動きがピタリと止まった。


「……どうだ? 悪くないだろ?」


 クリーナーのひんやりとした感触と、指の腹での円を描くような絶妙なマッサージ。

 数秒後、レオの体に起きた変化は劇的だった。

 ピンと張っていた耳が横にパタンと倒れ、クリクリとしたつぶらな瞳が、トロンと細められていく。

 さらに、固く結ばれていた口元がだらしなく半開きになり、ピンク色の舌が少しだけ覗いた。


「……ふぁぁぁ……んふぅ……」


 気持ちよさに完全に抗えなくなった彼は、全身の力を抜き、まるでスライムのように俺の膝の上でドロドロにとろけてしまった。

 つい数分前までの猛抵抗はどこへやら、今では「もっとそこを揉んでくれ」とばかりに自分から頭を押し付けてくる始末だ。


「……ふふっ。本当に現金な子ね」


 ソファの端で本を読んでいた李雪課長が、その様子を見てクスクスと笑った。

 今日の彼女は、アイボリーのざっくりとしたニットワンピースに身を包み、髪を緩くまとめたリラックススタイルだ。


「犬も人間も、ツボを押されれば弱いものさ。……ほら、綺麗になったぞ」


 俺が耳掃除を終えて解放してやると、レオはブルブルッと体を震わせ、何事もなかったかのように俺の靴下を噛み始めた。


「……それにしても、師匠は何でも上手なのね。料理も、掃除も、犬の世話も」


 彼女は読んでいた洋書を閉じ、分厚いメガネの奥の目で、少しだけ真面目なトーンで言った。

 その視線が、俺の顔をじっと見つめている。


「俺はただ、快適な環境を整えるのが好きなだけだ。……それに、守るべき家族がいるからな」


 俺が夜の『契約』に基づいた自然なタメ口で微笑んで答えると、彼女は少しだけ頬を染め、照れ隠しのように視線を逸らした。

 実家の母親という最大の刺客を乗り越え、完全な同棲生活が始まって数週間。

 俺たちの関係は、もはや「上司と部下」や「深夜の共犯者」という枠組みを完全に超え、確かな絆で結ばれた「家族」になりつつあった。


 だからこそ。

 俺は、ある大きな決断を下そうとしていた。


★★★★★★★★★★★


 週が明けた水曜日の深夜。

 俺はいつものコンビニエンスストアに、彼女と共に立ち寄っていた。

 彼女がスイーツコーナーで熱心に新商品のカロリー表記を睨みつけている隙を見計らい、俺はレジカウンターに立つアンニュイな店員、長谷川さんに小声で話しかけた。


「……長谷川さん。少し、相談に乗ってもらえないか」

「おや、マエストロから私に相談とは珍しいですね。明日の夜食のインスピレーションですか?」

「いや、夜食じゃない。……指輪を探してるんだ」


 俺が極力声を潜めて告げると、長谷川さんは目を僅かに見開き、それから赤い唇の端を美しく吊り上げて、全てを悟ったような微笑みを浮かべた。


「……なるほど。ついに、その時が来たのですね」

「ああ。だが、俺にはジュエリーブランドの知識が全くない。彼女の好む機能美と洗練されたデザインを備えた、大人の女性が日常使いできる確かなブランドを教えてほしいんだ。会社でミチルや前田に聞けば一瞬で噂が広まるから、長谷川さんのセンスを頼りたい」


 俺が真剣に頼み込むと、長谷川さんはカウンターの下からメモ帳を取り出し、サラサラといくつかのブランド名を書き留めて俺に渡してくれた。


「黒猫さんは、派手な装飾よりも、歴史と確かな技術に裏打ちされたシンプルな美しさを好むはずです。……マエストロの選ぶものなら、きっと彼女に似合いますよ」

「ありがとう。助かったよ」


 俺はそのメモを素早く財布の奥底にしまい込み、ちょうどスイーツを選び終えてやってきた彼女からカゴを受け取って、何食わぬ顔で会計を済ませた。

 コンシェルジュたるもの、サプライズの準備は完全な隠密裏に行わなければならない。


 翌日の木曜日。俺は午後に半休を取り、「外回りに出る」という完璧なアリバイ工作のもと、銀座のジュエリーショップを一人で巡った。

 長谷川さんのアドバイスを元に何軒かハシゴし、ダイヤモンドのクラリティやカットについて店員と綿密な議論を交わし、ついに最高の品を選ぶことができた。

 受け取りは明日の夜だ。

 証拠となるパンフレットや領収書は、俺の性格上、絶対に家には持ち帰らない。オフィスの個人ロッカーの最奥という、彼女の目が届かない場所に厳重に封印した。


 リスク管理は完璧だ。俺の「極秘ミッション」は、何一つ痕跡を残さずに進行しているはずだった。

 だが、完璧を期すあまり、俺の意識が「サプライズの準備」にばかり集中し、目の前にいる彼女の心の機微への配慮が、ほんの少しだけ疎かになっていたことに、俺は気づいていなかったのだ。


★★★★★★★★★★★


 その翌日、金曜日の夜。

 俺はついに目当ての指輪の受け取りを済ませ、意気揚々とタワーマンションに帰宅した。

 通勤用の鞄の最も深い隠しポケットの中には、小さなベルベットの箱が隠されている。


「ただいま。……遅くなってすまない」


 リビングに入ると、彼女がソファに座って本を読んでいた。

 いつものリラックスした部屋着のスウェット姿ではあったが、俺が声をかけた瞬間に顔を上げたその表情は、どこか硬く、そして微かに強張っているように見えた。


「……おかえりなさい。随分と遅かったわね」


 声のトーンが低い。会社で部下を震え上がらせる「氷の女帝」のそれに近い、ひどく冷ややかな響きだった。

 何かがおかしい。


「起きてたのか。……遅くなってごめん。急な仕事のトラブル対応が長引いて」


 指輪のサプライズを隠すために俺が軽い嘘をついて微笑むと、彼女の瞳がスッと、カミソリのように細められた。


「……そう。仕事、ね」


 静かな声だが、そこには明確な拒絶の壁が築かれていた。

 俺は上着を脱ぎながら、慌てて空気を変えようとした。


「腹減ってないか? 今から夜食、作るよ。温かいフレンチトーストでもどうだ?」

「……いらないわ。食欲がないの」

「え?」


 彼女は手元の本をパタンと閉じ、冷たく拒絶した。

 食欲がない? あの、俺の作ったものなら深夜でも喜んで平らげる彼女が?


「迷い猫さん……? どうかしたのか? 会社で何か、嫌なことでも……」

「……何もないわ」


 彼女は俺の目を一切見ようとせず、視線を膝の上に落とした。

 その小さな肩が、微かに震えているように見えた。


「……最近、貴方、ずっと帰りが遅いじゃない。休みの日は一人で出かけるし、家にいてもスマホばかり見て、心ここにあらずって感じだし」


 ハッとした。

 彼女は、俺の些細な行動の変化を、すべて鋭く察知していたのだ。

 だが、彼女は決して俺の浮気を疑っているわけではなかった。彼女の口から紡がれたのは、予想もしなかった、胸を締め付けられるような自己嫌悪の言葉だった。


「……無理、してない?」

「無理? 何がだ?」

「私との、この生活よ。……私、家事も料理も全部貴方に任せきりで、何もできないじゃない。貴方、会社でも激務なのに、家に帰ってきても完璧なコンシェルジュを演じて……私といると、気が休まらないんじゃないの?」


 彼女の分厚いメガネの奥の瞳が、不安と恐怖で揺れている。

 彼女は、これほどまでに深い愛情と信頼で結ばれてなお、「生活能力のない自分は、いずれ彼に愛想を尽かされるのではないか」という自己肯定感の低さに囚われていたのだ。

 俺の最近の上の空な態度や帰りの遅さが、彼女のそのトラウマに最も残酷な形で火をつけてしまった。


「違う! 俺は無理なんてしてないし、あんたに負担を感じたことなんて一度も……!」

「嘘よ。だって、貴方は絶対に弱音を吐かないもの。私に気を使って、全部一人で背負い込んでる」


 彼女は俺の言葉を遮り、ギュッと唇を噛み締めた。

 俺は言葉に詰まった。

 ここで「指輪を選んでいたからだ」と真実を告げれば、彼女の不安は一瞬で消え去るだろう。

 だが、それはコンシェルジュとしての俺の「完璧なサプライズ」というエゴを放棄することになる。何より、こんな険悪な空気の中で一生に一度の指輪を渡すなど、彼女に対してあまりにも不誠実だ。


「……本当に、仕事が立て込んでただけなんだ。心配かけてすまない」


 俺が苦しい言い訳を繰り返すと、彼女の瞳からスゥッと光が消え、深い諦めのような色が広がった。


「……そう。仕事なら、仕方ないわね」


 彼女は静かに立ち上がり、俺に背を向けた。


「……私、疲れているから、もう寝るわ。貴方も早く休んで」

「待ってくれ、迷い猫さん……!」

「……一人にして」


 俺が手を伸ばそうとした瞬間、バタンッ! と音を立てて寝室のドアが冷たく閉ざされてしまった。


 リビングに取り残された俺は、一人呆然と立ち尽くした。

 鞄の中の指輪の箱が、やけに重く感じられる。

 なんてことだ。

 完璧なリスク管理とサプライズを目指した俺のエゴが、彼女の心に一番触れてはいけない不安の影を落としてしまった。


 俺の行動の変化は、彼女からすれば「自分との生活に疲れて距離を置きたがっているサイン」にしか見えなかったのだ。


 部屋には、時計の秒針の音と、俺の深く、途方暮れた重いため息だけが虚しく響いていた。

 彼女の不安を完璧に取り除き、このすれ違いを極上の笑顔に変えるためには、明日の夜、最高にロマンチックで、反論の余地のない完璧なプロポーズを決めるしかない。


 俺は暗いリビングで、明日の決戦に向けたプランを必死に練り直し始めた。

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