第46話 実家からの刺客
本格的な冬の刺すような寒さが、タワーマンションの分厚い窓ガラスを白く曇らせる休日の午前中。
俺が本格的に李雪課長の部屋に荷物を運び込み、名実ともに「同棲生活」をスタートさせてから、数週間が経っていた。
床暖房の効いた広々としたリビングのラグの上で、小さな攻防戦が繰り広げられている。
「……グルルルルッ!」
愛犬の豆柴、レオが、姿勢を限界まで低くして低い唸り声を上げている。
彼の短い前足の間には、以前彼女が手芸に失敗して生み出した『前衛的な毛糸玉』がしっかりと抱え込まれていた。
いびつで謎の形をした毛糸の塊だが、レオはこれを自分の大事な「獲物」か「親友」だと認識しているらしい。
「ほら、レオ。ちょっと貸してくれ。ほつれた糸が出てるから、引っかからないように切るぞ」
俺が手を伸ばすと、レオは「僕の大事なものに触るな!」とばかりに黒い鼻にシワを寄せ、小さな牙を剥いた。
一丁前に威嚇しているつもりなのだろうが、後ろから見ると短い尻尾がパタパタと嬉しそうに激しく揺れている。完全に遊びの延長だと思っている証拠だ。
俺がフェイントをかけて右から手を伸ばすと、レオは素早く毛糸玉を口にくわえ、左へピョンと飛び退いた。そして、毛糸玉を再び自分の足の間に囲い込み、ドヤ顔で俺を見上げる。
「……器用なやつめ。絶対に守り抜く気だな」
「ふふっ。レオくん、すっかりその毛糸玉がお気に入りね。私が作った失敗作なのに」
アイランドキッチンから顔を出した彼女が、クスクスと楽しそうに笑った。
今日の彼女は、ダボッとしたグレーのスウェットに、いつもの無造作な「お団子ヘア」と黒縁メガネ。すっぴんの、完全に無防備な姿だ。
会社での「氷の女帝」の面影は微塵もなく、そこにはただ、穏やかな休日を楽しむ一人の女性がいる。
二人と一匹の、暖かくて満ち足りた休日の朝。
このまま昼過ぎまでダラダラと過ごし、遅めのランチでも作ろうか――。
俺がそう思っていた、まさにその時だった。
――ピンポーン。
不意に、静寂を破るようにインターホンの無機質な電子音が鳴り響いた。
週末の午前中。宅配便だろうか。
俺が立ち上がろうとすると、彼女が「私が出るわ」と壁のモニターへと向かった。
だが、画面を覗き込んだ彼女の小さな背中が、瞬時に石像のようにピタリと固まるのを見た。
「……嘘、でしょ」
彼女の声が、微かに震えていた。
「どうした? セールスか?」
「……お、お母さんだわ」
「え?」
「中国にいるはずのお母さんが、下のエントランスにいるのよ!」
彼女は血相を変えて振り返った。
母親。
それは、どんな屈強な取引先や口うるさい役員よりも恐ろしい、絶対的な存在だ。
「な、なんで急に……」
「分からない! とにかく、最近私が同棲生活と仕事にかまけて、春節の帰省の予定を何度聞かれても既読スルーしてたから……怒って強行突破で様子を見に来たのよ……っ。開けなきゃ、管理人さんに詰め寄って勝手に入ってくるわ、あの人なら!」
彼女はパニック状態のまま、震える指で通話ボタンを押し、無言でオートロックを解除した。
そして、青ざめた顔で俺の方を振り返る。
「ど、どうするのよ師匠! 私、親には『仕事一筋で男の影もない』ってずっと言ってるのに! こんな大男が同棲してるなんて知られたら、心臓発作で倒れちゃうかもしれないわ!」
「今からクローゼットに隠れるか? あの時のように」
「駄目よ! 今回は貴方の荷物も大きなスニーカーもあるし、何よりあのクローゼットにこの大きな体が入り切るわけないじゃない!」
確かに、俺の服やスパイスの小瓶、私物はすでにこの部屋の至る所に完全に馴染んでしまっている。もはや誤魔化しようがない。
俺は覚悟を決めた。
「……腹を括ろう、迷い猫さん。俺たちはやましいことをしているわけじゃない。堂々と挨拶するよ」
「うぅ……殺される。私、絶対に中国の実家に連れ戻される……」
氷の女帝が、ただの怯える娘になって頭を抱えている。
数分後。
玄関のチャイムが鳴り、彼女が恐る恐る重いドアを開けた。
「雪! 元気にしてたの!?」
中国語の大きな声と共に、派手な高級コートを着た恰幅の良い中年の女性が、キャリーケースを引いて嵐のように入ってきた。
彼女の母親だ。目元が李雪課長に似ているが、醸し出すエネルギーとパッションは凄まじい。
「妈妈(お母さん)……急に来るなんて聞いてないわよ」
「サプライズよ! あなた、帰省の連絡をいくらしても全然返信よこさないじゃない! 仕事で倒れてるんじゃないかって、お父さんと心配して飛んできたのよ!」
母親は彼女を力強く抱きしめ、それから靴を脱いで廊下へと進んだ。
そして、リビングに足を踏み入れた瞬間、ピタッと動きを止めた。
「……あれ?」
母親は目を丸くして、部屋をぐるりと見回した。
「雪……ここ、本当にあなたの部屋? 前に来た時は、無駄なものが一切なくて、ただ仕事の資料が積まれただけの冷え切ったモデルルームみたいで息が詰まりそうだったのに……。なんだか今は、すごくホッとする出汁のいい匂いがするし、生活感のある温かい空気が流れてるわ。業者でも入れたの?」
「え、ええと……それは……」
彼女が言葉を濁していると、母親の視線が、リビングの奥で黒いカフェエプロンを着けて立っている俺をハッキリと捉えた。
188センチ、95キロの大胸筋エプロン男。
「…………ッ!?」
母親は幽霊でも見たかのように息を呑み、娘を背中に隠すようにして俺をビシッと指差した。
「だ、誰!? 泥棒!? なんでこんな熊みたいな大男が、あなたの部屋にいるの!?」
「わんっ!」
さらに足元から、前衛的な毛糸玉を咥えたレオが現れ、見知らぬ来訪者に向かって元気に吠えた。
温かい生活感のある部屋。巨大な男。そして見知らぬ犬。
母親の脳内キャパシティは完全にオーバーフローを起こし、ふらりとよろめいた。
「ち、違うのお母さん! 泥棒じゃないの!」
彼女が慌てて母親の腕を掴み、支えた。
「彼は……その、橋本一郎さん。私の会社の人で……その……付き合ってて、一緒に住んでるの!」
彼女の決死の、そして顔を真っ赤にした告白に、母親は口をパクパクさせ、そのままイタリア製のソファにヘナヘナとへたり込んだ。
★★★★★★★★★★★
数十分後。
俺が淹れた温かいジャスミン茶を飲んで、なんとか落ち着きを取り戻した母親と、俺たちはガラス張りのローテーブルを挟んで向かい合っていた。
「……なるほど。会社の部下で、数ヶ月前からお付き合いを始めて、今は同棲していると」
母親は、まるで品定めをするような鋭い目で俺をじっと見つめた。
俺は居住まいを正し、深く頭を下げた。
「はじめまして、橋本一郎と申します。……ご挨拶が遅れてしまい、誠に申し訳ありません」
「……橋本さん。随分と体格が良いのね。スポーツでもやっていたの?」
「学生時代に、少し」
「そう。……でもね」
母親は深くため息をつき、隣で小さく縮こまっている娘を見た。
「橋本さん。ウチの雪は、本当に仕事しかできない子なのよ。小さい頃から勉強ばかりで、料理なんて包丁もまともに握れないし、掃除や家事だって得意じゃない。前はこの部屋の冷蔵庫なんて、水と栄養ゼリーしか入っていなかったのよ? あなたみたいな立派な青年が、本当にこんな生活力ゼロの不器用な雪でいいの? 結婚して家庭を持つとなったら、苦労するのはあなたなのよ?」
母親の言葉には、娘を思う深い愛情と、現実的な心配が込められていた。
娘の欠点を隠すのではなく、あえて曝け出して相手の覚悟を問うているのだ。
俺は、隣で俯いている彼女の小さな手を、テーブルの下でそっと握った。
彼女の手は少し冷たく震えていたが、俺が握ると、すがるように強く握り返してきた。
「……お母様。お言葉ですが」
俺は母親の目を真っ直ぐに見据えて、静かに、しかしはっきりと言った。
「彼女が家事や料理ができないことは、俺にとっては『全く問題ありません』」
「……問題ない?」
「はい。なぜなら、俺が作るからです」
俺は胸を張って、淀みなく断言した。
「料理も、掃除も、洗濯も、俺が得意ですし、好きでやっています。この部屋が温かく片付いているのも、俺がやっているからです。だから、彼女には何の負担もかけさせません」
母親は驚いたように目を丸くした。
「彼女は、外で誰よりも懸命に戦っています。会社での彼女の凄まじい頑張りとプレッシャーを、俺は一番近くで見てきました。……だから、家に帰ってきた時くらい、重い鎧を脱いで、何もせずに休んでほしいんです。俺は、彼女が安心して羽を休められる『城』を守るために、ここにいます」
俺の言葉に、リビングは水を打ったように静まり返った。
隣の彼女が、信じられないものを見るような目で俺の横顔を見つめている。その分厚いメガネの奥の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……口では何とでも言えるわ」
やがて、母親がポツリと言った。
その声のトーンは、先ほどよりもずっと柔らかくなっていた。
「なら、証明して見せてちょうだい。あなたのその『得意な料理』とやらを」
「……承知いたしました」
俺は立ち上がり、黒い無地のカフェエプロンの紐をキュッと締め直してキッチンへと向かった。
マエストロの腕の見せ所だ。
異国の母親をもてなすからといって、中途半端な中華料理を作るのは悪手だ。
ここは俺の土俵、日本の「家庭の味」で真っ向勝負に出る。
俺は冷蔵庫とストック棚から食材を取り出した。
メインは、昨夜からじっくりと煮込んで味が染み込んでいる『豚の角煮』。これを火にかけて温め直す。
その間に、手際よく副菜の準備だ。卵を割り、出汁をたっぷりと効かせた『だし巻き卵』を専用のフライパンで美しく巻き上げる。
さらに、ほうれん草をサッと茹でて水気を絞り、自家製の胡麻ダレで和える。
最後は、俺たちの関係の原点である『具だくさんの豚汁』と、ふっくらと握られたシンプルな『塩むすび』だ。
三十分後。
ダイニングテーブルに、定食屋のような完璧な和食の御膳が並べられた。
豚の角煮は箸で切れるほど柔らかく、八角の香りを少しだけ効かせてある。
「……どうぞ。日本の家庭料理です」
湯気が立ち上る御膳を前に、母親はゴクリと喉を鳴らした。
そして、割り箸を手に取り、まずは豚汁を一口啜った。
「…………ッ!」
母親の目が、カッと見開かれた。
「……なにこれ。根菜の甘みと、お肉の旨味が……すごく深い。お味噌の香りも優しくて、冷えた体が芯からポカポカと温まるわ……」
次に、角煮を口に運ぶ。
「……溶けた。脂っこくないのに、味が中までしっかり染み込んでる。ほのかに香るこのスパイス……八角ね? 私の故郷の味に寄せてくれたの?」
「はい。少しだけアレンジを加えました」
母親は夢中で箸を動かした。
だし巻き卵の出汁の風味に感嘆し、塩むすびの絶妙な塩加減に目を細める。
その見事な食べっぷりは、深夜のコンビニで俺の夜食を頬張る彼女と、全く同じ顔をしていた。
血は争えないらしい。
「……好吃」
全てを綺麗に平らげた母親は、深く息を吐いて、満面の笑みを浮かべた。
「……負けたわ。こんなに美味しいご飯を毎日食べさせてもらってるなら、雪が帰省の予定をはぐらかして、家から出なくなるのも納得ね」
「お母さん……」
母親は娘を見て、それから俺に向かって深く頭を下げた。
「橋本さん。……疑ってごめんなさい。あなたの言葉が本物だって、よく分かったわ。この子があなたを頼る理由もね」
「いえ、俺の方こそ、突然のことでご心配をおかけしました」
「……雪を、よろしくお願いします。この子は不器用で素直じゃないけど、一度懐いた相手にはとことん尽くす子だから。……絶対に見捨てないでやってね」
「もちろんです。一生、俺の専属のお客様としておもてなししますよ」
俺が堂々と宣言すると、彼女は顔を真っ赤にして俺の腕を軽くつねった。
その時。
ずっと空気を読んでいたのか、大人しくしていたレオが、母親の足元にトコトコと歩いてきた。
そして、彼がずっと守り抜いていた『前衛的な毛糸玉』を、ポトリと母親の膝の上に置いたのだ。
「……きゅぅん」
レオは短い尻尾を振り、「これ、貸してあげる」という顔で母親を見上げた。
「あらあら……! なんてお利口で可愛い子なの!」
母親は完全に陥落し、レオを抱き上げて頬をすりすりした。
レオも満更ではない様子で、母親の頬をペロペロと舐めている。
嵐のような「実家からの刺客」は、極上の手料理と、小さな猛獣の可愛さによって、見事に撃退――いや、懐柔されたのだった。
★★★★★★★★★★★
その日の夕方、母親は「安心して観光して帰るわ! 結婚式には呼んでね!」と嵐のように笑顔でマンションを去っていった。
嵐が去った後のリビングで、俺と彼女はソファに並んで深くため息をついた。
「……疲れたわね」
「ああ。でも、結果オーライだろ」
彼女は俺の広い肩にコテンと頭を乗せ、ボソリと呟いた。
「……ありがとう、師匠。あんな風に、お母さんに真っ直ぐ言ってくれて。……すごく、嬉しかった」
「本心だよ。俺は、あんたがここにいてくれるだけで十分だからな」
俺は彼女の頭を優しく撫でた。
秘密の共犯関係から始まった俺たちは、ついに「家族」公認の仲となった。
この温かい城で、俺たちの騒がしくも美味しい毎日は、これからもずっと続いていく。




