第44話 雪の日の露天風呂
奥多摩のさらに奥、深い山々に囲まれたドッグラン付きの温泉コテージ。
そこは本来、俺と、李雪課長、そして愛犬のレオの三人で、静かな冬のバカンスを楽しむはずの場所だった。
しかし現実には、到着するなり強烈なラテンの旋風が吹き荒れていた。
「Wow! Ooooh! Onsen! Great!」
「レオ〜! こっちよ! 走れ〜!」
冷たい風が吹き抜けるドッグランで、フェルナンダとカルメンがレオと一緒に全力で走り回っている。
ブラジルとスペインからやってきた二つの太陽は、日本の冬の寒さなど全く意に介さないらしい。
レオも最初は二人の圧倒的なテンションに戸惑っていたが、すぐに彼女たちの波長に同調し、今日のために新調した赤い防寒用のドッグウェアを着て、短い足をフル回転させて嬉しそうに駆け回っていた。
「……はぁ。本当に来ちゃったわね、あの嵐たち」
コテージのウッドデッキからその様子を眺めながら、李雪課長が深いため息をついた。
今日の彼女は、厚手の白いダウンコートに身を包み、カシミアのマフラーに顔を半分埋めている。会社での隙のない姿とも、部屋での限界ジャージ姿とも違う、完全な冬のお出かけ装備だ。
「まあ、賑やかでいいじゃないか。レオも楽しそうだしな」
「……私は、貴方とゆっくりしたかったのよ」
彼女は分厚いメガネの奥から俺をジト目で睨み、マフラー越しに小さく呟いた。
その拗ねたような響きがたまらなく愛おしくて、俺は思わず頬を緩める。
「夜にはゆっくりできるさ。夕飯が終わったら、あいつらも予約した別館の自分たちの部屋に帰るって約束してるからな」
俺が夜の『契約』に基づいた自然なタメ口でなだめるように言うと、彼女は「そうね」と小さく頷き、少しだけ表情を柔らかくほころばせた。
「さて、俺はそろそろ夕飯の準備にかかるよ」
俺たちが泊まるこのコテージには、広々とした本格的なアイランドキッチンが完備されている。
俺は腕まくりをして、持参した食材の入った巨大なクーラーボックスを開けた。
「……温泉旅館なのに、自炊なの?」
「ラテンの二人が満足するようなパンチのある料理となると、俺が作った方が早いからな」
俺が取り出したのは、立派な『ノコギリガザミ』だ。
市場で生きたまま仕入れてきた、凶暴なハサミを持つ泥蟹である。
「うわ……。それ、どうするの?」
「彼女たちのリクエストで、今日は『チリクラブ』を作る。あの夜の公園で食べたものの、特大・パーティ仕様だ」
俺は暴れる蟹を素早く氷水で絞め、解体作業に入った。
硬い甲羅を外し、食べられないエラを取り除き、身を食べやすい大きさにぶつ切りにしていく。
分厚いハサミの部分には、包丁の背でしっかりとヒビを入れておく。これで味が中まで染み込み、食べる時も殻が割れやすくなるのだ。
持ち込んだ巨大な中華鍋にたっぷりの油を熱し、蟹のぶつ切りを殻ごと投入する。
ジュワアアアッ! という激しい音と共に、暗褐色だった蟹の殻が鮮やかな赤色に染まり、甲殻類特有の香ばしい匂いがキッチンに広がる。
殻の表面が色づいたところで一度取り出し、同じ鍋に、みじん切りにした大量のニンニク、生姜、そしてエシャロットを入れて香りを引き出す。
「ここからがチリクラブの心臓部だ」
俺は香りが立った鍋に、刻んだ生唐辛子、チリペースト、トマトピューレ、鶏ガラスープ、そして砂糖と少量の黒酢を合わせた特製調味料を流し込んだ。
マグマのように赤く煮えたぎるソース。
そこに、揚げておいた蟹を戻し入れ、ソースの旨味を絡めるように強火で一気に鍋を煽る。
「……すごい迫力。炎の料理人ね」
李雪課長が少し離れた場所から、目を丸くして見ている。
蟹の旨味がソースに溶け出し、スパイシーで甘酸っぱい香りがコテージの広々としたリビングに充満し始めた。
仕上げの魔法。火を止める直前に、溶き卵を少しずつ回し入れる。
これがチリクラブの最大のポイントだ。卵が唐辛子の辛味をマイルドに包み込み、ソースにとろみと絶妙なコクを与える。
「完成だ。……『情熱の特大チリクラブ』」
大皿に豪快に盛り付けると、まさに圧巻のビジュアルだ。
付け合わせには、ソースを拭って食べるための『揚げマントウ』を山盛りに用意した。
そして、この強烈な料理に合わせるペアリング。
俺は専用の茶器『グアンパ』と、先端が茶漉しになった金属ストロー『ボンビージャ』を、一つだけ用意した。
「それに合わせるのは何? ワイン?」
「いや、今日は『エルバ・マテ』だ。フェルナンダの故郷、南米の国民的飲料だよ。この前、あんたも飲んだだろ?」
茶器にたっぷりの細かいマテ茶葉を入れ、少しの水を注いで茶葉を膨らませてから、熱めのお湯を注ぐ。
深い緑色と、大地の香りが立ち上る。
「……ディナーの準備ができたぞ!」
俺が声をかけると、ドッグランからラテン組が冷えた体をさすりながら勢いよく飛び込んできた。
レオも満足そうにハァハァと舌を出している。
「Wow!! Chili Crab!! It smells amazing!!」
「Oso! 貴方やっぱり天才よ! 最高!」
二人は大はしゃぎでダイニングテーブルにつき、早速俺が渡したビニール手袋をはめて蟹にかぶりついた。
李雪課長も、最初は上品に身をほじっていたが、すぐに手づかみで殻をしゃぶり始めた。
「……美味しい! このソース、辛いけど甘みがあって、いくらでも食べられちゃう!」
「そうだろう。揚げマントウでソースをたっぷり掬って食べてくれ」
俺が勧めると、カルメンがマントウをソースに浸し、口いっぱいに頬張った。
「Mmm!! Delicioso!!」
そして、俺は淹れたエルバ・マテ茶の茶器を、フェルナンダに差し出した。
「茶器とストローは一つしかない。向こうの流儀に倣って、みんなで回し飲みをして絆を深めよう」
「Ah... Mate! 懐かしい味! この苦味が、蟹の濃厚な味とスパイシーさをすっきり洗い流してくれるわ!」
フェルナンダがストローですすり、それをカルメンへ、そして李雪課長へ、最後に俺へと回していく。
間接キスなど気にする間もないほどの熱気。
チリクラブの濃厚な旨味と脂を、マテ茶の豊富なビタミンとミネラル、そして独特の苦味が中和する。
これ以上ない最高のマリアージュだ。
宴会は最高潮に達した。
フェルナンダとカルメンは、持ち込んでいたワインも空け始め、笑って歌っての大騒ぎだ。
李雪課長は呆れながらも、時折彼女たちのペースに巻き込まれて楽しそうに笑顔を見せている。
俺はその様子を眺めながら、静かにマテ茶を啜っていた。
★★★★★★★★★★★
夜も更け、時計の針が21時を回る頃。
嵐のような宴会はようやく終わりを告げた。
「OK! 昼の部とディナーはここまで! お腹も心も大満足よ!」
「ええ。約束通り、私たちは別館の自分たちの部屋に帰って、温泉で温まるわ!」
フェルナンダとカルメンは、空になったワインボトルを片付けながら立ち上がった。
彼女たちは熱帯の嵐のように騒がしいが、あの夜に結んだ「夜の二人の時間は絶対に邪魔しない」という約束を、きっちりと守る義理堅い女たちだった。
「See you tomorrow! 最高の夜を楽しんでね、二人とも!」
二人は俺に意味深なウインクを投げ、李雪課長に「Good luck!」と謎のエールを送って、颯爽と自分たちの部屋へと引き上げていった。
嵐が去り、コテージに元の静寂が戻る。
レオは自分のケージの中に敷かれたベッドで、遊び疲れてすでに完全に夢の中だ。規則的な寝息が聞こえてくる。
俺はテーブルの後片付けを終え、ふと窓の外を見た。
「……雪だ」
いつの間にか、本格的な雪が降り始めていた。
しんしんと音もなく舞い落ちる大粒の雪が、外のドッグランや木々を瞬く間に白く染め上げている。
「……師匠」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、薄手のガウンを羽織った李雪課長が立っていた。
彼女の頬は、先ほど少しだけ飲んだワインのせいか、ほんのりと桜色に染まっている。
「……こんな綺麗な雪を見ずに寝るなんて、もったいないわ」
彼女は俺の隣に並び、窓の外を見つめた。
「せっかくだし……外の露天風呂、行ってみない?」
その提案に、俺は少しだけ心拍数が上がるのを感じた。
コテージのウッドデッキに備え付けられた、部屋専用の岩造りの露天風呂。
いくら公認のパートナーとはいえ、まだそこまでの決定的な一線は越えていない俺たちだ。
「……一緒にか?」
「ええ。……旅館が用意してくれた、厚手の『湯浴み着』があるから。それに、足湯みたいに縁に腰掛けて座れば、そんなに恥ずかしくないし」
彼女は照れ隠しのように視線を逸らしながら、ポツリと言った。
そんな顔で誘われて、断れる男がいるはずがない。
「分かった。……じゃあ、少しだけ外の空気を吸おうか」
★★★★★★★★★★★
俺たちは専用の湯浴み着を纏い、ウッドデッキに出た。
氷のような冷たい空気が肌を刺すが、広い湯船から立ち上る白い湯気が、その寒さを優しく和らげてくれる。
俺たちは湯船の縁に腰掛け、膝から下だけを熱いお湯に浸す「足湯」のスタイルで並んで座った。
ちゃぷん、と足先でお湯を揺らす。
つま先からじんわりと、全身の血の巡りが良くなっていくのを感じる。
「……静かね」
李雪課長が、夜空を見上げて呟いた。
雪が音もなく舞い落ち、お湯の表面に触れた瞬間に儚く溶けていく。
彼女の白い肌と、束ねた黒い髪に、白い雪の結晶がわずかに乗っては消える。
「ああ。さっきまでの騒ぎが嘘のようだ」
「本当に。……あの二人には参ったわ。台風どころじゃない、ハリケーンよ」
彼女は苦笑し、俺の肩に少しだけ体を預けてきた。
肌と肌が触れ合うかのような、限りなくゼロに近い距離。
雪の冷たさと、彼女の体温が混じり合う。
「でも……悪くないわね、こういうのも」
「騒がしい日常が、か?」
「ええ。……以前の私なら、絶対に考えられなかった。仕事以外で他人と関わるなんて、ただ煩わしくて、効率が悪いだけだと思ってたから」
彼女は自分の足元で揺れるお湯を見つめながら、静かに語り始めた。
「常に完璧でいなきゃいけない。誰にも隙を見せちゃいけない。そうやって自分を追い込んで、何もない孤独な城に引きこもってたの」
彼女がそっと、お湯の中で、俺の手に自分の手を重ねてきた。
お湯で温まった、柔らかくて小さな手。
「でも、あんたがその城の重い扉をこじ開けたのよ。……深夜のコンビニで、豚汁と塩むすびを持った、お節介で変な大男がね」
「……変な大男って」
「事実でしょ?」
彼女は悪戯っぽく笑い、俺の顔を見上げた。
メガネを外した彼女の瞳は、湯気と雪の反射光を受けて、キラキラと宝石のように輝いている。
「貴方がいて、レオくんがいて……そして、あの騒がしい人たちがいて。……今の私の日常は、信じられないくらいカオスで、予測不可能よ」
「……すまない。俺が巻き込んでしまったせいで」
「謝らないで。……私、今すごく楽しいの」
彼女の指が、お湯の中で俺の指と絡み合う。
「……こんな騒がしい日常も悪くない。そう心から思えるようになったのは、全部あんたのおかげよ、師匠」
その真っ直ぐで嘘のない言葉は、俺の胸の奥を、温泉の熱よりもずっと温かく満たしていった。
俺の方こそ、彼女に出会うまでは、ただ仕事と趣味の料理をこなし、筋肉を維持するだけの、どこか味気ない日々を送っていたのだ。
彼女に夜食を作り、その美味しそうな顔を見ることで、俺の人生は色鮮やかな彩りを取り戻した。
「……俺もだよ。あんたが美味そうに食べてくれるから、俺は料理を作り続けられる。……あんたの存在が、今の俺の日常の真ん中にあるんだ」
俺が素直な気持ちを伝えると、彼女は顔を耳の先まで真っ赤にして、視線を伏せた。
「……反則よ、そんな真面目な顔で」
彼女は俺の手をぎゅっと強く握りしめた。
雪が降りしきる中、俺たちはもう言葉を交わすことなく、ただ互いの体温と存在の大きさを確かめ合うように、静かに寄り添っていた。
静寂に包まれた雪見風呂。
遠く、ガラス戸の向こうで、レオの寝言が微かに聞こえる。
カオスで騒がしい日常の先に待っていた、この甘く穏やかなご褒美の時間。
俺は、この愛おしくて不器用な「迷い猫」の、雪で少し冷えた頬にそっと大きな手を添えた。
彼女は逃げることなく、ゆっくりと目を閉じる。
俺は、雪がふわりと溶けるように、静かに彼女の唇に自分の唇を重ねた。
冬の温泉旅行の夜は、忘れることのできない確かな熱を帯びて、しんしんと更けていった。




