第43話 真冬の温泉旅行計画
本格的な冬の刺すような寒さが東京をすっぽりと包み込み、街角にクリスマスのイルミネーションが点灯し始めた頃。
李雪課長のタワーマンションのリビングでは、一つの「黒い毛玉」が完全に溶けきっていた。
「……レオ。お前、犬としての矜持を忘れてないか?」
俺が呆れたように声をかけると、毛玉は「んふぅ」と気の抜けた鼻息を漏らした。
愛犬の豆柴、レオだ。
彼は今、リビングに新しく導入された薄型のパネルヒーターの真ん前で、前足を胸の下に綺麗に折りたたむ『香箱座り』の体勢になり、目を細めて気持ちよさそうにウトウトしている。
猫のような座り方で、温かい空気を全身の面積で受け止めているその姿は、野生の本能などとうの昔に失ってしまったかのようだ。
冬毛に生え変わってモコモコになった体が、ヒーターの熱でさらに膨らんで、まるで焦げたマシュマロのように見える。
「……いいじゃない。暖かい場所を真っ先に確保する能力は、生き物として優秀な証拠よ」
イタリア製のソファの上から、彼女がレオを庇うように言った。
彼女もまた、大きめのブランケットにくるまり、えんじ色の限界芋ジャージの上からさらに『着る毛布』をすっぽりと羽織っている。
見事なまでのインドア・完全防寒装備だ。
彼女は会社では、どんなトラブルが起きても寒さなど微塵も感じさせない「氷の女帝」として君臨しているが、プライベートの空間では誰よりも寒がりなのだ。
「優秀なのは認めるが、近づきすぎると自慢の毛が焦げるぞ。……ほら、レオ、少し下がれ」
俺がレオの体をヒーターから数十センチ引き離すと、彼は「なんでそんな冷酷な真似をするんだ」という非難の眼差しを向けてきたが、すぐにまた器用に香箱座りになって目を閉じた。
「……さて、迷い猫さん。今日はお祝いだ」
「お祝い?」
ブランケットから顔だけを出した彼女が、分厚いメガネの奥で不思議そうに首を傾げる。
「ああ。今日、冬のボーナスが振り込まれてただろ。……俺たち、今期もよく頑張ったからな」
「ああ、そういえばそうね。……来季の数字の組み立てのことばかり考えていて、自分の口座のことなんてすっかり忘れてたわ」
彼女は小さくため息をついた。
さすがはワーカホリックの鑑だ。俺は苦笑しながら、システムキッチンへと向かった。
「というわけで、今夜は少しリッチな晩酌にしよう」
俺が冷蔵庫から取り出したのは、ずんぐりとした豚の腿肉の塊だ。
イタリア産、『プロシュート・ディ・パルマ』の原木。骨を抜いてある、家庭でも扱いやすいサイズのものだ。
さらに、長くてよくしなる生ハム専用のスライサーナイフを用意する。
「……生ハムの、塊? すごい……そんなの個人で買う人、初めて見たわ」
彼女がブランケットを羽織ったまま、ミノムシのような歩き方で興味津々にキッチンへやってきた。
レオも「お肉だ!」と鋭く察知してヒーターの前から離れ、俺の足元でピョンピョンと跳ねている。
「スーパーで売っているスライス済みの生ハムも美味いが、切りたての香りと口溶けは全くの別格だからな」
俺はブロックの表面の硬い部分をペティナイフで薄く削ぎ落とし、美しい赤身と白い脂の断面を露出させた。
ここからが、マエストロの腕の見せ所だ。
生ハムは、薄ければ薄いほど良い。
空気を孕むように極薄にスライスすることで、口に入れた瞬間に舌の温度で脂が溶け、豚肉の甘みと熟成された塩気が爆発するのだ。
ナイフの刃を寝かせ、肉の繊維に沿って、滑らせるように、そして透き通るような薄さでスライスしていく。
スッ、スッ、という静かな音が響く。
切り出した生ハムは、まるでシルクの布のようにしなやかで、向こう側が透けて見えるほどだ。
「……綺麗。芸術的ね」
「これを、そのまま食べるのもいいが……今日は少しアレンジするぞ」
俺は薄く切ったパルマハムを、一口大にカットした完熟マンゴーに巻きつけた。メロンよりも酸味が少なく、ねっとりとした甘みがパルマハムの塩気を極限まで引き立てるのだ。
さらに、ルッコラと削りたてのパルミジャーノ・レッジャーノチーズをハムで巻き、上から数滴の極上オリーブオイルを垂らしたピンチョスも用意する。
「完成だ。……そして、これに合わせる酒は」
俺は冷蔵庫から、背の高いスタイリッシュなボトルを取り出した。
「……テキーラ?」
「ああ。『パトロン・アネホ』という、オーク樽で一年以上熟成させたプレミアム・テキーラだ。罰ゲームで一気飲みするようなものじゃないぞ」
俺は小ぶりのワイングラスに、琥珀色の液体を静かに注いだ。
バニラやキャラメル、そして蜂蜜のような甘い香りが立ち上る。
「テキーラと生ハムって、合うの?」
「テキーラは塩やライムと一緒に飲むのが定番だろ。つまり、パルマハムの熟成された『塩気』と、マンゴーの『甘み』、そしてルッコラの『苦味』。これら全てを、熟成テキーラの甘く芳醇な香りが優しく包み込んでくれるんだ」
俺たちはリビングのガラス張りのローテーブルにつき、グラスを合わせた。
「ボーナスに乾杯」
「乾杯」
彼女はまず、マンゴーの生ハム巻きを口に入れた。
その瞬間、彼女の目が驚きに大きく見開かれる。
「……んんっ! 溶けた……!」
彼女は口元を小さな手で覆った。
「ハムの脂が、口に入れた瞬間にスッと消えたわ。残るのは深い旨味と……マンゴーのトロピカルな甘さ。なにこれ、今まで食べてた生ハムと全然違う!」
「そこに、テキーラを少しだけ含んでみてくれ」
彼女はおそるおそるグラスに口をつけ、琥珀色の液体をほんの少しだけ味わった。
「……あ。……すごい。テキーラ特有のツンとしたアルコール感がなくて、バニラみたいな香りが鼻に抜ける。……生ハムの塩気が、テキーラの甘みを引き出してるのね」
「完璧なマリアージュだろ?」
俺もルッコラとチーズの生ハム巻きを食べ、テキーラをゆっくりと味わう。
強いアルコールが食道を熱く下っていくが、その後からくる樽の香りと熟成された甘みが、冬の寒さを内側からじんわりと溶かしていくようだ。
足元では、レオが「僕には?」という顔で見上げているが、これは塩分が強すぎるので、彼には茹でたキャベツと鶏のササミの特別ディナーを与えてある。
「……ふぅ。美味しい。……一週間の疲れが吹き飛ぶわ」
彼女はブランケットにくるまったまま、グラスを揺らして幸せそうに息を吐いた。
俺はそのリラックスした横顔を見ながら、ずっと考えていた提案を切り出した。
「迷い猫さん。ボーナスも出たことだし……今度の連休、どこかへ行かないか?」
「え? どこかって……旅行?」
「ああ。レオも一緒に泊まれる、ドッグラン付きの温泉宿を見つけたんだ」
俺がスマホの画面を見せると、彼女は身を乗り出して画面を覗き込んだ。
そこには、雪景色の山々を望む、趣のある静かな温泉旅館の写真が写っている。
各部屋に広い露天風呂がついており、愛犬と一緒に部屋食を楽しめるという、完璧な条件の宿だ。
「……素敵。雪を見ながら露天風呂……最高じゃない」
「だろ? 普段の激務の疲れを、温泉と美味い料理で癒やそう。レオにとっても、初めての遠出になるしな」
彼女の目がキラキラと輝く。
「……行く。絶対に行くわ。……師匠との旅行、すごく楽しみ」
彼女は頬をほんのりと赤らめ、テキーラをもう一口飲んだ。
俺も、彼女との初めてのお泊まり旅行に、胸の奥が高鳴るのを感じていた。
静かで、ロマンチックな、二人と一匹だけの温泉旅行。
最高の冬の思い出になるはずだ。
……この時点では、俺はそう信じて疑わなかったのだ。
★★★★★★★★★★★
数日後の金曜日の深夜。
俺たちはいつものコンビニエンスストアに併設された、防犯カメラのある明るく安全なテラス席にいた。
冬の夜の冷え込みは厳しいが、レジの長谷川さんが淹れてくれた温かいアールグレイの紅茶が、手元と胃袋を優しく温めてくれる。
俺と彼女は肩を寄せ合い、スマホの画面を覗き込んで、来週末に迫った温泉旅行の具体的なプランを練っていた。
会社のロビーやカフェなど、誰の目があるか分からない場所で不用意に検索をするような愚かな真似は、コンシェルジュとしてのリスク管理が絶対に許さない。秘密の相談は、この聖域でのみ行うのが鉄則だ。
「宿に着いたら、まずはレオをドッグランで思い切り走らせて、夕食の前に部屋の露天風呂だな」
「ええ。夕食の懐石料理も楽しみだわ。……あ、二日目は近くの雪原でスノーシュー体験ができるみたいよ。レオくんも一緒に雪の中を歩けるの」
「それは面白そうだ。レオの防寒着も新調しておかないとな」
二人で旅行の計画を立てる時間は、想像以上に甘く心地よい。
だが、そんな俺たちの平穏なひとときは、夜の闇を切り裂くようなラテンの旋律によって突如として破られた。
「Hola! Oso! Lee-san! こんな深夜に何してるのー?」
底抜けに明るい声と共に現れたのは、赤いウェーブヘアがトレードマークの外資系ロジスティクス担当、フェルナンダだった。
そしてその隣には、スペインのアパレルブランド担当、カルメン・ベガの姿もある。
夜遊び帰りなのか、冬だというのに二人とも体のラインが出るセクシーなドレス姿に、ファーのコートを羽織っている。
「うわっ、フェルナンダ、カルメン……。お前ら、こんな時間まで飲んでたのか」
「Yeah! 六本木で踊り明かしてきた帰りよ! ……で、お忍びの二人は、こんな寒空の下で何を見てるの?」
フェルナンダが、俺と彼女の間に割り込むようにして、テーブルの上のスマホの画面を覗き込んできた。
隠す暇もなかった。
「Oh! Winter Onsen!(冬の温泉!) 雪景色の露天風呂! Romanticね!」
「ちょっと待って、これペットもOKの宿じゃない! ……ということは、二人とレオくんで秘密のバカンスってわけ!?」
カルメンが目を輝かせ、流暢な日本語でまくし立てる。
太陽のようなこの二人は、以前ここでお互いの正体を知って以来、俺たちを完全に「公認のお忍びカップル」として扱い、面白がって見守ってくれている。悪意は微塵もないのだが、その圧倒的なパッションと巻き込み力は、時に台風以上の脅威となる。
「……まあ、たまにはお互いを労ってやろうかと」
俺が観念して白状すると、二人は顔を見合わせて「Kyaaaa!!」と歓声を上げた。
深夜の住宅街だ。頼むから静かにしてくれ。
「So romantic! 雪景色の温泉で、二人きりの甘い夜……! 日本のドラマみたいね!」
「ねえフェルナンダ、私たちもずっと日本の冬の『Onsen』に行きたいって言ってたじゃない!」
「Oh, yes! 最高のIdeaね! 私たちも行くわ!」
フェルナンダが俺の背中をバンバンと力強く叩いた。
「は!?」
「私たちも一緒に日本の冬を体験したいの! 同じ日程で、その宿の別の部屋を今すぐ予約するわ! Partyしましょ!」
カルメンもノリノリでスマホを取り出し、光の速さで検索を始めている。
冗談じゃない。俺と彼女の静かな旅行が、ラテンの狂乱フェスになってしまう。
「だ、駄目だ! これは完全にプライベートな旅行だし、あんたたちが来たらゆっくりできないだろ!」
「No problem!(問題ないわ!) 現地集合、現地解散よ! 昼間は一緒に雪遊びして、夜は完全別行動にしてあげる! 二人の甘い露天風呂の時間は絶対に邪魔しないって約束するわ!」
フェルナンダが悪戯っぽくウインクをしてくる。
このラテン娘たち、悪気がないだけに、一度火がついたら誰にも止められない。
俺が冷や汗を流していると、隣で黙っていた李雪課長が、深く、ひどく疲れたようなため息をついた。
「……はぁ。なんで私の貴重な癒やしの旅行が、多国籍ツアーみたいになるのよ」
彼女は分厚いメガネの奥で呆れたような目をしたが、その声に本気の怒りは混じっていなかった。
むしろ、彼女たちの裏表のない無邪気な明るさに、毒気を抜かれてしまったようだ。
「Lee-san! 一緒に行きましょう! 私、日本の雪合戦ってやつを全力でやってみたいの!」
「……勝手にしなさい。ただし、本当に夜は別行動よ。私たちの邪魔をしたら、宿の窓から雪山に放り投げるからね」
李雪課長が冷たく、しかし承諾の意を込めて言い放つと、ラテン連合は「Vamonos!(やったわね!)」とハイタッチをして飛び上がって喜んだ。
「じゃあ、来週の連休に現地でね! Adios!(アディオス!)」
嵐のような二人は、そう陽気に言い残して、タクシーを捕まえるために大通りへと消えていった。
後に残されたのは、冷めかけた紅茶と、頭を抱える俺たち二人だけだ。
「……すまない、迷い猫さん。俺がこんな無防備なところで画面を開いていたばかりに」
「あんたのせいじゃないわ。あの『嵐』の行動予測ができなかった私の責任よ。……でも」
彼女は紙コップを両手で包み込み、俺の方に少しだけ体を寄せた。
「……賑やかなのも、たまには悪くないわ。あんな風に、裏表なく『一緒に遊びたい』って強引に言ってくれる人、私には今までいなかったから」
彼女は少しだけ目を伏せた。
完璧主義で、他人を寄せ付けなかった彼女。
そんな彼女の懐に、土足で、しかし悪意なく踏み込んでくる彼女たちの存在は、実は彼女にとって少しだけ新鮮で、嫌なものではないのだろう。
「それに……」
彼女は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、隠しきれない強い独占欲が宿っている。
「……昼間はあの子たちに適当に付き合ってあげるけど。夜の露天風呂と……その後の時間だけは、絶対に邪魔させないから」
彼女は俺のパーカーの袖をキュッと掴み、耳まで真っ赤にして言った。
「……覚悟しておきなさいよ、師匠。夜は、私だけのコンシェルジュなんだからね」
「……ああ。期待してるよ、迷い猫さん」
俺は微笑んで、彼女の小さな手をそっと握り返した。
静かな雪見風呂のはずが、カオスなグループ旅行へと変貌を遂げた冬のバカンス。
前途多難ではあるが、この不器用で愛おしいパートナーと、元気な愛犬、そして騒がしい友人たちとの旅は、きっと忘れられない最高に刺激的なものになるだろう。
俺たちは冷たい冬の夜風の中で、互いの手の温もりを感じながら、少しだけ熱を帯びた未来の旅行に思いを馳せていた。




