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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第42話 観測者の祝福

 吐く息がはっきりと白く形を成すようになった、冬晴れの土曜日。

 俺は、人でごった返す渋谷のハチ公前広場で、一人の女性を待っていた。


「センパァ〜イ! お待たせしました!」


 人混みを縫って小走りで駆け寄ってきたのは、営業二課の直属の後輩、石井ミチルだった。

 今日の彼女は、深夜のコンビニで見かけたダボッとしたゲーマーパーカー姿でも、会社での愛嬌のあるオフィスカジュアルでもなかった。

 落ち着いたボルドー色のワンピースに、少しヒールのあるショートブーツ。茶色いボブヘアは毛先が綺麗に巻かれており、メイクもいつもより気合が入っている。

 すれ違う男たちが思わず目で追うような、洗練された「大人の女性」の休日スタイルだ。


「……随分と気合が入ってるな、石井」

「当然ですよ! 今日は私の『淡い失恋の傷を癒やすための慰労デート』なんですから! センパイ、一日しっかりエスコートしてくださいね!」


 彼女はビシッと人差し指を突きつけて、元気よく宣言した。

 そう、今日はミチルとの休日のお出かけだ。

 あの日、チゲ鍋パーティで俺と李雪課長の関係が一部の身内に公になって以来、ミチルは会社で少しだけ、元気がなかった。

 俺のことを「都合のいい、でも頼りになる優しい先輩」として慕ってくれていた彼女にとって、俺が「あの氷の女帝の秘密のパートナー」だったという事実は、名探偵としての敗北感以上の、少なからずチクリとしたショックを与えていたのだろう。


 昨夜、李雪課長のマンションでそのことを話すと、彼女は少しだけ気まずそうに目を伏せ、こう言ったのだ。


 『……あの子にショックを与えてしまったのは、私の責任でもあるわ。明日はセンパイとして、一日しっかり彼女のフォローをしてきなさい。……これは上司命令よ』


 不器用な彼女なりの、最大限の優しさと気遣い。

 だから今日、俺は李雪課長からの正式な「公認」と「特命」を受け、コンシェルジュとして、そして先輩として、ミチルのわだかまりを解くために付き合うことにしたのだ。


「はいはい。で、どこに行きたいんだ?」

「まずは腹ごしらえです! 新しくできたハワイアンパンケーキのお店、ちゃんと予約してあるんです!」


 ミチルは俺のコートの袖を軽く引き、足早に歩き出した。

 向かった先は、若い女性たちで行列の絶えない人気のカフェだった。

 運ばれてきたのは、生クリームとマカダミアナッツソースが山のように盛られた、暴力的なまでに甘そうなパンケーキだ。


「ん〜っ! 美味しい! 糖分が五臓六腑に染み渡りますぅ!」


 ミチルは頬をリスのように膨らませて、幸せそうにパンケーキを頬張った。

 そのいつものポンコツで無邪気な顔を見て、俺も少しホッとした。


「……なあ、石井。その、色々と黙ってて悪かったな」


 俺がブラックコーヒーを飲みながら切り出すと、彼女はフォークを止め、少しだけ真面目な顔になった。


「……正直、最初はめっちゃビックリしましたよ。だって、あの近寄りがたい氷の女帝と、うちのクマさんセンパイですよ? 天地がひっくり返ってもあり得ないって思ってましたから」

「……クマさんって」

「でも」


 ミチルはヘーゼルナッツ色の瞳で、俺を真っ直ぐに見つめた。


「あの夜、センパイが李雪課長を守るみたいに『大事なパートナーです』って言い切った時……ちょっとだけ、悔しかったし、寂しかったです」


 彼女は照れ隠しのように、パンケーキの上のイチゴをフォークでツンツンと突いた。


「私、センパイのこと、結構本気でカッコいいなって思ってたんで。……でも、あの時の李雪課長の顔、すごく可愛かった。会社では絶対に見せない、好きな人を頼りにしてる、普通の女の子の顔でした」


 ミチルの言う通りだ。

 あの時の彼女の、強がりで、不器用で、でも俺の背中に全幅の信頼を預けてくれた表情は、俺にとっても特別なものだった。


「だから、潔く諦めます! 私じゃ、あの二人の完成された空間の間には、絶対に入れないって悟りましたから!」


 ミチルはカラッとした笑顔を見せ、残りのパンケーキを豪快に口に放り込んだ。


「その代わり、仕事で私がミスした時は、これからも絶対フォローしてくれなきゃ嫌ですからね! 李雪課長に怒られたら、センパイの大きくて広い背中に隠れますから!」

「……調子に乗るなよ。少しは自分で解決できるようになれ」

「えへへー。それは努力目標ってことで!」


 明るく笑う彼女を見て、俺の肩の重い荷が完全に下りた気がした。

 後輩との健全なお出かけは、その後いくつかのセレクトショップでの買い物を経て、夕方には駅前で健全に解散となった。

 俺は「また月曜にな」と笑顔で手を振る彼女を見送り、俺の帰りを待ってくれているはずの場所へと向かった。


★★★★★★★★★★★


 すっかり日が落ち、冬の冷たい夜の帳が下りた頃。

 俺は冷えた手を擦り合わせながら、李雪課長のタワーマンションのエントランスを抜け、合鍵を使って静かにドアを開けた。


「……ただいま」

「ワンッ!」


 真っ先に出迎えてくれたのは、豆柴のレオだ。

 彼は短い尻尾をちぎれんばかりにプロペラのように振りながら、俺の足に飛びついてきた。リビングの隅に構築したレオ専用の安全ケージスペースのおかげで、俺が昼間出かけている間も、彼はこうして彼女の部屋で安全にお留守番ができるようになっている。

 俺がレオを抱き上げてワシャワシャと撫でていると、リビングの奥から、パタパタというスリッパの音がして李雪課長が顔を出した。

 今日の彼女は、えんじ色の限界芋ジャージに、達筆な筆文字で『泰然自若』と書かれたTシャツ姿だ。


「……おかえりなさい、師匠。随分と遅かったじゃない」


 彼女の声には、ほんの少しだけ隠しきれない棘がある。

 俺が留守の間、彼女がずっとレオの面倒を見てくれていたのだ。


「ごめん。ミチルの買い物に付き合ってたら、少し長引いてしまって。……レオの面倒、ありがとうな」

「別にいいわよ。レオくんは私がお昼寝してる間も、いい子でお利口にしてたから。……で? 慰労会は楽しかった? 若くて可愛い女の子と人気のパンケーキなんて、さぞかし甘くて最高だったでしょうね」


 彼女は腕を組み、分厚いメガネの奥のジト目で俺を睨んだ。

 自分が「行ってきなさい」と指示を出したにもかかわらず、いざ俺が一日帰ってこないと、こうして分かりやすい嫉妬を見せる。

 だが、俺たちの関係が公認になった今、その嫉妬すらもどこか余裕を含んだ、じゃれ合いのような心地よいものに感じられる。


「パンケーキより、俺はあんたと一緒に食べる深夜の夜食の方が好きだけどな」


 俺が夜の『契約』に基づいたタメ口で、大人の余裕を持ってサラリと言うと、彼女は「……口が上手いんだから」と顔を赤らめ、照れ隠しにそっぽを向いた。


「……でも、あの子、元気になった?」


 彼女がレオの頭を撫でながら、ボソリと尋ねてきた。

 強がってはいるが、彼女もミチルのことをずっと心配していたのだ。自分の部下であり、そして自分の「秘密」のせいでショックを与えてしまった相手だからだ。


「ああ。すっかり吹っ切れたみたいだ。むしろ、『これからも仕事のフォローは頼む』って念押しされたよ。あんたに怒られたら、俺の背中に隠れるそうだ」

「……そう。あの子らしい図太さね。明日からは容赦なくしごいてやるわ」


 李雪課長はホッとしたように小さく息を吐き、レオの背中を優しく撫でた。

 わだかまりは、もう何もない。

 俺たちは冷蔵庫の余り物で夕食を軽く済ませ、レオと遊んだり、ソファで並んでテレビを見たりして、のんびりと夜が更けるのを待った。


 そして、時計の針が24時を回った。


「……久しぶりに、行くか?」


 俺が立ち上がって声をかけると、李雪課長も嬉しそうにコクリと頷いた。


「ええ。……あの場所で、報告しなきゃいけない『観測者』もいるしね」


★★★★★★★★★★★


 俺たちは、いつものようにラフな格好でマンションを出た。

 冬の夜風は冷たく、ダウンコート越しでも肌を刺すような寒さだ。

 だが、今までと決定的に違うことが一つあった。

 俺たちはもう、会社の人間に見つかることを極度に恐れて、コソコソと隠れるように歩く必要はない。

 自然な流れで、俺の大きな手と彼女の小さな手が触れ、そして指が絡み合った。

 繋いだ手から伝わる確かな温もりが、冬の夜の寒さをじんわりと和らげてくれる。


 深夜24時15分。

 いつものコンビニエンスストア。

 自動ドアをくぐると、深夜特有の静けさと、おでんの出汁の匂いが俺たちを迎えた。


 レジカウンターの中には、いつものようにアンニュイな店員、長谷川さんが立っていた。

 彼女は俺たちが入ってきたのを見ると、手元の作業を止め、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、俺たちの「堂々と繋がれた手」と、もはや隠そうともしない互いの親密な気配に視線を落とし、ふわりと、心からの柔らかな微笑みを浮かべた。


「……いらっしゃいませ。マエストロ、黒猫さん」

「こんばんは、長谷川さん」

「……こんばんは」


 俺たちが挨拶をすると、長谷川さんはカウンターから出てきて、少しだけ頭を下げた。


「……お二人の醸し出す空気の『色』が変わりましたね。以前のような、見えない細い糸で縛られたような危うい緊張感が消えて……今はとても、穏やかで強い色をしています」


 彼女は、あのスケッチブックの夜と同じ、すべてを見透かしたような芸術家の瞳で俺たちを見た。


「嵐が過ぎ去り、お二人の奏でるアンサンブルが、ついに表舞台に出たのですね」


 長谷川さんは詩的な表現で、俺たちの関係の進展を察知し、祝福してくれた。

 彼女は、俺たちがただの他人を装っていた一番最初の夜から、この関係を静かに見守り続けてくれた、大切な「観測者」だ。

 彼女の言葉には、深夜の冷たいコンビニの空気を温めるような、不思議な力があった。


「あの、長谷川さん。今まで、色々と気を遣っていただいて……ありがとう」


 李雪課長が少し照れくさそうに頭を下げると、長谷川さんは目を細めた。


「お礼など不要ですよ。私はただ、極上のリアリティショーを楽しませていただいた一観客に過ぎませんから」


 そう言うと、長谷川さんはバックヤードに少しだけ戻り、小さな白いケーキ箱を取り出してきた。

 それを、そっと俺たちの前に差し出す。


「……これは?」

「お二人の新しい門出への、私からのささやかなお祝いです」


 長谷川さんは意味深に、赤い唇の端を吊り上げてウインクをした。


「……廃棄弁当ではありません。私のお手製です。……マエストロの肥えた舌を満足させられるかは分かりませんが」

「長谷川さんの、手作り……?」


 俺は驚きながら、その白い箱を受け取った。

 ずしりと、確かな重みがある。

 深夜のコンビニ店員でありながら、どこか才能ある芸術家のようなミステリアスな空気を纏う彼女の手作りスイーツ。

 一体、どんな味がするのだろうか。


「ありがとう。……大切にいただくよ」

「ええ。……またのお越しを。お二人とも」


★★★★★★★★★★★


 極寒の冬の深夜。

 外の公園のベンチでこれを食べるのは、コンシェルジュの絶対の安全基準に反する。

 俺は長谷川さんに「せっかくだから、あそこのイートインスペースで少し頂いてもいいか?」と許可を取り、俺たちは明るく暖かい店内のイートインコーナーへと腰を下ろした。防犯カメラもあり、安全と暖かさが担保された完璧な空間だ。


「さて、極上のケーキには、それに負けない極上のペアリングが必要だな」


 俺はレジのカフェマシンに向かい、自分と彼女の分の温かい飲み物を淹れた。

 用意したのは、香りの高い『アールグレイ』のホットティーだ。


「極寒の外から入ってきた冷えた体に、冷たいケーキだけでは胃が驚いてしまうからな。それに、このベルガモットの華やかな香りが立つ温かい紅茶が、ケーキの甘さを完璧に引き立ててくれるはずだ」

「……さすがマエストロ。完璧なペアリングね」


 李雪課長は感心したように頷き、俺たちはテーブルの上で、長谷川さんからもらったケーキ箱を慎重に開けた。


「……わぁ」


 李雪課長が感嘆の声を漏らす。

 中に入っていたのは、息を呑むほど美しい、ドーム型のムースケーキだった。

 深夜の星空を切り取ったかのような、深い瑠璃色のグラサージュ。

 その表面には、金粉が天の川のように美しく散りばめられている。

 コンビニの店員が趣味で作ったとは到底思えない、まるで高級パティスリーのショーケースの主役を張れるような、芸術作品のようなケーキだ。


「……食べるのがもったいないくらい綺麗ね」

「ああ。でも、食べない方が失礼だろ」


 俺は箱に入っていたプラスチックのフォークを彼女に手渡した。

 俺たちは、美しい瑠璃色のドームに、そっとフォークを入れた。


 外側のコーティングは、少しビターな大人のチョコレート。

 中には、爽やかな酸味のあるカシスとラズベリーのムース、そして一番下にはサクサクとしたアーモンドのサブレ生地が隠れていた。


「いただきます」


 口に入れた瞬間。

 濃厚なチョコレートの深い甘みと、ベリーの鮮烈な酸味が、口の中で完璧なハーモニーを奏でた。

 サブレの香ばしい食感が、滑らかなムースの最高のアクセントになっている。

 そこに、俺が淹れた温かいアールグレイの紅茶を一口含む。

 ムースの冷たさと脂分が温かい紅茶でスッと溶け、ベルガモットの香りがベリーの酸味と絡み合い、口の中が最高に華やかな余韻で満たされた。


「……んっ! すごい……美味しい!」


 李雪課長が目を輝かせた。


「甘すぎず、酸っぱすぎず……絶妙なバランスね。これ、本当にお店で出せるレベルよ」

「……長谷川さん、ただ者じゃないな。紅茶との相性も計算し尽くされてるみたいだ」


 俺もその味の凄まじい完成度に舌を巻いた。

 彼女が本当は何者なのか、詳しくは知らない。

 だが、このケーキに込められた繊細さと美しさは、彼女が俺たちの関係をどれほど好ましく、美しく見てくれていたかの、確かな証のような気がした。


 俺たちは肩を寄せ合い、暖かなイートインスペースで、その特別なケーキを温かい紅茶と共に少しずつ分け合って食べた。

 会社でのトラブルも、ライバルたちの騒がしさも、今は遠い。


「……ねえ、師匠」


 李雪課長が、ケーキの最後の一口を飲み込んで言った。


「ん?」

「秘密じゃなくなっても、またここに来てもいいかしら?」


 その少し不安そうな上目遣いに、俺は優しく微笑んで答えた。


「もちろんだ。……あんたが夜食を求める限り、俺はあんたの専属コンシェルジュだからな」


 俺の言葉に、彼女は心の底から安心したように、俺の広い肩に、こてんと自分の頭を預けてきた。


「……よかった。この安息の時間がなくなるのが、一番怖かったから」


 ジャージ姿の彼女の体温が、じんわりと伝わってくる。

 隠れる必要のある「秘密の共犯関係」は終わった。

 だが、俺たちだけの「美味しい夜」は、これからもずっと続いていく。

 窓ガラス越しに見上げた冬の空には、長谷川さんのケーキと同じように、美しい星が澄んだ光を放って輝いていた。

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