第40話 公認カップルの朝
あの日、チゲ鍋を囲んだカオスな週末の宴から一夜が明けた。
月曜日の朝。
俺は、野暮ったい黒縁メガネをかけ、前髪を下ろし、いつも通り「冴えない社畜」の擬態を整えて営業二課のフロアに足を踏み入れた。
だが、俺の心の中は、これまでの重苦しい月曜の朝とは全く違う、奇妙な高揚感と少しの緊張感に包まれていた。
デスクに着くなり、隣の席からキャスター付きの椅子がけたたましい音を立てて滑ってきた。
入社二年目の後輩、石井ミチルだ。
彼女のヘーゼルナッツ色の瞳は、これまでにないほどキラキラと輝き、完全に「全てを知る者」の特大のニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「おはようございます、センパーイ! いやぁ、昨日の週末は色々と『熱かった』みたいですねぇ!」
「……声が大きいぞ、石井。周りに聞こえるだろ」
俺が周囲を警戒して小声で嗜めると、ミチルは口元で人差し指をクロスさせて見せた。
「大丈夫ですよぉ。私と山下課長で、『この特大のゴシップとニヤニヤは、私たちだけの胸にしまっておこう』って、昨日の帰りに固く誓い合ったんですから。……あの鉄仮面を落とした猛獣使いが身内にいたなんて、未だに信じられませんけど」
ミチルは面白がって俺の太い二の腕をツンツンと突いてくる。
どうやら、彼女のスピーカー能力はギリギリのところで理性に制御されているらしい。山下課長も義理堅く秘密を守ってくれているようだ。
「でも、ホントびっくりしましたよ。いつもは気配消してて、怒られてばっかりのセンパイが、実は深夜の超絶イケメンで、しかも李雪課長と……! くぅーっ! 小説のネタにしても現実味がないってボツにされるレベルですよ!」
「頼むから、仕事に集中してくれ。……それに、同棲してるわけじゃない。週末に、少し互いの家を行き来してるだけだ」
「はいはい、ごちそうさまですぅ! 私だけじゃないですよ! 物流の前田さんや山下課長だって、面白がってあちこちで匂わせてましたし」
ミチルがからかうように笑った、その時だった。
カツカツ、という聞き慣れた、そしてフロアの空気を一瞬で凍りつかせる硬質なヒールの音が響いた。
「……おはようございます」
李雪課長だ。
ダークネイビーのパンツスーツに、完璧にセットされた黒髪の夜会巻き。
分厚いメガネの奥の切れ長の瞳は、一切の感情を読み取らせない、いつもの「氷の女帝」のそれだった。
彼女がフロアの奥の課長席へと歩を進めると、周囲の社員たちは慌てて背筋を伸ばし、自分のPCモニターに視線を戻した。
俺とミチルも、即座に私語を切り上げて業務の態勢に入る。
李雪課長は自席に座ると、バインダーを開き、鋭い視線をフロア全体に向けた。
そして、真っ直ぐに俺を見た。
「……橋本主任補佐」
「は、はいっ!」
「先週金曜に提出させた市場調査のレポートだけど、数字の考察が浅すぎるわ。このデータから導き出される仮説が、あまりにも一般的すぎて説得力に欠ける。今日の午後までに、別角度からの分析を加えて出し直しなさい」
容赦のない、冷徹なダメ出し。
その声のトーンは、昨夜の宴などどこ吹く風と言わんばかりの、見事なまでの通常運転だった。
周囲の社員たちが、「朝から橋本さんが詰められてる」と同情するように息を潜める。
「……申し訳ありません。すぐに見直します」
俺が深く頭を下げると、彼女は手元の資料に目を落としたまま、冷ややかな声に、ほんの微かな温度を乗せて付け加えた。
「……でも、最終ページのターゲティングのロジックは、貴方らしくて悪くないわ。そこを軸にして、全体を再構築しなさい」
「……はい。承知いたしました」
俺は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
厳しい叱責の中に隠された、俺の仕事に対する確かな信頼のサイン。
テーブルの下で足を蹴り合ったり、誰かに分かるような露骨なアイコンタクトを送ったりするような、そんな安っぽい真似はしない。
仕事のクオリティを厳しく求め合うプロフェッショナルとしての顔と、その根底にある互いへの絶対的な信頼。
それが、俺たちの大人の関係だった。
横を見ると、ミチルが「くぅ〜、たまらん!」という顔をして、キーボードに突っ伏して身悶えしていた。
観測者がいるというのは、少しだけ恥ずかしく、そしてやりづらいものだ。
★★★★★★★★★★★
その日の定時後。
俺たちは、社内の目を気にして、いつものように時差退勤をした。
行き先は、もちろん同じ。李雪課長のタワーマンションだ。
俺は一度自宅に戻ってレオの世話と散歩を済ませ、レオをキャリーバッグに入れてから彼女のマンションへと向かった。
いくら合鍵を持っているとはいえ、チリ一つない彼女の部屋に子犬を長時間放置することは、コンシェルジュとしての安全基準が許さないからだ。
俺が合鍵で重いドアを開けて中に入ると、キャリーバッグの中からレオが「早く出せ」とばかりに元気な鳴き声を上げた。
「ただいま、レオ。もう出してやるからな」
俺がジッパーを開けてやると、キャリーバッグから出た豆柴のレオは、タタタタッと爪を鳴らして一直線にリビングへと駆け出していった。
そのすぐ後から、えんじ色の限界芋ジャージに着替えた李雪課長が、キッチンから顔を出した。
今日のTシャツの文字は『大団円』。昨夜の鍋パーティーの余韻を引きずっているらしい。
彼女の手には、俺がお揃いで買ったあの『琥珀色のマグカップ』が握られている。
「おかえりなさい、師匠。レオくんも。……お疲れ様」
「ただいま、迷い猫さん。お疲れ」
会社でのあの冷徹な態度はどこへやら。
彼女はふにゃりとした、無防備な笑顔で俺を迎えてくれた。
このギャップ。これがたまらないのだ。
「……今日、会社で少しやりすぎたかしら? あの子たちのニヤニヤした視線、痛いくらいだったわ」
「まあ、ミチルと山下課長にとっては、最高のエンターテインメントだろうからな。……でも、あんたのあの厳しいダメ出しのおかげで、いつも通りに引き締まったよ。ありがとう」
「ふふ。公私混同はしない主義だからね」
彼女は少し照れくさそうに笑い、俺の足元で尻尾を振るレオの頭を撫でた。
「さあ、お腹ぺこぺこよ。昨日は皆でワイワイお鍋だったけど、今日は二人きりだし、師匠の特別なご飯が食べたいわ」
「約束通り、今日は少し手間のかかるものを作るよ。……中東の風を吹かせよう」
俺はジャケットを脱ぎ、袖を捲り上げてキッチンに立った。
今夜のメニューは、『シシカバブ』だ。
プロ顔負けの、本格的なスパイスを使った串焼き肉。
スーパーで挽き肉ではなく、ラム肉のブロックを買ってきて、自分で粗めに叩くところから始める。
こうすることで、肉の食感とジューシーさが格段に増すのだ。
ボウルに、細かく叩いたラム肉、みじん切りにして水気をしっかりと絞った玉ねぎ、すりおろしたニンニクと生姜を入れる。
そして、ここからが魔法の粉の出番だ。
「……すごい数の小瓶ね」
李雪課長が、キッチンのカウンター越しに興味深そうにスパイスを見つめている。
「クミンパウダーを大さじ一。コリアンダー、カルダモン。そして色付けと甘い香りのためのパプリカパウダー。辛味のチリペッパーと、隠し味に少量のシナモンとナツメグを入れる」
「シナモン? お菓子に使うやつよね?」
「ああ。肉の臭みを消して、奥深いエキゾチックな香りを引き出してくれるんだ」
塩と黒胡椒を加え、粘りが出るまで手でしっかりと練り込む。
スパイスの複雑でスパイシーな香りが、すでにキッチンを満たし始めている。
「これを、金串に握りつけるようにして刺していく」
俺は平たい幅広の金串を取り出し、肉ダネを細長く、波打つような形に成形しながらしっかりと巻きつけた。
「……なんだか、本物の職人みたいね」
「伊達に深夜の『マエストロ』や『師匠』と呼ばれてないからな」
俺はフライパンを熱し、少し多めの油を引いて金串を並べた。
ジュワアアアッ!
ラム肉の脂が落ち、スパイスが熱で焼ける強烈に香ばしい匂いが立ち上る。
クミンのカレーにも似た香りと、ラム特有の野性味のある匂いが、食欲中枢を直接殴りつけてくる。
「……いい匂い。お腹が鳴りそう」
李雪課長がごくりと喉を鳴らす。
「もう少しだ。……その間に、ペアリングの準備をしよう」
俺は冷蔵庫から、よく冷えた白ワインのボトルを取り出した。
「お肉なのに、白ワイン?」
「ああ。『ソーヴィニヨン・ブラン』という品種の、スッキリとした辛口の白ワインだ」
「赤じゃないのね」
「シシカバブのようにスパイスをふんだんに使い、レモンを絞って食べる料理には、重たい赤ワインよりも、ハーブのような青々しい香りとキレのある酸味を持つ白ワインの方が合うんだ。スパイスの風味と同調して、最高のマリアージュを生み出してくれる」
俺はワイングラスに、透き通った液体を注いだ。
その間に、シシカバブもこんがりと美しい焼き色をまとって完成した。
「待たせたな。特製シシカバブだ」
皿にちぎったレタスとトマトを敷き、その上に金串ごと豪快に盛り付ける。
カットしたフレッシュなレモンを添えて、テーブルへ運ぶ。
「……うわぁ、本格的。いただきます!」
李雪課長は串の端を持ち、豪快に肉にかぶりついた。
熱々の肉汁が弾け、クミンとコリアンダーの香りが鼻に抜ける。
粗挽きのラム肉は、噛みごたえがあり、噛むほどに旨味が溢れ出してくる。
「……んんっ!! なにこれ、すごい! 外はカリッとしてるのに、中は信じられないくらいジューシー! スパイスが効いてて、ラムの臭みが全然ないわ!」
「レモンをたっぷり絞ると、さらにさっぱりして美味いぞ」
俺の言葉に従い、彼女はレモンを絞って二口目を頬張る。
そして、グラスの白ワインを口に含んだ。
「……あ」
彼女が分厚いメガネの奥の目を丸くする。
「……ワインのキリッとした酸味が、口の中のスパイスと混ざり合って……すごく爽やか! お肉の脂もすっきり流れて、もう一口無限に食べたくなるわ」
「だろ? これが俺の選んだペアリングだ」
俺もシシカバブを串から外し、白ワインと共に楽しむ。
強烈なスパイスのパンチを、キレのある白ワインが優しく受け止め、見事に味を引き立てている。
「……ふぅ。今日も最高だったわ」
数本の串を平らげた李雪課長は、満足げに息を吐き、ワイングラスを傾けた。
彼女の頬は、アルコールのせいか、ほんのりと桜色に染まっている。
「……会社でのあんな冷たい態度と、ここでの顔。どっちが本当のあんたなんだろうな」
俺が大人の余裕を持って意地悪く言うと、彼女はジト目で俺を見た。
「どっちも私よ。……でも」
彼女はグラスをテーブルに置き、俺の隣にすり寄ってきた。
そして、俺の広い肩にコテンと頭を乗せる。
シャンプーの甘い香りと、白ワインのフルーティーな匂い。
「……この『迷い猫』の無防備な顔を見せられるのは、世界で貴方だけよ。……それは、分かってるでしょ?」
「ああ。光栄に思ってるよ」
俺は彼女の小さな肩を、そっと抱き寄せた。
足元では、レオが「僕にも肉をくれ」とキュンキュン鳴いている。
仕方ない、明日のおやつは少し豪華にしてやろう。
周囲に秘密がバレて、公認の仲となった俺たち。
だが、この夜の静かで甘い時間は、誰にも邪魔されない、俺たちだけの神聖なものだ。
俺は彼女の温もりと、スパイスの心地よい余韻を感じながら、この騒がしくも愛おしい日常が、これからもずっと続いていくことを確信していた。




