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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第39話 第三の来訪者

 木枯らしが吹き始め、本格的な冬の足音がすぐそこまで聞こえてきた、週末の日曜日。

 俺は、李雪課長のタワーマンションのピカピカのキッチンで、今夜の夕食の仕込みをしていた。


 本日のメニューは、体の芯から温まる『特製・海鮮チゲ鍋』。

 大ぶりの渡り蟹、ぷりぷりの牡蠣、淡白なタラ、そして甘みのある豚バラ肉。海と陸の濃厚な旨味を、コチュジャンと粉唐辛子を効かせた特製スープでじっくりと煮込む、スタミナ満点の鍋だ。


「……よし、出汁の加減はこんなもんか」


 小皿で味見をして、小さく頷く。

 チリ一つないモデルルームのようなリビングに目を向けると、彼女がイタリア製のソファで分厚い洋書を読み、その足元で豆柴のレオが丸くなって気持ちよさそうに眠っている。

 完全に「休日のお父さん」のような立ち位置だが、この穏やかで温かい時間が、俺はどうしようもなく好きだった。


「……迷い猫さん。ちょっと買い出しに行ってくる。えのきとニラを買い忘れた」


 俺がエプロンを外しながら夜の契約に基づくタメ口で声をかけると、彼女は本から顔を上げ、小さく頷いた。


「いってらっしゃい。外、冷えるから気をつけてね」

「ああ。すぐ戻るよ」


 俺は財布とエコバッグを持ち、マンションを出た。

 冷たい風が頬を刺す。いつもの「オフモード」の格好――ダボッとしたパーカーにジーンズ、そして視力を偽装する伊達メガネはかけない、本来の俺の姿――で、近くの大型スーパーへと向かった。


 スーパーの野菜コーナーで、新鮮なえのきとニラをカゴに入れた、その時だった。


「あ! ドラえもん!」


 背後から、聞き覚えのあるハスキーで元気な声が響いた。

 ビクッとして振り返ると、そこには赤い上質なダッフルコートに身を包んだ、華やかな女性が立っていた。

 パッチリとした大きな瞳。営業一課の「炎の女王」こと、山下恭子課長だ。

 今日はラフな部屋着ではなく、しっかりとお洒落をしてお出かけモードらしい。


「山下課長……。こんにちは」

「奇遇ね! こんな昼間のスーパーで会うなんて。いつも深夜のコンビニの暗がりでしか会わないから、明るい太陽の下だと新鮮だわ」


 山下課長は人懐っこい笑顔で、俺の隣に並んだ。

 彼女の買い物カゴには、高級なフルーツの盛り合わせと、栄養ドリンクが数本入っている。


「買い出しですか?」

「ええ。この後、ちょっと『お見舞い』に行くのよ。……ドラえもんこそ、今日は随分と家庭的ね。えのきにニラって、お鍋?」

「はい。海鮮チゲ鍋を作ろうかと」

「いいわねー! 寒い日のお鍋、最高じゃない!」


 山下課長は楽しそうに俺のカゴを覗き込む。

 そのまま、彼女は「ついでにお酒も見繕ってよ」と俺のパーカーの袖を引き、酒類コーナーへと向かった。

 なんだか、休日の夫婦の買い出しのような空気になってしまっているが、彼女には他意はないのだろう。


「これなんかどうかしら? チゲ鍋に合う?」

「そうですね……チゲの強い辛さと魚介の旨味には、すっきりしたマッコリか、少し甘みのあるチューハイが合いますよ」

「さすが深夜のマエストロ! じゃあこれにするわ」


 山下課長は機嫌よく酒をカゴに放り込んだ。

 レジを済ませ、スーパーを出る。

 俺がエコバッグを提げて歩き出すと、彼女は俺の少し前を歩きながら、振り返ってフフッと笑った。


「……なんか、こうして並んで歩いてると、デートみたいね」

「デート、ですか」

「そうよ。ガタイのいいイケメンが荷物を持ってくれて、隣を歩く。……完璧な休日デートじゃない?」


 彼女は悪戯っぽくウインクをした。

 会社での「鬼軍曹」の顔を知っているだけに、この無防備な甘え方は少し心臓に悪い。

 もし俺が本当の「正体不明の男」なら、間違いなく勘違いしていただろう。


「……光栄です。でも、お見舞いに行くんでしょう? 方向、同じですか?」

「あ、そうなのよ。この先の、あの駅前のタワーマンション」


 山下課長が指差した先を見て、俺の歩みがピタリと止まった。

 そこは、今まさに俺が帰ろうとしている、李雪課長のマンションだ。


「……あの、タワマンですか?」

「ええ。実はね、会社の同期……というか天敵なんだけど、そいつが住んでるの」


 山下課長は、少しだけ心配そうな顔をして溜息をつきながら説明を始めた。


「ほら、金曜日に上海支社との大規模な通信トラブルがあったじゃない? あいつ、責任感が異常に強いから、絶対に誰にも頼らずに一人で徹夜に近い状態で対応してたはずなのよ。……意地張って倒れられたら私の張り合いがないから、この高級フルーツを無理やり押し付けに行ってやるの」

「事前に連絡はされたんですか?」

「アポなんて取ったら『不要です』って即答でシャットアウトされるに決まってるじゃない! だから抜き打ちの突撃よ!」


 俺の背筋に、冷たい汗が流れた。

 金曜の夜のあの非常事態。山下課長はライバルである李雪課長の無理を本気で心配し、今日わざわざ休日に見舞いに来たというのか。

 犬猿の仲だと言いながらも、その義理堅さと不器用な優しさに、俺は胸を打たれた。

 だが、状況は最悪だ。


「で、ドラえもんはどっちの方なの?」

「あ、ええと……俺も、そのマンションの方向に用が」

「あら! じゃあ途中まで一緒に行きましょ!」


 逃げ場がない。

 俺は絶望的な気分で、山下課長と共に歩き出した。


★★★★★★★★★★★


 マンションのエントランスに到着した。

 重厚なオートロックの自動ドアの前で、山下課長はインターホンのパネルを操作しようとした。

 俺は少し離れた場所で、どうやってこの場をやり過ごすか、頭をフル回転させていた。

 俺がここで合鍵を出して入れば、即座に不審に思われる。かといって、彼女と一緒に中に入れば、行き先が最上階の李雪課長の部屋だとバレるのは時間の問題だ。


 その時だった。


「……あ、山下課長!」


 背後から、不意に若い女性の声が響いた。

 振り返ると、そこにはベージュのダッフルコートを着た、小柄なボブヘアの女性が立っていた。

 入社二年目の後輩、石井ミチルだ。


「えっ? 石井さん? なんでこんな所にいるの?」


 山下課長が驚いて振り返る。

 俺は息を呑んだ。なぜミチルがここに? まさか、スーパーからずっと俺の後をつけてきたのか?


「えへへ……ちょっと、李雪課長に急ぎで確認したい資料の件がありまして。お住まいがこの辺りだと聞いていたので……」


 ミチルは愛想笑いを浮かべながら誤魔化したが、そのヘーゼルナッツ色の瞳は、山下課長の背後にいる「伊達メガネをしていない俺」を、射抜くように真っ直ぐに捉えていた。

 休日の俺の動向を、彼女は執念で尾行してきたのだ。

 彼女の目には、「逃がしませんよ」という名探偵の鋭い光が宿っている。

 完全に、マークされていた。


「ふーん……熱心ね。私も今からあいつの所に行くのよ。一緒に入る?」

「はい! お願いします!」


 山下課長が李雪課長の部屋番号を押し、インターホンを鳴らす。


『……はい』


 スピーカーから、少し低血圧気味の、冷ややかな美声が響いた。


「私よ、山下。近くまで来たから、お見舞いのフルーツ持ってきたわ。あと、うちの二課の石井さんも一緒よ」

『……は? 山下と、ミチルさんが? なんで……』


 インターホンの向こうで、彼女が完全にパニックに陥っているのが分かった。

 だが、エントランスのカメラには山下課長とミチルの姿が映っている。居留守を使うわけにはいかない。


『……分かったわ。開けるから、上がってきて』


 ウィーン、という音と共に、重厚なオートロックの扉が彼女の操作によって開いた。

 山下課長とミチルが中へ入る。

 俺は一瞬逃げようかと考えたが、ミチルが振り返り、俺の袖をガシッと掴んだ。


「ほら、お兄さんも一緒にどうぞ。……用事、あるんですよね?」


 有無を言わさぬミチルの圧力に引きずられ、俺は二人と共にエレベーターに乗り込んだ。

 最上階へ向かう箱の中、俺の心拍数は限界まで上昇していく。

 このまま李雪課長の部屋の前で「偶然」を装うことは不可能だ。


 チン、と到着の音が鳴る。

 最上階の、一番奥の角部屋。


「ここね」


 山下課長がインターホンを押す。

 ガチャリとドアが開き、部屋着姿に黒縁メガネをかけた李雪課長が顔を出した。


「……何の用かしら。私はすっかり元気よ」


 氷の女帝のオーラで二人を威圧しようとした彼女の言葉が、途切れる。

 彼女の視線が、山下課長とミチルの背後にいる、エコバッグを持った俺を捉えた。


「……は?」

「……えっ?」


 李雪課長と山下課長。

 氷の女帝と、炎の女王。

 二人の視線が交錯し、玄関の空気が一瞬にして凍りついた。


「ちょっと鉄仮面……なんでアンタの部屋の前に、ドラえもんがいるのよ!?」


 山下課長がパニックに陥り、俺と李雪課長を交互に指差す。


「……ドラえもん? 橋本、どういうことかしら、これは」


 李雪課長の目が、絶対零度の吹雪を纏って俺を睨みつけた。

 橋本、と言ってしまった。山下課長の前で。


「橋本……? え、ドラえもんが、橋本くん? 嘘でしょ!?」


 山下課長が悲鳴のような声を上げる。

 もう、誤魔化しは効かない。

 俺が覚悟を決めて口を開こうとした、その時だった。


「……やっぱり、私の推理は完璧でしたね!」


 ミチルが、山下課長の横からスッと前に出た。

 彼女は得意げな、そして少し震える声で叫んだ。


「橋本センパイ! そして李雪課長! ……もう、言い逃れはできませんよ!」


 全員の視線がミチルに集中する。


「ミチル……お前、なんで……」

「今日、センパイが家を出るのをずっと張ってました! センパイは休日の買い出しにしては遠出しすぎだし、何より……」


 ミチルは探偵のような鋭い目で、俺たちを指差した。


「柔軟剤の匂い。マグカップの持ち方の癖。そして、深夜のコンビニですれ違った時の、首を傾げる仕草と、男性の袖を掴むその指のペンだこと爪の形! 全てが、私のゲーマーとしての動体視力と日々の記憶の中で、一本の線に繋がりました!」


 ミチルは息を吸い込み、決定的なセリフを放った。


「深夜のコンビニで、ジャージ姿で一緒にいた見知らぬイケメンカップル……。その正体は、ウチの会社の冴えない橋本主任補佐と、冷徹な李雪課長だった!! これが真実ですね!?」


 静寂。

 玄関先に集まった全員が、息を呑んだ。


 山下課長は、俺の顔と李雪課長を交互に見比べ、ついにその場にへたり込みそうになった。


「うそ……。私の飲み友達のドラえもんが……あの、図体ばかりデカくて覇気のない、橋本くんだったの……? しかも、鉄仮面と……付き合って……?」

「付き合ってるとは言ってないでしょ!」


 李雪課長が顔を真っ赤にして反論する。

 俺が長年守り続けてきた「社畜の擬態」も、彼女の「完璧な上司」という仮面も、そして二人の「秘密の聖域」も。

 全てが、白日の下に晒された瞬間だった。


「……はぁ」


 俺は深く、長く、ため息をついた。

 もう、どうにでもなれ。

 先日、二人でおでんを食べながら決めた覚悟。

 俺は、前髪をかき上げ、あえて堂々と胸を張って、会社での猫背の「橋本」のオーラを完全に捨て去った。

 そして、真っ直ぐにミチルと山下課長を見た。


「……その通りだ。深夜のコンビニで、李雪課長に夜食を見繕っていたのは俺だ」

「ひゃっ……! セ、センパイ、声が低くてイケボに……!」


 ミチルが後ずさる。


「山下課長も、黙っててすみません。……貴女の深夜の話し相手のドラえもんは、俺です」

「信じられない……。なんで会社であんなにオーラ消してるのよ……」


 俺は振り返り、李雪課長を見た。

 彼女は俯き、小さな拳を握りしめている。

 部下やライバルに、自分の最大の秘密がバレてしまったのだ。完璧主義の彼女のプライドはズタズタかもしれない。


 俺は彼女の隣に立ち、その小さな肩を、俺の大きな手でそっと抱き寄せた。


「……でも、これだけは言っておきます」


 俺はミチルと山下課長を見渡し、はっきりとした声で、力強く言い放った。


「彼女は、会社では誰よりも厳しく、そして誰よりも真剣に仕事に向き合っている。……だからこそ、夜のプライベートな時間くらいは重い鎧を脱いで、俺の作る夜食で安らいでもらいたかったんです」


 俺の言葉に、李雪課長がハッとして顔を上げた。

 そのメガネの奥の瞳には、微かに涙が滲んでいる。


「……彼女は、俺の大切なパートナーですから」


 その堂々とした宣言に、エントランスは再び静まり返った。

 誰も、茶化すことはできなかった。

 俺の本気が、声の温度に乗って二人に真っ直ぐに伝わったからだ。


「……もうっ!」


 沈黙を破ったのは、山下課長だった。

 彼女は立ち上がり、涙目で俺の胸をポカポカと軽く叩いた。


「なによそれ! かっこよすぎるじゃない! ……鉄仮面、アンタずるいわよ! こんな良い男隠し持ってたなんて!」

「……隠してなんかないわよ。彼が勝手に、私を甘やかしただけだもの」


 李雪課長は顔を背けながら、少しだけ得意げに、しかしひどく照れくさそうに言い返した。


「はぁ〜……。なんか、完全に私の負けですね」


 ミチルが肩をすくめ、小さく笑った。


「あの完璧な李雪課長が、センパイの前でだけあんな可愛い顔するなんて。……ゲーマーの私でも、このフラグ回収は読めませんでした」

「……立ち話もなんだ。二人とも、せっかくだから上がっていくか? 美味いチゲ鍋、たくさん作ってるからな」


 俺が大人の余裕を持って誘うと、山下課長とミチルは顔を見合わせ、「「お邪魔します!」」と声を揃えた。


 キッチンで鍋の火加減を見ていると、李雪課長が隣にやってきた。


「……いいの? 全部、バレちゃったけど」

「構わないさ。……これで、コソコソ隠れる必要もなくなっただろ」


 俺がタメ口で優しく微笑むと、彼女は俺のエプロンの紐をキュッと引っ張った。


「……そうね。これからは堂々と、貴方を独占させてもらうわ」

「お手柔らかにお願いするよ、迷い猫さん」


 リビングからは、山下課長とミチルの楽しげな声と、それにじゃれつくレオの元気な鳴き声が聞こえてくる。

 嵐のようなXデー。

 それは、俺たちの関係が「秘密の共犯者」から、誰の目にも明らかな「公認のパートナー」へと変わった、騒がしくも温かい冬の始まりだった。

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