3-16 扉の向こうは、もう世界ではなかった
パワハラに蝕まれながら、それすら自覚できずにいた会社員・拓真。晩夏の仕事帰り、黒い甲虫のようなものに肩を傷つけられた瞬間、知覚も身体も崩れはじめる。いつしか見知らぬ樹海へ迷い込み、扉の向こうに広がっていたのは、もはや人の生きる世界ではなかった。
樹木の柱が連なる異様な空間で出会ったのは、銀色の人ならざる存在・常磐。人間専門の「ブリーダー」を名乗る彼は、拓真を羽化不全になりかけた個体だと告げ、壊れた心身を容赦なく観察する。
どうせ死のうと思っていた――そう諦めていた拓真は、常磐に導かれ、樹海の廃屋に築かれた蛹室へ入ることになる。暗闇の中で古い自分を溶かし、変容の時を耐え抜いた先に待つのは、死ではなく羽化だった。
人ならざる者の手で命を拾われた拓真は、やがて元の日常へ帰っていく。けれど、一度世界の外側を知った彼は、もう以前と同じ自分ではない。
何の自覚もないまま俺は、ただ歩いていた。晩夏。仕事帰りの遅い夕刻。都心からそう遠くない郊外の道だと思う。陰影を追うように、街路樹の影を踏む。
虫の翅音に続き、小さな脚の爪がガシッと肩を引っ掻いた。シャツ越しに喰い込む微小な刺激。ギョッとして視線だけ向けるが肩についているのは、葉っぱだ。
だが、甲虫みたいに黒く艶がある。それに、かぎ爪の喰い込むチクリとした刺激は続いていた。黒い何かを払おうとした手の動きが止まる。
このまま引き剥がしたら脚が千切れる? いや、葉っぱだろ? これ……?
困惑、ではなく、ちょっとしたパニックになっていた。
何かがおかしいぞ?
視界が異様だ。大きな揺れが絶望を呼び醒ますような。まるで、いつか来るかもしれないと危惧していた最期の日、その破滅の瞬間に似ている? ダメだ、やめろ! 核爆発? いや、もっと根本的に危険なヤバいヤツだ!
景色は、真っ黒なモノトーンに侵され空間に喰われるみたいだ。立体感がない。爆発の中心点にいる錯覚。
一瞬の後、俺が消滅する――その瞬間、俺は、俺は、どんな感覚を? いや、もう、思考も停止する、俺は消滅だ……。予感は予言めく。頭が、脳が、徐々に痺れる。
動きは緩慢。薄れ、融けるような崩壊――、その刹那。脳裡には様々な思い、映像、飲み込んだ叫びが乱雑に渦巻き、余裕なく掻き消えた。
鬱蒼とした……樹木に埋め尽くされた場所――
樹海?
俺は、ぼんやりと呟いた。なぜ、こんな場所にいるのかわからない。道らしきは見えない。湿った匂いと薄暗さが空間を支配している。
早朝? 夕暮れ? 判別がつかない。だが、刻々と暗さは増しているようだ。
まぁ、いいか。
どうせ、死のうと思っていた。
絶望に満たされ、崩壊する――
その瞬間を、永遠のように味わうのだ。多分。
耳が痛くなるような静寂。風もない。薄暗い。いや、闇が来る。真っ暗闇になる。ひんやりと湿った冷気は、皮膚を潤した。ぼんやり立ち尽くしていたはずなのに、俺は歩いている。樹木の合間を縫って進んだ。苔の青いような香り。苔むした地面が続く。ふかふかに見えるが、苔の下は固く波打つ地形だ。歩きにくい。
夏の終わり。本来なら植物が生い茂り、歩くのはもっと困難なんじゃないか?
脳裡に浮かぶのはジャングルみたいに生命力旺盛な森。だが、ここは違う。脚は勝手に別世界めく樹海を進んでいた。
――此方だ。
空耳か?
誘導するように、こっちと言われても、どの方向から響いてきたか分からない。奇妙な声だ。
溜息に似た気配を感じた。
俺は、不意に、椅子に座っていた。室内? だが樹海の気配は残っている。
グルリと見回す。樹木のような柱が立ち並ぶ。見上げれば天高く伸びた巨木の、枝と葉が作り出すアーチめいた天井? 照明はないが暗くはなかった。
ひた、と、指先に似た感触が、一瞬、唇に触れた。俺は瞠目し、存在の視えない目前の宙を視線で探る。誰も居ない? いや、気配は在る?
「誰だ? 俺に、何の用だ?」
咄嗟に訊いていた。
――タクマ……か。
俺の名を、読み取った? それとも、知っていて俺を呼びつけたのか?
――否。君が、勝手に入ったのだ。
呼ばれて来たと、勝手に解釈していたが否定された。
響いてくるのは、声ではなく「言葉」だ。聴こえるのと違う。
立ち上がれない? 立ち上がる気がない?
焦燥感はあるが、どうにもならない。
――助けてほしいのだろう?
「はぁ? なぜ、俺が? 助けを?」
死ぬ手伝いでもしてくれるのか?
その言葉は、心のなかでのみ呟いた。
また、溜息のような気配。
視えない指先の感触が今度は顎先に触れ、俺の顔をわずかに上向かせた。と同時に、淡い光が、目前に灯る。幽玄で仄かな鬼火めいた銀光が拡散していく。やがて集結するように、腕、肩、首、と形を描きだしていった。
「本来なら、姿は見せないのだが。君は、羽化不全になりそうだからな」
唇の形が顕わになると、不服そうな響きの声が届いた。今度は、確かに声だ。だが人間の声ではない。不自然ではない。だが、違和感だらけだ。だがだがだが……。
全身の形が確定していた。美しい――という表現は、ちょっと基準が違うように思う。
「うかふぜん?」
耳慣れない言葉。聴き馴染みのない響き。無意識に反芻し、独りごちるように問うた。
「もう、身体が動かないだろう?」
銀の睫毛、銀の眼。光で造られたような姿が、薄物のローブめいた長い衣装を身に着けている。ように、見える。男性だろう。背は高く長い銀の髪は錦糸のよう。
低めの声は、やはり人間とは根本的に違う。喩えが見つからない。強いて言えば柔らかな雷?
「何を……した?」
睨めつけるような視線を向けた。俺の声は懇願している響きだ。身体が動かないのは、この存在の仕業だと考えていた。
椅子に座ったまま、脱力している。全く動ける気がしない。
「本来なら、もう喋ることはできんのだが……喋れているように偽装させている」
「何を言っている?」
意味が分からず、混乱し、言い募る。
「君は、蛹室づくりに失敗したようなのでね」
「蛹室?」
「繭のようなものだ」
「繭? 俺は人間だぞ?」
「そうだな。勿論、知っている。私は羽化不全のブリードを行う。人間専用ブリーダーのようなものだ」
微かな笑みのような気配があった。
「ブリーダー?」
「そうだ」
「俺を、飼うってか?」
「もう、動けないだろう?」
明らかに眉を顰める俺に、極々当然の確認をするような声。
銀の光を撒くように軽く動く腕が見えた。指先の感触は視覚が捉えたのとは違い、項に触れてくる。カクンと、自らの首がのけぞった。首筋から髪へと梳き入るような指の動きに吐息がもれそうになる。美容院で髪を洗ってもらうときに似た心地好さ。ちゃぷちゃぷと、程良い温度の湯に髪ごと浸されている感覚だ。
「俺が、羽化するだと? どういう事だ?」
首は動かせない。感覚に飲まれないよう慌てて訊く。目蓋を伏せたい衝動に抗い、樹木たちの作りだすアーチの天井を凝視した。
「君はもう、幼虫ではない。だが、蛹にもなれていない」
「人間だと言っているだろう」
「形の話ではない。古い身体では生きられず、新しい身体もまだ持たない。君はいま、その間にいる」
言葉の意味が、全く分からない。軽く額に触れる指に、首は元の位置に戻る。俺は樹海めく柱を凝視した。
「前蛹から蛹を経て羽化するには刻がかかる。専用の場所……蛹室が必要だ」
誰にも邪魔されず、静寂に身を置く必要があるのだ。と、声ではない言葉が続く。
「人は、人工蛹室を作るだろう? あれと、同じだ」
微かに笑み含み、今度は耳に届く声音。誰でも知っている喩えみたいな口調だが、俺には全く謎だ。ただ、俺が理解しやすいよう話してくれている? いや、理解できなくて構わないらしい。
「繭……か?」
「繭ではなく、部屋だな。似て非なる、だ」
さっきは繭と言っていたのに、違うと言う。麻痺したような感情が、わずかに波立つ。
俺は、なんだって、言葉にいちいち反応してるんだ?
それでいいのだと、気配が微笑んだ。
「……俺は、ずっと眠るのか?」
理解不能なのに、俺は話を受け入れていた。
「果てなき航海、と言う者もいる」
深く潜る旅とも、内面の錬金術とも。完全に崩壊させ再構築する永い刻だ。夢との境界はなくなり、ただ、たゆとい続ける。
やんわりとした言葉は、いつしか心に響いていた。ふんわりと撫でられているようだ。
俺は、疾うに壊れてた。らしい。だが、更に崩壊させるのか?
廃屋の扉らしきが近づいてきた。いや、俺たちが移動している?
「常磐の蛹室へ、ようこそ」
間近の扉を指し示し、笑み混じりに囁く。
入れば、今までと同じ形では戻れない。と、補足するように言葉が届いた。
「入らなければ、『羽化不全』なんだろう?」
俺は、自嘲気味にこぼす。応えはない。
「名前くらい、教えてくれ……」
俺は焦れたように訊いた。
「名乗ったろう?」
――常磐。銀の常磐。
美しく谺する、柔らかく稲妻めいた響きが告げた。
ときわ、か。なんだかピッタリだな。この樹海そのものみたいだ。
鼻先まで迫った扉が、開いた。
内壁を覆うのは、樹皮でも金属でもない。濡れたような艶。その下を、銀白色の極細の脈が無数に走る。血管のよう? いや、精緻な配線だ。ゆっくり明滅する脈に、壁は微かに収縮していた。
呼吸している?
巨大な虫の翅に似た、幾重にも垂れ下がる半透明の膜。翅脈は視線を移すと、異なる位置で繋がった。
中央に、椅子に似た寝台らしき窪みがある。白い肋骨を想起させる、包み込むような曲線。それは不自然なほど俺の形だ。頭を置く場所も、背骨の湾曲も、指先の長ささえも。まだ一度も横たわっていない俺の身体を、そこだけが既に記憶している。
美しい。
そう思ったことが、何より恐ろしかった。
常磐が用意してくれた、俺の蛹室。
常磐そのもの、いや、常磐の一部? 俺は、一体化するのか? 胸がざわついた。
外見より遥かに深い、常磐の蛹室――。
扉の向こうは、もう世界ではなかった。





