3-14 編み物男子と俺の、何もない一年
高校三年の夏、サッカー部を引退間近に控えた相良深冬は、誰もいない教室で編み物をするクラスメイト・春山依織を見つける。
成績は学年首位。本を読むのが好きで、編み物を嗜む優等生。
対する深冬は、サッカー命で勉強が苦手。二人の共通点は皆無に等しい。それでも、好きなものを好きでいることだけは同じだった。
ふとした好奇心から始まった交流は、夏休みの宿題のアドバイス、好きな本の推薦、サッカーの話の提案と少しずつ続いていく。
特別な事件なんて起こらない。
ただ、昨日まで知らなかったお互いを知っていく。
編み物男子とサッカー男子。
これは、高校卒業までの『何もない一年』を綴った話。
夏だというのに、あいつは編み物をしていた。
高校三年の夏休み。名ばかりの『休み』を朝練に潰された俺は、汗だくのまま校舎へと逃げ込んだ。
水道の蛇口をひねり、腹いっぱいになるまで喉を潤す。ふと、人の気配を感じ振り返ると、自分のクラスの教室で、男子生徒が作業をしているようだ。電気を消しているせいで薄暗く、何をしているのかまではわからない。
一歩足を踏み出すたびに、上履きにこびりついたグラウンドの砂がジャリジャリと音を立てる。しかし、そんなことよりも目の前の男子になぜか視線を外せなかった。開け放たれたままの入り口を潜り、彼を目指して一直線に進む。廊下側から三番目で一番後ろの席。それは眼鏡をかけた春山だった。夏服のシャツから伸びた細い腕。その先には白い手袋。太めの糸を絡めた左手の人差し指を立て、右手に持つ金属製の棒を忙しなく動かしている。
教室の窓という窓を全開にしてあるものの、夏休みの日中は運動していなくても暑い。ひっきりなしに鳴く蝉しぐれがそれを増長させる。しかし、そんな中でも彼は汗ひとつかかずにいた。
「春山、何してんの?」
思わず口から声が漏れ出た。別に彼に用事があるわけでもない。ただ、誰もいない教室でひとり黙々と何かをしている春山が妙に気になっただけだ。俺の声が聞こえていないのか、本人は相変わらず糸と向き合っている。驚かせる前に帰ってしまおう。そう思い踵を返そうとしたときだった。
「……え?」
蝉しぐれに消え入りそうな細い声がした。振り向くと、春山が唖然とした様子でこちらを見ている。先程まで涼しい顔をしていたはずが、今は傍から見てもわかるほど赤面しダラダラと汗をかいていた。
「相良くん……えっと、いつから……」
春山が俺の名前を呼ぶ。そんなに動揺しなくてもいいのに。眼鏡越しの視線が心ここにあらずというように右往左往している。
「いつからっていうと……さっき、とか?」
春山は俺の顔を一瞥し、自分の手元へと視線を落とした。白い手袋を外しながら、糸や金属の棒と共に机の中へ押し込んだ。俺は純粋に思った疑問をすかさず投げかける。
「それ、編み物?」
「う、うん。まぁ……」
「何でしまうの?」
「……なんか変じゃん。男が編み物、なんてさ……」
俺には編み物の事なんてわからない。ただ、好きでやっているならそれでいいと思っている。俺がしているサッカーだって同じで、誰かに許可を取った覚えなんてない。だから、春山が何をそんなに慌てているのか理解できなかった。
「別に。でもさ、隠さなくてもよくない?」
俺の言葉を聞いた春山は予想外といった様子で目を丸くした。まるでこちらの反応がおかしいとでもいうように。しかし俺は気にせず続ける。
「好きなんだよね? どう?」
「……うん。好き」
汗をぬぐいながら彼は微笑んだ。安心と緊張が混ざった消え入りそうな声は不思議と俺の耳にしっかりと届いた。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。……あのさ、俺のこと下の名前で呼んでほしいんだけど。苗字、あんまり好きじゃない」
「そ、そうなんだ……」
「あぁ、気にしないで。『よかったら』って意味で。無理にとは言わないから」
「わかった。……深冬くん」
クラス替えをしてから数ヶ月経ったお盆前の夏。これが春山依織との初めての会話だった。
――――
学校生活で一番気分が高揚する瞬間は、夏休み前日の終業式だ。……とはいえ、俺の場合は今年に限って言えば少し事情が違った。部活を引退した後に残っているのは大量の宿題くらい。家でやろうとすると、スマホやら何やらに気を取られて全然進まない。
そこで思い出した。春山なら、たぶん全部終わっている。クラスで休み時間の度に本を読んでいるし、一学期のテストの点数は学年トップだ。お盆の完全休業日が終わり、学校も解放されているはず。背に腹は代えられない……ダメ元で聞いてみるか。
「宿題教えてほしいんだけど……」
「邪魔しないならいいよ」
拍子抜けするほどあっさりと許可が下りた。やはりというべきか、春山は八月頭に宿題を全て終わらせていたらしい。むしろ読書感想文は、原稿用紙の指定枚数を超えてしまうので、まとめる作業に苦労したという。俺なんて活字と対面するだけで睡魔に襲われるというのに。
後日『おすすめ』と言われ渡された本に見覚えがあった。一学期に春山が机で読んでいたからだ。どこかの高原に咲く薄い青色の花が描かれた表紙をよく覚えている。その日は軽く読んでみることにした。春山は何度も読み直したのだろう。カバーに傷がうっすらとあり、ヨレているページもいくつかあった。表紙を開くと、普段なら眠くなるような活字の連続なのに、ページを捲る手が止まらない。最後のページを閉じる頃には、校門が閉まる時間になっていた。そんな俺に、春山が声をかけてきた。
「どうだった?」
「うん、読みやすかった。これなら感想文書けそうな気がする」
「よかった。その本、小学生の頃からお気に入りなんだよね」
小学生……俺の読解力がそのレベルだと知りショックを受けた。しかし、春山にとって悪気はないのだとわかっているので、反撃する言葉を飲み込み相槌に留めた。
それからの平日は本を毎日持ってきてもらい、パソコンで感想文を下書きすることにした。原稿用紙を持ち込むことも考えたが、何度も書き直すと汚れる上に漢字変換の度にスマホを起動させるストレスを軽減させるためだという。
「感想文は、『面白かった』ってただ感想を書けばいいってもんじゃないんだ。軽くあらすじを示した上で、登場人物のどこに惹かれたか、それを見て自分はどう思ったかをメモしていけば完成に近づくよ。ある程度書けたら声かけてね」
春山はこう言うと自分の作業に戻った。今まで原稿用紙に文字を埋めるだけで満足していた俺が『中身のある内容』にするなんて……とは言っても実際にやるとなると難しい。本の内容をある程度把握しているので、まずはポツポツとあらすじを書いていく。すると、不思議な事にキーボードを打つ指が止まらないのだ。この調子で進めていこう。
最後の文章を打ち終わりエンターキーを叩く。何かを編んでいた春山が糸を切る。ふたつの音が同時に教室内に響いた。俺は興奮を抑えきれずに声をかける。
「俺、書けた! これって夢!?」
「落ち着きなよ。夢じゃない。書けたならよかったじゃん」
「でも課題図書で書かないと意味ないんだよな……」
「大丈夫。それは練習だから。いきなり『読め!』って言われても深冬くんには無理でしょ? その前に感覚を掴んでほしいなと思ってさ」
こいつ、俺の思考が読めるのか……? そう勘ぐってしまうほど、春山の言うことは正しい。……さっきからちょいちょい刺して来るのは勘弁してもらいたいが。俺は書き上げたワードソフトを上書き保存すると、相談を持ち掛けた。
「本番の課題図書って普通に本屋で売ってるんだっけ。去年までは任意だったからやらなかったんだけど……」
「僕、今年の分全部買ったから貸そうか? もちろん読んでるし感想も言えるよ」
「……マジ?」
「うん、マジ。本の虫をナメないでほしいね」
無表情の中で自信に満ち溢れていた。『本の虫』か……言い得て妙である。この言葉も春山に教えてもらった。自分の言いたい事の表現が増えると、くすぐったいが悪い気持ちはしない。
数日後、課題図書で取り組んだ感想文は人生で一番やり込んだものとなった。俺の努力が原稿用紙となってホチキスで留められている。
「本当に助かった。春山、何かほしいものある?」
「別に。そんな気ぃ遣わなくても……」
「じゃあ、アイス。コンビニのやつ」
「……それなら、抹茶ほしい」
渋いチョイスだな。おじいちゃんか。しかし、抹茶スイーツを頬張る姉を思い出しその考えを打ち消した。もしこれを口にした途端、口ゲンカでは済まなくなる。
「どうしたの? 早く行こうよ」
身支度を終えた春山が俺を急かす。そんなにアイスが食べたいのか……?
ノートパソコンと文房具をリュックに詰め、春山と共に校舎を後にした。日照りに鬱屈する昼間と異なり、湿気を含まない爽やかな風が素肌に当たる。たったそれだけで秋の訪れを体感できた。……体感といえばこの数週間校内で春山と過ごしていたが、帰路を共にするのは初めてだ。進級してからだと三ヶ月と少し。俺が彼について知っているのは成績優秀、本が好き、あと……
「なぁ、編み物をやり始めたきっかけってなんだ?」
脳内で言葉を咀嚼する前に口から漏れ出した。しかし、聞き手である彼は俺の想いとは裏腹に少し照れた様子で返答する。
「おばあちゃんが手芸の先生で成り行きっていうか」
「ふーん、なるほどね。じゃあ、今編んでるのもあげるんだ」
「もういない。編んでるのは手持ち無沙汰だから。特に意味はないよ」
「……そっか、悪ぃ」
やっぱり俺はこいつのことを何も知らない。普通の世間話だとしてもそれが相手を傷つけてしまうこともある。どれだけ無言でいただろう。気まずい空気を打ち消したのは春山だった。
「ねぇ、門限ある? 僕は七時。夜のね」
「え……あんまり遅くならなければって感じだけど。どうした急に」
「そっかそっか。なら、公園でアイス食べながらサッカーの話聞かせてよ。お互いの事、あんまり知らないでしょ?」
「……どういう理屈だよ、それ」
財布の中にいくらあったっけ。俺はそんなどうでもいいことを胸にぶら下げながら、コンビニの自動ドアを潜った。





