3-12 ミカミ少年記1990
父を火事で失い、深い喪失を抱えた少年・三上蓮は、叔父の李人に引き取られ、父の故郷を訪れた。
実家の片づけの最中、蓮は古いクロッキー帳を見つけ出す。
そこに描かれていたのは、少年時代の父の姿。
蓮は父の足跡を辿るようにクロッキー帳に描かれた場所に向かうが、突然の豪雨に見舞われ社へ閉じ込められてしまう。
そして、迎えに来た李人と共に雨宿りをするが……――、
時の示す先は一九九〇年、八月。
少年は時間を超えて、神隠しに遭う。
「起きろ。そろそろ着くぞ」
運転席から聞こえるぶっきらぼうな声に、三上蓮は深い眠りから目を覚ます。
都会から三時間。ワゴン車に揺られ、いつの間にか後部座席で眠ってしまったのだろう。
気が付けば、窓の外に映る景色は見慣れた灰色の街並みではなかった。
「蓮。窓、開けるぞ」
運転席の男が一声かけると、窓が音を立ててゆっくりと下がる。
同時に都会の淀んだ空気とは違う、清涼な風が車内を吹き抜ける。
蓮は寝ぼけた目を擦りながら吹いてくる風の先、窓の外に顔を向けた。
山々に囲まれた田園風景。虫たちが高らかに歌い、揺れる稲穂がそよぎ青々と輝く。
夏の日差しは窓に反射し、蓮はまぶしさに目を細める。
「……叔父さん。風が強いから、僕の方は閉めるね」
蓮は視界を背けるように、手元のスイッチで窓を閉めてしまう。
窓越しに映る景色をぼんやりと、光が失せた心で眺めるだけ。
「……はぁ」
バックミラー越しに眺める蓮の姿に、男は黒ぶちのメガネをかけ直し小さくため息を漏らした。
〇
三か月前。蓮の父、三上槙人は火事によって他界した。
幼少の頃に母を病で亡くし、槙人と二人で暮らしてきた十五年間。
蓮にとって父は、何物にも代えがたい光だった。
父の喪失は蓮の胸にぽっかりと大きな穴を残す。
「お前はこっちの掃除を頼むわ」
そんな蓮を引き取ったのが、蓮の叔父であり、槙人の五つ下の弟、三上李人だった。
実家の片づけを手伝えと適当な口実をこしらえ、半ば蓮を引きずるような強引さで。
李人は不器用で愛想の無い態度を取りつつも、甥の手を離すことだけは決してしなかった。
今も田舎に帰省をしてすぐに祖父母に挨拶を終えると、蓮に指示を出して掃除を頼む。
「叔父さんの部屋、汚いなぁ」
蓮は一見して眉間に皺を寄せた。
古びたダンボールの山、毛先が広がった絵筆、数えきれないほどの鉛筆。
六畳半の部屋はかつて少年時代の李人が使っていた画室であり、十年以上放置されている。
蓮は窓を開けて淀んだ空気を外へと出すと、額の汗を拭いながら散乱物を片付けていく。
積まれていた段ボールには何十冊ものクロッキー帳が保管され、どれもページが黄ばみ、紙の端は波打ってはいるものの、鉛筆の線がかすかに透けて見えた。
「この頃から絵がすごかったんだ……」
どのページにおいても、粗いスケッチとは思えない。風景をそのまま切り出したかのような強さで写実的に描かれている。
李人は個展を開けば行列ができるほどの画家であり、才覚は少年時代からすでに宿っていた。
蓮は休憩にとクロッキー帳のページをめくり、読み終われば次のクロッキー帳へまた手を伸ばす。
だが突然、蓮の指がピタリと止まる。表紙には『一九九〇年、八月』とマジックで書かれたクロッキー帳。
そこには静謐な社の前に座る少年の絵が、緻密なまでに鮮明に鉛筆で描かれている。
「……これ、昔の父さん?」
「おぉい、そっちは順調か?」
背後からかかった声に、反射的に蓮はびくりと肩を揺らす。
振り返ると李人が頭にタオルを巻いたまま、片手に埃まみれの雑巾をぶら下げて立っている。どうやら別の部屋を掃除していたらしい。
「叔父さん、これ……」
蓮から差し出されたクロッキー帳に、李人は訝しげな眼差しを向けていた。
ページをめくる乾いた音が、彼らの沈黙を通り過ぎる。やがて李人は一通り目を通すと、蓮の手に戻す。
「やるよ。あとはいらねぇから捨てておけ」
描かれた熱量と相反した、あっけらかんとした別れの仕草。
それは実の兄が亡くなり筆を折ったあの日と、同じ態度だった。
〇
午後の昼下がり。部屋の掃除をあらかた済ませ、蓮は李人を訪ねる。
李人は縁側でタバコを吹かしながら、空高くそびえ上がる入道雲を眺めていた。
「叔父さん」
「ウン?」
「気分転換に散歩してきてもいい?」
蓮の手には先程見つけたクロッキー帳が握りしめられている。
描かれた風景を散策してみたいという甥の心境の変化に李人は目を丸くし、そして一拍置いて変わらない淡泊な声色で伝える。
「いいけど、あんまり遅くなるなよ。神隠しに遭うぞ」
今度は蓮が目を丸くした。李人の口から『神隠し』など、浮世離れした言葉が出た事実に。
「なんだ、その顔は」
「いや、神隠しなんて……カミサマ、信じているんだなって」
「昔っからそういう風習なんだよ。暗くなると山神サマが現れて、帰りの遅い子供を連れ去っちまう……っていう。だから、あまり遠くには行くなよ? 昔に比べりゃ人も減ってるし、迷子になると危ねぇから」
ぶっきらぼうな声に蓮は小さく頷き、家の裏手から田んぼの畦道へ出る。
草の匂い。川のせせらぎ。小さき虫の声。全ては父の足跡を辿るように。
やがて蓮の歩みは田んぼを抜けて、生い茂る林の中へ誘われる。
「あ……」
鳥居の先に見えた、小さな社。山の緑が風に揺れ、静寂が蓮を迎え入れる。
苔のついた石段を一段ずつ踏みしめた先、蓮は一番見たかった光景に出会った。
クロッキー帳に描かれた、父がかつて居た場所。
「父さん……」
蓮の呼び声に呼応するように風が駆けていく。途端、少年の頬に空からの涙が伝った。
「……っ、えっ……雨……?」
青空が一瞬で灰色に塗り替えられ、蓮は慌てて社の中へ駆け込む。
木造の小さな社は古びているが、雨風をしのぐには十分だった。
屋根を叩く雨音が、まるで太鼓のように激しく鳴り響く。
「どうしよ、これじゃあ帰れない……」
蓮は濡れた前髪を払いながら途方に暮れた。
父が辿った足跡を辿る為にやってきたはずが、突然の豪雨がすべてを遮ってしまう。
(神隠し、かぁ……)
蓮の脳裏を過ぎるのは、李人から聞いた古い言い伝え。
もし、カミサマという奴がいるのだとすれば、ろくでもないヤツに違いないと感じていた。
あんなにも強く優しい父が突然いなくなる。
「……っ」
地面に打ち付ける雨脚は強まるばかりで、蓮の空模様をも曇天に変えていく。
降りしきる雨に帰路を阻まれ、少年はもはや帰り道さえわからない。
ただ、手元に残るクロッキー帳を抱きしめることしか出来なかった。
「おーい、蓮!」
豪雨の中、確かに聞こえた呼び声。
蓮は勢いよく顔を上げ、見通しの届かない悪天候を見つめる。
晴れ渡る気配さえない。けれど滝のように降る雨に濡れながらも、李人はやってきた。
「やっぱり、ここに居たか」
「なんで……」
ずぶ濡れになった李人はメガネのレンズを拭きながら、どさりと音を立てて蓮の隣に腰を下ろす。
あまりにもいつも通りのその様子に、蓮はかえって戸惑った。
「怒んないの?」
「えっ?」
「だって、こんな林の奥に、入っちゃったから……」
出かける前に言い聞かされた李人との約束を守れなかった。
世話になっているのに迷惑をかけてしまった。
そう思うと、蓮の胸の内にじわりと不安が広がっていく。
怒っているのか、それとも呆れているのか。李人は止まない雨を眺めたまま呟く。
「槙人もガキの頃そうだったから。『神隠しぃ? だったら、山神サマ出てこいや! オレが相手になってやらぁっ!』って親父の言いつけ守らないで、いつもゲンコツ食らっていた」
「ウーン……そのテンションと今の僕と一緒にしないで欲しい……」
少年時代の父を思い浮かべ、蓮も李人も揃って苦笑を浮かべる。その表情は二人ともよく似ていた。
「父さん、子供の頃もそんな感じだったんだ」
「……そうだな、いつも何を考えているかてんで分からなかったが……根っこは変わんねぇ、強い男だったよ」
「……。ねぇ、叔父さんが絵を描かなくなったのって……」
――ぴかり。
一瞬で、蓮の視界は白く満たされる。龍が降り立つような轟音と震動。
その正体が至近距離で落雷が発生したのだと理解する間もなく、二人の思考は暗く沈んでいった。
〇
雨上がりの日差しが木々の間から垣間見える。
少年は苔むした石段を力強く踏みしめながら、神と対峙しようと意気込んでいた。
(あいつが絵の勉強をしている間にケリを付ける)
夏の合宿で、今は長期不在の弟の為に。
少年は怖がりな弟を思い浮かべながら、馴染みのある社に向かって叫ぶ。
「やいやい、山神サマよぅ! 今日こそ決着つけてやらぁ! 尻尾巻いて逃げねぇで、出てきやがれっ!」
祈りはなく、されど我欲に満ちた執念は高らかに。
少年の意思に対して、周りを包む新緑は蝉しぐれと土の匂い以外何も返しては来なかった。
けれどふと、少年は気が付く。古びた賽銭箱の後ろに何かがいる。
腹を空かせて山から下りてきた獣か。はたまた社に重なった木々の影が揺れただけか。
正体不明の何かが、少年は気になって仕方がなかった。
一歩、一歩。恐る恐る。本当に山神だとすれば――……、
「今日こそ、捕まえてやる」
興味に飢えた眼差しをギラギラと輝かせ、そして刮目する。
「……ウン?」
少年は潜んでいた者の正体を見つけると、拍子抜けした声を出す。
自分と同じ年ぐらいの少年と、黒ぶちのメガネをかけた三十代と思しき男。
彼らは身を寄せ合い、クロッキー帳を抱えるようにして眠っている。
「どっちが山神サマだ?」
一九九〇年、八月。
十五歳の少年――三上槙人は、彼らを未来からやってきた息子と弟とはつゆ知らず、眉間に皺を寄せながら二人の寝顔を眺めていた。





