第9話 アルブと神様の天秤
第9話です。こんなふうに歪むのかしらと、
神殿の階段は、思ったより高かった。
石でできている。長い年月、人が上り下りしたのだろう。角が丸くなり、中央だけが少し凹んでいる。裸足で踏むと、ひんやりと冷たい。
アルブは一段ずつ上った。
セムは少し遅れてついてくる。市場の騒ぎは階段の途中で急に遠くなり、代わりに別の音が聞こえてきた。
祈りの声。
低く、ゆっくりとした声が、建物の奥から流れてくる。言葉はよく聞き取れない。だが一定の調子で繰り返されている。
入口の前に立つと、香の匂いがした。
甘く、少し苦い匂い。木の皮や樹脂を燃やした煙だ。村ではあまり使わない匂いだった。
白い衣の男が、入口の横に立っていた。
頭は剃られている。日焼けしていない肌が、外の光に少し眩しく見える。腰には紐があり、小さな粘土板がいくつかぶら下がっていた。
男はアルブとセムを見た。
視線は一瞬で、二人の服と手首をなぞる。
「祈りか」
男は言った。
声は静かだった。怒ってはいないが、興味も薄い声だ。
アルブは答えた。
「聞きたい」
「何を」
「神のこと」
男は少しだけ眉を上げた。
珍しい言葉だったのだろう。
後ろでセムが小さく笑ったが、すぐ黙った。
男は入口の中を振り返り、それから二人に言った。
「中で話すことではない」
階段の脇を指す。
そこには石の台があり、壺や籠を持った人が順番に並んでいた。穀を納める場所らしい。
男はその横の影に二人を連れていった。
壁は石で、昼でも少し涼しい。
「何を聞きたい」
改めて男が言う。
アルブは少し考えた。
言葉にすると、子どもの問いのように聞こえる気がした。
それでも言う。
「神はいるのか」
男はすぐ答えなかった。
通りを見た。
穀の列を見た。
市場の煙を見た。
それからアルブを見た。
「皆が祈っている」
男は言った。
「それが答えだ」
アルブは首を振った。
「それは答えじゃない」
セムが横で息を呑む。
祭司にそんな言い方をする者は少ない。
男は怒らなかった。
ただ、アルブの顔をじっと見た。
「おまえ」
男は言った。
「村を追い出されたな」
アルブは黙った。
男は手首を指す。
「刻印のある者が、わざわざ神を聞きに来るのは、そういうときだ」
アルブは視線を逸らさなかった。
男は少し笑った。
「神はいる」
そう言った。
セムが小さく「ほら」と言う。
だが男は続けた。
「だが、神は忙しい」
アルブは眉をひそめた。
「忙しい?」
「人が多い」
男は市場の方を指した。
「町がある。村がある。川の向こうにも町がある」
空を指す。
「海の向こうにも」
それから、穀の列を顎で示す。
「人は祈る。穀を納める。願いを言う」
男はアルブを見た。
「全部聞いていたら、神は寝る暇がない」
セムが吹き出した。
だが男は笑っていない。
真顔だった。
アルブは聞いた。
「じゃあ、祈りは意味がないのか」
男は少し考えた。
壁にもたれ、石の床を足で軽く叩く。
「意味はある」
そして入口の方を指した。
「見てみろ」
アルブは神殿の中を覗いた。
広い空間だった。
中央に石の祭壇。
その前に秤がある。
大きな秤だ。
片方に穀袋。
もう片方に石の重り。
祭司が重さを量り、粘土板に刻みを入れている。
アルブは目を細めた。
「秤だ」
「そうだ」
男は言った。
「神殿は数える」
穀を。
油を。
銀を。
「祈りも数える」
アルブは振り向いた。
「祈りを?」
「人は祈るとき、何かを差し出す」
男は言った。
「穀、油、銀、労働」
そして少し笑う。
「神は秤が好きだ」
セムが言った。
「それ、神じゃなくて人じゃないか」
男はセムを見た。
「同じだ」
その言葉は軽く言われたが、妙に重く響いた。
アルブは秤を見つめた。
穀袋が揺れている。
重りがゆっくり動く。
均衡する瞬間がある。
そのとき祭司が粘土板に印を刻む。
アルブは小さく言った。
「神は、数えるのか」
男は答えた。
「人が神にした仕事は、だいたい数えることだ」
市場の声が風に乗って聞こえてくる。
肉を売る声。
塩魚の声。
値を叫ぶ声。
男は壁から体を離した。
「働くか」
唐突に言った。
アルブは顔を上げる。
「神を探すなら、まず腹を満たせ」
入口の奥を指す。
「穀倉の運び手が足りない」
セムが笑った。
「また穀か」
男は肩をすくめる。
「神は腹の減った人間を嫌う」
アルブは秤をもう一度見た。
穀袋が、ゆっくり持ち上がる。
重りが、下がる。
均衡する。
アルブは思った。
もし神がいるなら、
この秤のどこにいるのだろう。
どんな歴史が、愛を、寛容を歪めるのかしらと。




