第10話 アルブと穀物蔵の影
第10話です。
神殿の穀倉は、町の奥にあった。
市場の喧騒から少し離れた場所で、厚い土壁に囲まれている。壁は人の背より高く、上には乾いた葦が並べて刺してある。鳥や鼠が入りにくくするためだろう。
入口の門は半分だけ開いていた。
中に入ると、空気が変わる。
麦の匂いだ。
乾いた穀の匂い。粉になった麦の甘い匂い。人の汗と混じると、腹の奥をくすぐるような匂いになる。
倉は三つ並んでいた。
一つはすでにいっぱいで、袋が壁のように積まれている。
一つは半分ほど。
もう一つは空いていて、人が袋を運び込んでいる。
アルブとセムは、入口のところで立ち止まった。
監督らしい男がいた。肩の広い男で、腕が太い。祭司のような白衣ではなく、粗い布の服を着ている。
「新しいのか」
男が言った。
アルブが頷く。
「働く」
男は二人の手首を見た。
刻印。
少しだけ眉を動かす。
「神殿の仕事は、刻印があってもできる」
そう言った。
「盗まなければな」
セムが鼻で笑った。
「腹が減ってる奴に、穀を運ばせるのは勇気あるな」
男は肩をすくめる。
「盗めば分かる」
腰の短い鞭を指す。
それ以上の説明はいらない。
男は袋を指した。
「それを運べ」
穀袋は重い。
人の腰ほどの高さで、両腕で抱えないと持てない。布は粗く、指に食い込む。
アルブは袋を抱えた。
背中に重さが乗る。
脚に力を入れ、ゆっくり歩く。
倉の奥へ運ぶ。
床は固い土で、穀粉が薄く積もっている。足を踏み出すたび、白い粉がふわりと舞う。
袋を置く。
肩が軽くなる。
だがすぐに次の袋がある。
セムは隣で袋を引きずっていた。
「重い」
「穀だ」
アルブは言った。
「食べ物は重い」
セムは笑った。
「いい言葉だな」
作業は単純だった。
袋を持つ。
運ぶ。
積む。
同じ動きが繰り返される。
昼が近づくと、倉の中は暑くなる。空気が動かない。汗が背中を流れ、袋の布に染みる。
休みの合図は、鐘だった。
倉の外の小さな鐘が鳴る。
男たちは袋の上や壁際に座り込む。
アルブも腰を下ろした。
手のひらが赤くなっている。布の摩擦で皮が剥けそうだ。
セムが干し肉の欠片をかじる。
「この町、いいな」
「どこが」
「殴られない」
アルブは少し笑った。
そのとき、倉の入口で騒ぎが起きた。
声が上がる。
「待て!」
誰かが叫んだ。
アルブとセムは顔を上げた。
入口のところで、男がひとり捕まっている。
穀袋を抱えている。
監督の男が、その腕を掴んでいた。
「どこへ行く」
男は答えない。
袋を抱えたまま立っている。
顔は青い。唇が乾いている。
周りの運び手たちが立ち上がった。
「盗みか」
誰かが言う。
男は首を振る。
「違う」
監督の男が袋を引き寄せた。
袋の口が少し開いている。
中から穀がこぼれる。
「外へ持ち出す気だったな」
男は震えた声で言った。
「子どもが」
その一言で、空気が少し変わる。
「子どもが、三日食ってない」
倉の中の男たちが黙る。
セムが小さく言う。
「……だろうな」
監督は鞭を持った。
「掟だ」
短く言う。
男は何も言わない。
袋を手放した。
穀が床にこぼれる。
その粒を見ながら、男は言った。
「一握りでいい」
監督の鞭が動いた。
空気を切る音。
ぱしん、と背に当たる。
男の体が揺れる。
もう一度。
倉の中は静かだった。
誰も止めない。
セムが小さく舌打ちした。
アルブは動かなかった。
ただ、床に散った穀粒を見ていた。
小さな粒だ。
だが、それで人は生きる。
鞭が三度、四度と振られる。
男は倒れた。
監督は息を吐き、鞭を腰に戻した。
「仕事に戻れ」
誰も動かなかった。
監督が睨む。
男たちはゆっくり立ち上がった。
また袋を運び始める。
セムがアルブに言った。
「神、ここにもいると思うか」
アルブは穀粒を一つ拾った。
指で転がす。
それから言った。
「いるなら」
穀倉の奥を見た。
「腹が減ってるはずだ」
セムは苦く笑った。
穀袋がまた運ばれる。
秤のように、人の腹と掟が揺れていた。
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