第11話 アルブと穀物蔵の夜
第11話です。
夕方になると、穀倉の中の空気はさらに重くなる。
昼間に積み上げた袋が壁のように並び、粉になった麦が床に薄く積もる。足を動かすたび、粉が舞い上がり、鼻の奥に甘い匂いが広がる。空腹の匂いだ。
仕事は終わったはずだった。
鐘は鳴り、男たちは順に倉を出ていった。だがアルブとセムは、壁際に座ったまま動かなかった。さっき鞭を受けた男が、まだ床に横たわっていたからだ。
背中の布は裂け、血がにじんでいる。穀粉がその血に貼りつき、灰色の泥のようになっていた。
セムが低い声で言う。
「死んだか?」
アルブは近づいた。
男の胸は動いている。浅いが、息はある。
アルブは袋から水を少し出し、布に染み込ませて背中を拭いた。血と粉が混ざって、指の間で粘る。
男がうめいた。
「……やめろ」
「動くな」
アルブは言った。
男は目を開けた。
濁った目だった。疲れと空腹の目だ。
「おまえ……」
「穀を運んでる奴だ」
アルブは答えた。
男は少し笑った。
「そうか……」
その笑いはすぐ消えた。
「帰らないと」
男は言った。
「子どもが」
アルブは黙った。
さっき聞いた言葉だ。
セムが言う。
「家どこだ」
「川の向こう」
男は答える。
「歩いて……半日」
セムが舌打ちした。
「それじゃ今夜は帰れない」
男は起き上がろうとして、また倒れた。
倉の外で、夜の風が吹く。門がきしむ音がした。見張りの足音が遠くで動く。
アルブは床の穀粒を見た。
昼にこぼれた粒。掃き集めれば、小さな握りになる。
それでも、人は生きる。
セムが言う。
「なあ」
アルブは顔を上げた。
セムは倉の奥を指す。
暗い影の中に、袋の山がある。
あの中には、町中が食える量の穀がある。
セムは小声で言った。
「一袋くらい、分からない」
アルブは答えなかった。
頭の中で、いくつかの声がぶつかる。
掟。
鞭。
秤。
そして男の言葉。
——子どもが。
セムが続ける。
「盗むんじゃない」
「借りる」
アルブは苦く笑った。
「神殿からか」
「神は忙しいんだろ」
セムは肩をすくめる。
「数え間違いもある」
アルブは立ち上がった。
倉の奥を見る。
袋の山は静かだ。誰も見ていない。見張りは外だ。
だがアルブの胸の奥では、誰かが見ている気がした。
神か。
掟か。
それとも、自分か。
アルブはゆっくり歩いた。
袋の一つに手をかける。
重い。
穀の重さは、いつも同じだ。
人の腹の重さも。
セムが小声で言う。
「やるのか」
アルブは袋を持ち上げた。
肩に乗せる。
背中にずしりとくる。
「半分」
アルブは言った。
「全部じゃない」
倉の隅で袋の口を開け、布で包んだ。穀を分ける。床に落ちた粒も集める。
それでもかなりの量になる。
セムが笑った。
「子ども、三日は食える」
アルブは男の前に袋を置いた。
「持てるか」
男は震える手で袋に触れた。
目が見開かれる。
「……これ」
「持っていけ」
アルブは言った。
男の唇が震えた。
「神殿の穀だ」
「知ってる」
アルブは言う。
「でも今は、おまえの子どもの穀だ」
男は何も言えなかった。
そのときだった。
倉の外で声がした。
「誰だ」
見張りの声。
足音が近づく。
セムが小さく叫ぶ。
「まずい」
男は立てない。
袋は重い。
時間はない。
見張りの足音が、倉の入口まで来る。
影が床に伸びた。
アルブは袋を持ち上げた。
そして入口の方へ歩いた。
セムが言う。
「何してる」
アルブは振り向かない。
「俺が持っていく」
入口の影が動く。
見張りが入ってくる。
アルブは袋を肩に担いだまま、見張りの前に出た。
「遅いぞ」
見張りが言う。
「穀の運びか」
アルブは答えた。
「そうだ」
嘘だった。
だが声は静かだった。
見張りは袋をちらりと見た。
そして言った。
「早く出ろ」
アルブは頷いた。
倉の外へ歩き出す。
夜の風が顔に当たる。
背中の袋は重い。
だが、胸の奥には別の重さがあった。
掟を破る重さ。
そしてもう一つ。
何かが、少しだけ動いた気がした。
それが神なのか、ただの人の心なのかは、まだ分からなかった。
日常は、結構、心を殺すことがあります。




