第7話 アルブと夜明けの道
第7話です。外が楽しみです。
鶏が鳴く前の時間は、空気がいちばん冷たい。
夜の湿り気がまだ土に残り、草の先には細い水滴がついている。裸足で踏むと、じんわりと冷えが足の裏に広がる。遠くの丘の向こうがかすかに白みはじめているが、村の中はまだ暗い。
アルブは静かに歩いた。
家の戸は、もう閉めてきた。母は最後まで起きていた。何も言わなかったが、火皿の灯りの向こうで、ずっと座っていた。父は外に出てこなかった。あの人は、見送るときほど背を向ける。
肩には小さな袋。
中には穀と干し肉。
腰には父の石の刃。
それだけだ。
村の囲いを越えると、土の道は細くなる。人と荷車が通る道から、畑の間を抜ける踏み跡のような道になる。まだ人が起きる前だから、誰ともすれ違わない。
空気は、静かだった。
静かすぎて、自分の足音がやけに大きく聞こえる。土を踏む音、草を払う音、袋の中の穀がこすれる音。
アルブは何度か振り返った。
村の影が、暗闇の中に沈んでいる。家々の屋根は低く、煙の跡が黒く残っている。昼になれば、そこに煙が上がる。子どもが走り、豚が鳴き、女が水を汲む。
その生活の中に、もう自分はいない。
胸の奥が少しだけ締まる。
だが足は止めない。
畑の端まで来ると、小さな用水路があった。夜露と水が混ざり、細く流れている。アルブはしゃがみ、手を浸した。
水は冷たい。
顔を洗うと、頬の痣がひりついた。三日前の拳の跡だ。水に映る自分の顔は、まだ少年のままだった。だが村の中での少年は、もう終わった。
水を飲む。
口の中の土の味が少し流れる。
顔を上げると、空が少し明るくなっていた。星はまだ残っているが、東の端が薄い灰色に変わっている。
アルブは立ち上がった。
道は二つに分かれている。
一つは丘の向こうの小さな集落へ続く道。
もう一つは、街道へ出る道だ。
街道に出れば、人が多い。商人、荷車、巡礼、兵士、羊の群れ。金の匂いもあれば、血の匂いもある。
アルブは少し迷った。
小さな集落へ行けば、働き口くらいは見つかるかもしれない。穀倉の掃除でも、水汲みでも、手はある。
だが、それは村を一つ変えるだけだ。
追い出された理由は、どこへ行ってもついてくる。
アルブは街道の方を見た。
遠くに、ぼんやりと白い帯が見える。石を敷いた道だ。荷車が通るたびに埃が上がる、広い道。
そこには神殿もある。
大きな町もある。
神の話をする者も多い。
アルブは袋の紐を握った。
母の指の温かさを思い出す。
父の言葉も。
——正しいかどうかは、あとで分かる。
そのとき、背後で音がした。
草を踏む音。
アルブは振り向いた。
小さな影が、丘の斜面を降りてくる。
息を切らしている。
やがて顔が見えた。
あの少年だった。
神殿の門の前で、腹を蹴られていた少年。
息を切らしながら、アルブの前まで来る。
「……待て」
少年は言った。
膝に手をつき、しばらく息を整えてから顔を上げた。
「なんで」
また同じ言葉だった。
「助けた」
アルブは答えなかった。
少年はアルブの袋を見る。
「出ていくのか」
「そうだ」
「追い出された?」
アルブは少しだけ笑った。
「そういうことだ」
少年はしばらく黙っていた。
そして言った。
「俺もだ」
アルブは目を上げた。
少年は肩をすくめる。
「神殿の袋の件で、外の連中が怒った」
「なんで」
「おまえが庇ったからだ」
少年は言った。
「おまえのせいで、余計に目立った」
風が吹いた。
草が揺れる。
アルブは何も言わなかった。
少年は少し笑った。
「でも」
肩を回しながら続ける。
「手首は切られなかった」
右手を見せる。
そこには焼き印がある。古い印だが、まだ赤い。
「それだけでも、ましだ」
アルブは少年を見た。
小さく、痩せている。
だが目は濁っていない。
「どこへ行く」
少年が聞いた。
アルブは街道を指した。
「神を探す」
少年は眉を上げた。
「神?」
「いるかどうか」
アルブは言った。
「確かめる」
少年は少し考えた。
そして笑った。
「じゃあ」
肩の埃を払う。
「俺も行く」
アルブは言った。
「勝手にしろ」
少年は道を見た。
朝の光が少しずつ広がり、街道の白い石がはっきりしてくる。
「神がいたら」
少年は言った。
「殴ってやる」
アルブは少しだけ笑った。
空の端が赤くなってきた。
夜が終わる。
アルブは街道へ向かって歩き出した。
その後ろを、少年がついてくる。
朝の風が二人の背を押した。
やっと、外に出られました。




