第6話 アルブと門の夜
第6話です。出てくのか。
火の広場を離れたとき、夜はすでに深くなっていた。
人の声は消え、残っているのは薪の弾ける音と、遠くの犬の吠え声だけだった。空は黒く澄み、星が細かく散っている。風は弱いが、地面に近いところを冷たく流れていた。
アルブは歩いた。
広場から家までは、ほんのわずかな距離だ。けれど足取りは重かった。土の道は昼の熱を失い、冷えて固くなっている。裸足の裏にその硬さがはっきり伝わる。
家の前に来ると、戸は半分開いていた。
中から灯りが漏れている。油皿の小さな炎だ。羊脂の匂いが鼻に届く。家の中の匂いだった。土壁と煙と、乾いた穀の匂い。
アルブはしばらく戸口に立った。
中に入れば、もう戻れない気がした。
だが外に立っていても、何も変わらない。
戸を押すと、軋んだ。
母が振り向いた。
火皿の前で座っていた母は、アルブを見ると立ち上がり、すぐに口を押さえた。泣くのをこらえる仕草だった。目はもう赤くなっている。
「……聞いた」
母は言った。
声は震えていた。
「長老が……」
アルブは頷いた。
言葉にする必要はない。
父は壁際に座っていた。膝を抱え、背を丸めている。影の中にいるように見えた。父はアルブを見たが、何も言わなかった。
母が近づいてくる。
アルブの頬に手を伸ばす。拳の跡を指でなぞる。母の手は温かかった。
「……あんたは」
母は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「どうして」
その一言だけが残る。
アルブは答えなかった。
説明できることではない。
理由はある。けれど、それを言葉にすると嘘のようになる。
母は手を下ろした。
そして急に忙しく動き出した。
棚から袋を取り出し、穀を少し入れる。干した肉を布で包む。壺の水を小さな革袋に移す。
「これ持っていきなさい」
母は言った。
「街道に出るまで、三日はかかる」
アルブは袋を見た。
重くはない。
だが母の手が震えている。
「……いらない」
アルブは言った。
母の顔が強張る。
「何言ってるの」
「持っていったら、家の穀が減る」
母は黙った。
父がそのとき初めて口を開いた。
「持っていけ」
低い声だった。
父の声はいつも低い。怒るときも、笑うときも変わらない。
「外は、腹が減る」
それだけ言って、また黙った。
母は袋をアルブの手に押しつけた。
「父さんの言う通り」
強い声だった。
泣いているのに、強い声だった。
アルブは袋を受け取った。
指に穀の硬さが伝わる。干し肉の脂の匂いがする。
家の中は静かだった。
外から、豚の鳴き声が聞こえる。誰かの家の囲いで、餌を求めている声だ。
アルブは壁に背を預けた。
土壁は夜の冷えを溜めている。背中がひやりとする。
「……父さん」
アルブは言った。
父は顔を上げた。
「掟は、正しいのか」
父は少しだけ目を細めた。
長い沈黙があった。
油皿の火が揺れる。
やがて父は言った。
「掟がないと、皆が勝手に生きる」
アルブは聞いていた。
「勝手に生きると、強い者が全部持っていく」
父の声は静かだった。
「だから掟を作る」
父はそこで止まった。
そして続けた。
「だが掟は、いつも正しいわけじゃない」
母が顔を上げた。
父がそんなことを言うのは珍しい。
父はアルブを見た。
「正しいかどうかは、あとで分かる」
「あと?」
「十年とか、二十年とか」
父は言った。
「人が死んでからだ」
アルブはその言葉を胸の奥で受け止めた。
正しさは、すぐには分からない。
それなら——。
母が小さく言った。
「……遠くへ行くの」
アルブは答えた。
「たぶん」
母は涙を拭いた。
「神殿のある町へ?」
アルブは少し考えた。
そして言った。
「神がいる場所へ」
母は困った顔をした。
「神はどこにでもいるって、祭司が言ってたじゃない」
アルブは火を見た。
小さな炎が、油を吸って揺れている。
「……それを確かめる」
母は何も言わなかった。
外で、風が強くなった。
戸の隙間から冷たい空気が入り、油皿の炎が小さく揺れた。
父が立ち上がった。
そして家の奥から、小さな石の刃を持ってきた。短い刃のナイフだ。狩りにも使うし、穀袋を切るときにも使う。
「持っていけ」
父は言った。
「鉄じゃない。石だ。折れない」
アルブはそれを受け取った。
刃は冷たく、重かった。
外で、遠くの犬がまた吠えた。
夜はまだ長い。
だが、夜明けは必ず来る。
長老はそう言った。
夜明けまでに出て行け、と。
アルブは戸を開けた。
夜の空気が顔に当たる。
星が広がっていた。
その星を見上げながら、アルブは胸の奥で思った。
もし神がいるなら、
この空のどこかにいるのだろうか。
それとも、
どこにもいないのだろうか。
アルブは振り返らなかった。
何となく生きづらい事は、よくある事です。




