第4話 アルブと門の外
第4話です。しんどい事は、大体の人生に起こります。
三日目の夕方、穀倉の掃除は終わった。
袋の裂けを縫い、こぼれた穀粒を拾い、床の粉を掻き集める。穀物は土より重く、粉は風より軽い。掃けば舞い、集めればまたこぼれる。三日もやれば、腕の筋が張り、指の皮が固くなる。
穀倉の奥は、日が入らない。壁の小穴から細い光が落ちるだけで、空気はいつも麦の匂いで満ちていた。空腹の匂いだ。腹の底がきゅうと鳴る。掃除の合間に、古い穀粒を口に入れた。歯の間で砕くと、甘みと粉っぽさが舌に広がる。
終わりの合図は、鐘だった。
神殿の小さな青銅の鐘。澄んだ音が、穀倉の梁にぶつかって長く伸びる。
「終いだ」
監督の男が言った。
背の低い、肩の丸い男だ。穀袋を持ち上げるより、数を覚えるのが得意そうな顔をしている。
アルブは木の箒を壁に立てかけた。手のひらの豆が、箒の柄に触れてひりつく。
「出ていい」
男はそれだけ言った。
礼はしなかった。
礼をしていい相手か、アルブには分からなかったからだ。
穀倉を出ると、夕方の光が眩しかった。三日ぶりに見る広い空だ。雲が低く流れ、空の端が赤く染まりはじめている。
門の方へ歩く。
足取りは軽くない。三日働けば体は疲れる。だがそれ以上に、門の外に戻るという感覚が重かった。
門前には、あの日と同じように人がいた。
水を汲む女。
荷を運ぶ男。
肩を丸めた老人。
誰もがアルブをちらりと見て、すぐ目を逸らす。
視線は慣れている。
慣れているが、好きにはなれない。
門の外へ出ると、地面の感触が変わる。煉瓦の固さから、踏み固めた土のざらつきへ。足裏に砂が貼りつく。
アルブは井戸の方へ歩いた。
桶を下ろし、縄を引く。
滑車が鳴る。
水の重みが、腕にかかる。
水面に自分の顔が映った。
頬の痣はまだ消えていない。三日前の拳の跡だ。
「……やめときゃよかったのに」
後ろから声がした。
振り向くと、あの老人が立っていた。背を曲げ、手に細い杖を持っている。目は濁っているが、アルブを見ている。
「助けたやつ」
老人が言う。
「もうどっか行ったぞ」
アルブは桶を引き上げながら答えた。
「そうか」
「そうか、じゃない」
老人は肩をすくめる。
「おまえが殴られてる間に逃げた」
桶が井戸の縁に当たった。水が少しこぼれる。
「当たり前だ」
アルブは言った。
「逃げなきゃ、手首を切られてた」
老人は鼻を鳴らした。
「おまえはどうなる」
「どうにもならない」
アルブは水を桶に移した。
冷たい水が手に触れる。
老人は少し黙ってから言った。
「どうにもならん奴は、だいたい追い出される」
アルブは顔を上げた。
老人は神殿の方を顎で示した。
「掟は、掟を守る奴のためにある」
その言葉は、この間、聞いた言葉に似ていた。
けれど意味が違う。
老人は続ける。
「守られる奴のためじゃない」
風が吹いた。
井戸の水面が揺れる。
アルブは桶を持ち上げた。
「……神はどう思う」
ふと、口から出た。
老人は目を細めた。
「神?」
「見てるのか」
アルブは言った。
「こういうのを」
老人は少し考えた。
長く生きた人間の考え方だ。すぐ答えない。
やがて、笑った。
「見てたら、暇だな」
アルブは少しだけ口元を動かした。
老人は続ける。
「でもな」
杖で地面を突きながら言う。
「見てる奴がいると思わないと、人は好き放題する」
それだけ言うと、老人は歩き去った。
杖の音が、土を打つ。
アルブは井戸の水を桶に満たした。
水面が夕焼けを映している。
そのときだった。
「アルブ」
声がした。
振り向く。
村の男が三人、立っていた。
見知った顔だ。
ひとりは肉屋。
ひとりは畑の番。
もうひとりは、神殿の使い走り。
肉屋が言う。
「長老が呼んでる」
アルブの胸の奥が、静かに沈んだ。
呼ばれる理由は、分かっている。
肉屋は腕を組んだまま言う。
「掟の話だ」
神殿の門の影が、長く地面に伸びていた。
アルブは桶を井戸の縁に戻した。
そして歩き出した。
追放の足音が、もう聞こえ始めていた。
大脱走が始まるのでしょうか。




