第3話 アルブと掟の裁き
第3話です。読んで下さる方を拒む重さです。
神殿の門をくぐると、空気が変わった。
外の町の匂い――土と糞と煙の混じった重たい空気は、ここには薄い。代わりに、乾いた麦と油と香草の匂いが漂っている。床は踏み固められた土ではなく、焼いた煉瓦が敷き詰められていた。足裏がひやりとする。
アルブの腕を掴んだ衛兵が、そのまま歩かせる。
煉瓦の通路の左右には穀倉が並んでいた。背の高い壁。壁の上には小さな穴があり、そこから麦の粉がうっすらとこぼれている。穀物の匂いは、腹の奥を刺激する。空腹の匂いだ。
運搬人たちが袋を担いで行き来していた。誰もが忙しく、誰もがこちらを見ない。だが、ちらりと視線を寄こす者もいる。刻印のある者が中に入るのは、珍しい。
「ここで待て」
衛兵がアルブを押した。
煉瓦の壁の脇、低い石の台の前だった。台の上には粘土板がいくつも積まれている。まだ乾いていないものもあり、指の跡が残っていた。
奥から、年配の男が歩いてくる。
衣は白く、縁に青い糸が縫い込まれていた。神殿の裁きを司る者の印だ。髭は短く整えられ、目は眠そうに細い。だが、眠そうな目ほど人をよく見る。
「何事だ」
男が言う。
書記が一歩前へ出た。
「穀袋が一つ不足しました。盗みの疑いです」
男の目が、アルブに向いた。
「この者が?」
「いいえ」
書記は首を振る。
「この者は盗んではいないと言い張り、神殿の数えを疑いました」
言葉の置き方が巧い。
盗みより重く聞こえる。
裁きの男は、アルブの手首を見た。
袖の奥の刻印。
ほんの少し、眉が動く。
「名は」
「……アルブ」
「どこの者だ」
アルブは少し迷った。
どこ、という言葉が難しい。
生まれた家はある。だが、それを言うと家族に迷惑が及ぶかもしれない。
裁きの男は、少しだけ待った。
その待ち方は、問い詰める者の待ち方ではない。人が言葉を選ぶ時間を知っている者の待ち方だ。
「……川向こうの集落だ」
アルブは答えた。
嘘ではない。だが、半分だけだ。
男はそれ以上聞かなかった。
「何を言った」
静かに問う。
アルブは喉を湿らせた。
「袋が破れてるかもしれないと言った」
「それだけか」
「……証を見せろ、と」
周囲の空気が少し動いた。
裁きの男は、書記を見た。
「袋は見たか」
書記の表情がわずかに固くなる。
「まだです」
「なら、まず見ろ」
その声は穏やかだった。
だが命令だった。
書記が門の方へ目をやる。衛兵が一人走っていった。
しばらく沈黙が落ちた。
遠くで羊の鳴き声が聞こえる。
神殿の裏で屠る前の声だ。
アルブはその声を聞きながら思った。
羊は何を思っているのだろう。
神を思うのか。
何も思わないのか。
衛兵が戻ってきた。
袋をひとつ持っている。
口が裂けていた。
裁きの男がそれを見た。
そして、書記を見た。
「穀はどれほど失われた」
書記は袋を手に取り、裂け目を確かめる。
「……少しです」
「なら盗みではない」
裁きの男は言った。
あっさりと。
門の外で膝をついていた少年が、これで助かる。
アルブは胸の奥で息を吐いた。
だが、裁きの男は続けた。
「だが」
その一言で空気が変わる。
「掟は残る」
アルブは目を上げた。
裁きの男は静かに言う。
「刻印の者が神殿で声を上げることは、掟に触れる」
穏やかな声だった。
怒りも嘲りもない。
ただ、事実の声だ。
「盗みではない。だが掟は破った」
アルブは何も言わなかった。
言い訳をすればするほど、泥は深くなる。
裁きの男は、少し考えた。
そして言った。
「三日の労役」
書記が頷く。
衛兵がアルブの腕を離した。
「穀倉の掃除だ」
裁きの男は続けた。
「袋の裂けを見つけたのは事実だ。罰は軽くする」
軽い。
そう言われても、三日の労役は軽くない。
外の者にとって三日働けないのは、三日食えないのと同じだ。
だが、それ以上にはならなかった。
裁きの男は最後に言った。
「覚えておけ」
アルブを見て。
「掟は、人を守るためにある」
アルブはその言葉を聞いた。
そして胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
守る。
さっき門の前で、誰が守られていただろう。
少年か。
神殿か。
それとも掟そのものか。
裁きの男はもうアルブを見ていない。
「次」
とだけ言った。
裁きは終わった。
衛兵がアルブの肩を叩く。
「運がいいな」
笑いながら言った。
「普通なら鞭だ」
アルブは答えなかった。
穀倉の奥へ歩かされながら、思った。
神よ。
あなたはここにいるのか。
それとも――
掟の中にいるのか。
読んでくださり本当にありがとうございます。アルブは、困ったさんです。




