301話 武辺者の街の変わり者夫婦の話・前編
キュリクスは石造りの城壁に囲まれた城塞都市である。長大なその城壁には東西南北の四か所に巨大な城門があり、行商人や使節などはその門で必ず手続きをしてから入場していく。それに加え、東側にはボンボル川を利用した河川水運用の水上入場門までもが備えられていた。
街の構造は東西南北に太い幹線道路が十字に走っている。南北の大きな幹線道路を境目に西区には煤や鉄粉に塗れた職人たちが、東区には経済的に豊かな大商家や銀行家が中心に住んでいる。しかし東区にはボンボル川を利用した河川水運業や倉庫業を営む商人たちも居を構えており、河畔には倉庫群も建ち並んでいる。つまりこのキュリクスは東西によって文化的にも経済的にも住み分けがなされているし、東区内であっても階級によってきちんと住み分けがされているというわけだ。
そんな金回りの良さそうな東区の住宅街から随分と外れた、ボルボル川河畔のとある倉庫群の一角。そこにお世辞に立派とは言えない一軒のおんぼろな家があった。家とは言ったものの、見た目は周囲の赤煉瓦の倉庫と何ら変わらない。なにせその家の壁面にうっすらと『東3-B・ベンツァ商会』と掠れた文字の痕跡が残っており、元々はただの古倉庫だ。で、ベンツァ商会が廃業したか移転したのか、その倉庫を格安で買い取り、そのまま住み着いた風変わりな若い夫婦がいた。──その家の前を通りかかると、誰もが思わず足を止めてしまう理由がひとつある。
その家からは、恐ろしく完璧に調律されたチェンバロの音が毎日のように鳴り響いていた。その調べは洗練されており、まるで神の悪戯かと思うほどに美しく、そして時々──どこかお調子者のステップが混ざっているようでもあった。この家の主はヨハンネ。キュリクスきっての、いや、ひょっとしたらセンヴェリア大陸全土を見渡しても他に並ぶ者のいない若き天才音楽家であった。彼は月信教の典礼聖歌や聖心教の讃美歌といった厳かな宗教音楽の作曲・演奏から、街をゆく吟遊詩人への楽曲提供、さらには東区の金持ち子女向けの音楽家庭教師にいたるまで、多種多様な依頼をこなしては日々の糧を稼いでいたのだ。
そんな彼がこの倉庫街に住むまでは、西区の住宅街で朝から晩までチェンバロに向かって作曲活動をしていた。いつしか近隣住民から騒音訴訟を連発され、一般居住区から追い出された挙句にこの倉庫街へと流れ着いたのだ。それだけ聞けば『天才芸術家の悲劇』として同情の余地もあるのだが……実際のところ、騒音訴訟の真の原因は彼の音楽活動そのものではなかった。
「はぁーっ、ふざけんなクソが!」
今日も元倉庫の自宅でヨハンネの品性の欠片もない怒声が響き渡る。続いて便箋をくしゃくしゃに丸める不快な音、不躾にビィーっと派手な音を立てて鼻をかむ音、そしてゴミ箱へと勢いよく叩きつけられる破壊音が響いた。……これこそが近隣住民の精神を削り取った「騒音」の正体である。
「なぁ〜にが『私、今度の春の主神祭の日、アマルナ侯の領主館にお招きを頂きまして……せっかくなのでハープの私と、フルートのセレン嬢のための協奏曲を作ってくださいまし。──アンリ・マリー・ド・ロアン』だ! おめぇのハープも、セレン嬢のフルートもなぁ、二人ともこれっぽっちも才能ありませんからーーーっ!」
ヨハンネが、ガバッとチェンバロの鍵盤にその細い指先を叩きつけた。
「残念ッ!! 聴衆にとってはただの罰ゲーム斬りぃッ!!」
──ジャカジャンッ!!!
ヨハンネは、神に愛されたとしか思えないほどに腕の良い音楽家だ。しかし彼の内面は色んな意味でガラスのように繊細で、そのくせ生活態度はガサツ極まりなく、口を開けば救いようのない毒舌家であった。……ついでに繰り出すギャグのセンスがいちいち絶望的に古い。──今日び、波田陽区なんて知ってる奴、もうオッサンだろ!? もしくは福岡県民か山口県民。
(波田陽区:『エンタの神様』が終わった途端に全国区で消えたお笑い芸人。だが福岡では『PAO〜N』(KBCラジオ)や『波田陽区のRADIO侍』、もしくは山口県のローカル番組で精力的に頑張ってる)
「大体さぁ、こっちは仕事を受けるだなんて一言も言ってないのに、手紙の中にいきなり手付金の小切手を同封してくるなんて……あの令嬢、頭のネジ飛んでんじゃねぇのか?」
このヨハンネという男、音楽家としては非の打ち所はないのだが、悲しいかな、一般常識がやや欠けている。アンリ嬢の封書に入っていた小切手を最寄りの銀行に持ち込めば現金に換えてもらえる──といった社会の仕組みは一応理解していた。しかしその仕事を断りたければ小切手を換金せずそのまま破り捨てればいいだけである。しかしヨハンネの脳内では、
【小切手が切られたその瞬間に、アンリ嬢の口座から強制的に金が差っ引かれている】
という勘違いをしていたのである。つまりこの紙切れが自分の手元に届いた時点ですでに取引は断れないと思い込んでいたのだ。彼の脳裏にチラつくアンリ嬢の顔と罪悪感。ただし彼女のセンスの無いハープの音色も鳴り響いていた。
散々悪態を突き、そして部屋中をうろうろ歩き回った挙句、彼はふぅと大きな溜息を吐いた。
「……しゃあねぇなぁ。山ほどある借金の返済期限も近いことだし、とりあえず作曲するべか。……そうだそうだ、まずはあのアンリ嬢とセレン嬢の、あの壊滅的な演奏レベルに合わせた譜面を書いてやらねぇと──」
このヨハンネ、独り言の音量がとにかく大きく、そして多い。現在、この元倉庫の家には彼しかいないはずなのにまるで『見えない対話相手』がいるかのように、一人で喋り、一人で憤り、そして一人で納得して喋り倒すという奇妙な悪癖があった。そしてドタンバタンと派手に生活音を立てる癖もある。かつてヨハンネを『騒音問題』で告訴した近隣住民たちの中で、彼が奏でる天才的なチェンバロの音色に文句をつけた者は実は誰も居ない。訴状に書かれた苦情のすべてが、彼が昼夜問わず発するこの怪しげな独り言と突発的な怒声、そして情緒不安定ゆえにドタンバタンと派手に立てられる生活音が原因だったのだ。
しかし当然ながら、稀代の天才作曲家がそんな事に気づくはずもない。相変わらず独り言と会話しながらもチェンバロの前に座り、インク壺に突っ込まれた羽ペンを手許に寄せた。
「──アカーン! アンリ嬢の持ってるハープ、出ない音と使えない和音が多すぎてマジで気持ち悪ぃ!!」
ヨハンネは頭を激しく掻きむしりながら、チェンバロの鍵盤でアンリ嬢の持ってるハープの演奏可能音をトントンと鳴らしてみた。ハープは有史以前より存在し、各地の文化や宗教、音楽的風習に併せて形状が進化・変化していった楽器ではあるが、どの地域ででも貴族子女の嗜みとして愛された楽器の一つである。ただ、独奏やオーケストラ形式でまともに使われるようになるには『足踏みペダルによる変調機構』の進化を待たねばならなかった。
一般的な話、ひとつのオクターブの間には12種類の音(半音含む)があるが、それら全ての音をハープの狭い枠内に弦として張り巡らせれば楽器は途端に大型化してしまう。かといって貴族子女が奏でるハープに求められるのは『一生懸命に演奏する彼女たちに寄り添う綺麗な楽器像』だ、大型化すれば彼女たちのかわいい顔が隠れてしまう。かといって小さい枠内で弦を無理やり収めようとすれば演奏できる音域はグッと狭くなってしまう。その悩みを解決するため、この時代のハープには既に『レバー操作で弦の音を【半音上げる(♯)】』という最新の仕掛け(レバー・アクション)は開発されていた。当時のハープは全音階(ピアノで言うなら白鍵のみ)しか弦が張られてなく、半音階をどうしても鳴らさなければならない時はレバー操作して鳴らせばいいというのがコンセプトの仕掛けである。
──だが演奏中にレバー操作は出来ないため、『構造上、絶対に鳴らせない音』が出てきてしまう。
ハープは旋律を弾きつつ伴奏部分をアルペジオでかき鳴らすような楽器だ。鳴らさなきゃいけない半音があるなら必要な弦のレバーを一つ一つレバー操作して半音上げればいいが、転調や臨時記号には一切対応できないという問題が出てきてしまう。
ヨハンネにとってこんなハープという楽器は『不完全にもほどがある、出来損ないのクソ楽器』でしかなく、そもそもアンリ嬢の演奏技術も『素人に毛が生えた程度』だ。これでまともな協奏曲を書けという方がどうかしている。俄然、やる気が湧くわけがない。
「それにセレン嬢のフルートも、どの音も音程がちょっとずつズレてやがる! ……耳が腐るわ!!」
現在の吹奏楽部やオーケストラが用いるモダン・フルートは『ベーム式』と呼ばれており、すべての音が正確なピッチで出せるような金属製のキィ・メカニズムが付いており、音量を豊かにするための大きなトーンホールもついている。頭部管と胴部管の隙間をコンマ数ミリ単位で調整することで現在の国際基準となっている『A=440Hz』へと調律・チューニングさせることが可能だ。
(※作者註:ガチガチに詰めても口の形──アンブシュアで音程を捻じ曲げることは可能だが、死ぬほど吹きづらくなる)
しかしセレンが持っているのはグラナディラという黒くて硬い天然木をくり抜いた、まるで骨董品のような『横笛』である。一応、管の継ぎ目を抜き差ししてピッチを合わせる構造にはなっているが、演奏中の微細な管内温度や湿度の変化で木自体が演奏中であっても勝手に膨張・収縮するため、吹いているそばから音が狂っていく。さらに致命的なのがホールを塞ぐ金属キィがたった数個しかついていないせいで、特定の半音を出そうとすると『指穴をツイスターゲームみたいに塞ぐ」必要があり、しかもその音は蚊の鳴くようなクソ細い音量になってしまうのだ。そんな構造的欠陥まみれの笛を、大して上手くもないお嬢様が吹くのである。
「……マジで聴衆が公開拷問じゃねえかよ!」
とはいえアンリ嬢の手紙に書かれていた演奏会場なんて、どうせ仲の良い貴族同士が集まるお気楽な夜会だ。その座興として彼女たちが演奏するだろうし、集まった観客たちだって彼女たちの稚拙な演奏を聞いて「ピッチがズレている」なんて野暮な難癖をつける連中ではない。そんな無粋な正論を臆面もなく吐き捨てるのは、世界中でこのヨハンネくらいである。
むしろ、おめかしした御令嬢たちが一生懸命演奏すれば、会場からは温かい拍手と声援が送られるに決まっている。だが、もし耳の肥えた貴族たちを唸らせるほどに洗練された大傑作であったなら……? 賞賛されるのは彼女たちだけでなく、作曲者である自分──ヨハンネの株だって爆上がりするはずだ。そうなれば、こんな田舎町のチンケな倉庫街に引きこもる必要もなくなるし、高額な依頼が次々と舞い込んで、山積みの借金だってあっという間に完済できるかもしれない!
「──よし、作るぞ! 俺は最高に良い曲を作ろうぞ!!」
これこそがヨハンネにとって貴族令嬢のために作曲する最大のモチベーションであった。自分に気合を注入するように絶叫すると、ヨハンネはチェンバロの鍵盤にそっと両手を置き、深く息を吸い込んだ。
──その瞬間、ここら周辺の世界は一変する。
天才の脳裏に五線譜が引かれたかと思うと、無数の音符たちが生き物のように躍り、跳ね、整然と並び始めた。出せない音があるなら、出せる音だけで世界を作ればいい。音域に限りがあるハープであってもペダル操作なんかせずに全ての音が鳴らせる『ハ長調(C-dur)』にすればいい。セレン嬢の拙い技量に合わせて、フルートパートは激しい跳躍や複雑な緩急は極限まで削ぎ落せばいい。制約だらけの中で音の方程式が完成する。そしてその譜面と完全にシンクロするように、彼の両手がチェンバロの鍵盤を激しく叩き始めた。
音が飛び、跳ね、空間を満たしていく!
弾き始めた瞬間から、緻密に計算された和音たちが分散し、集合し、またもや鮮やかにはじけ飛ぶ。退屈な引き伸ばしなど一切ない。ただ、旋律と伴奏がフルートとハープの間を文字通り「行ったり来たり」と目まぐるしくスイッチし、極めて華やかで派手な協奏曲が奏でられたのだ。
鍵盤を猛然としばき倒しながらヨハンネは恍惚な表情を浮かべ、瞳は完全に据わってガンギマリだ。……楽しすぎる。自分の脳内から溢れ出るメロディがあまりにも完璧すぎて止まらない。もう、ここまでくればただの『ドパガキ』である。脳内麻薬を極限まで絞り出し、我を忘れて音楽の快楽に溺れる天才の姿がそこにはあったのだ。
「……うんうん、最高だ! いいぞ、なんなら歌詞も付けてやれ!」
侯爵令嬢からの依頼には一切関係がないが、チェンバロから溢れ出る刺激的な旋律にのせて、ヨハンネは朗々と歌い出した。その歌詞は本当に他愛もない言葉の羅列なのだが、彼にとってこれが楽しくて仕方がない。
♪〜
文句を言っても しかたがない
ブツブツ不平を言っても しかたがない
本当に悩みの種だよ
だから陽気に楽しく行こうぜ
〜♪
ジャカジャン!
「──俺の尻をなめろ、しっかりとな!!」
煉瓦造りの元倉庫の中で、ヨハンネの歌声とチェンバロの調べが一杯に響き合う。この瞬間、……この瞬間こそ、ここを家にした事が正解だと思ってしまう。あまりの気持ちよさに自然と笑みが浮かび、朗笑が漏れ、そして弾けた。
「……ぷ、ぷぷ、がーっはっははは!! 傑作じゃねぇか、これ!」
ヨハンネは脳内で湧きだした楽譜を爆速で譜面を書き上げ、そして悪意100%の歌詞まで五線譜の余白へと丁寧に書き込んでいった。こんなことをすれば人一倍プライドが高いアンリ嬢から次回の作曲依頼が来ることも無くなるかもしれない。しかし彼の頭の中では『我ながら最高のユーモアだ』という純粋な満足感があり、その最低な歌詞をも譜面に書き込んだのだ。
『ご依頼通りのハープとフルートの協奏曲が完成いたしました。大変素晴らしい曲に仕上がりましたので、どうぞご笑納ください』
そう添えた手紙と一緒に譜面を封書に詰め、ヨハンネはそれをチェンバロの上にポイと放り投げた。思えば朝からいくつかのピアノ練習曲も一気に書き上げたせいかチェンバロの上には譜面やら手紙やらがとり散らかっていた。溜め込んでいた仕事はすべて消化し、やりきった感が溢れ出ている。あとはまた閃いた時にボチボチとやろう。
ヨハンネは散らかったチェンバロの上を満足げに眺めながら羽ペンをインク壺に放り込んだ時、ふと、久しく会っていない新都エラールに住む実姉マリアへと手紙でも書こうかと思い立った。チェンバロの脇に散らばる上質な羊皮紙を一枚引っ張り出すと、彼は思いのままにペンを走らせる。
『愛しのマリア姉ちゃんへ。──今日、お手洗いに行ったらびっくりするほどでっかいウ●コが出ました。今度お送りしましょうか? これぞ本当の、産地直送……なんちて』
──はっきり言って、コイツは本当に救いようのない馬鹿である。
かつて一般居住区にいた頃、家の中でこんな下ネタを大絶叫し、近隣住民から発狂したと勘違いされて通報され、警備隊が飛んでくるなんて日常茶飯事だった。しかも本人にとって通常営業だから近隣住民や警備隊からの指摘なんて的外れも良いところ。そして朝から晩まで年中無休でこの調子だったからこそ、あちこちで騒音訴訟を起こされたのである。
その点、広大な倉庫街ならどれだけ全力でバカ騒ぎをしようとも警備隊に通報される心配はない。平日は荷馬車や商人たちが往来するし、そこでどれだけ叫んでも誰も気にすることはない。だが……この手の『ブレーキの壊れた天才』という生き物は誰かがしっかりと監視しておかないと、暴走を始めてあっという間に取り返しのつかない事態を引き起こす。のちに悲劇への引き金になるのだが……今のヨハンネが、そんな運命を知る由もなかった。
◆ 作者註 ◆
『小切手』
学卒後に就職した僕は、ヨハンネと同じ勘違いをしてました。
2027年3月末で紙製小切手の取扱いは終了するそうですが、そういえば営業職時代、小切手の取扱いは先輩から嫌と言うほど叩き込まれました。あと『小切手をポケットに入れたまま洗濯してしまった先輩』は今も元気だろうか?
これ読んでる人、「銀行渡り、必ず引けよ!」で通じる?
◆ 作者註・2 ◆
『産地直送』
小学校三年生の頃、僕の隣の席に座るK子ちゃんが国語の音読で言い放った一言が元ネタ。
彼女は産地の『産』を『産む』と訓読みしたのが悲劇で、かわいらしい声で『産地直送』と言ってしまったのだ。
全員大爆笑である。突然の出来事にK子ちゃんはポカンとしていたが、ついに泣き出してしまった。
僕は授業中ずっとボケーっとしてた子だったので何があったか理解するまで時間を要してしまった。まぁ、人の間違いを笑うのは良くない事だ。だが40年近く経ってもいまだに忘れられない言い間違いの一つ。いまだ『産地直送』という文字を見ると、K子ちゃんの横顔と、箱の中からドリフ大爆笑で出てきた黄色いウンチが出てくる画が浮かんでくる。
……あともう一つ、忘れられない言い間違えは『先んづれば、人を征す』だろうか。漢文の授業でそう言い間違えたS山くんは『セ〇ズリ将軍』というあだ名で高校卒業までいじられた。
──僕は『先ず』と読んでたので、もし僕が当てられていたら『先んづれば人を征す』と読み間違え、きっと『マ◎ズリ将軍』というサイテーなあだ名が付けられたのかもしれないと思うと、S山くんの屍の上で僕は生かされてるのだろう。
……つくづく馬鹿ばっかり。




