296話 武辺者の地から少し離れたヴィルフェシスでの話・5 =幕間=
広大な地下六階層を散々に走り回り、ようやく五階層への階段を見つけるや直ぐに上がる。そしてフロアに湧き出てくるモーグヮイの群れを力任せに蹴散らし、二人は命からがら四階層にある安全地帯の『水場』へと戻ってきた。ここまで来ればひとまず安心だ。
陽を見ることがない迷宮に長くいるから、時間の感覚など全くない。今が昼なのか夜なのかすら判らないが、水場への到着でひと安心したのか強烈な睡魔が襲う。体力だけでなく気力の限界も悟った二人は交代で仮眠を取ることにした。どうやら相当に疲れていたようである。
ラダミヤはリュックからマントを引っ張り出すとそれに包まり、岩壁に背を預けるとすぐに大いびきをかき始めた。先に不寝番を引き受けたトレハはぼんやり焚き火の炎を見つめながら周囲への警戒を続ける。外ではゴブリンたちがギャアギャアと耳障りな声を立てながら徘徊しているが、なぜかこの水場へと踏み込んでくるゴブリンがほとんどいない。話によると、ここに生える苔の香りを嫌がるかららしい。たまに迷い込んでくる子どもゴブリンがいるが、小石を投げつけると蜘蛛の子を散らすように退散していく。
* トレハ視点 *
爆ぜる炎を眺めながら、私──トレハ──はふと、ここに至るまでの過酷な逃亡譚を振り返っていた。
奥宮を脱出した私たちはなんとか新都エラールを脱出したものの、持ち出せた路銀なんて微々たるものだった。指名手配が掛かっているだろうから銀行に預けてあるお金を引き出すことができないし、大きな街で日銭を稼ぐことも不可能だった。それに官憲の目が光っているから都市間馬車を利用することだって出来ない。
それだけでなく身分証が無ければ大都市に入出場することすら難しい。だから都市間を行き来する行商人の荷馬車に相乗りさせてもらう代わりに『護衛』を引き受け、街の出入りチェックの際は壺や樽などの中に隠れてやり過ごした。移動途中、何度か盗賊を撃退したけれど行商人からは徹底的に私たちの足元を見て雀の涙ほどの賃金でこき使われた。中には目的地に着いた途端、約束した報酬の支払いを渋る不誠実な行商人もいた。
とはいえ私たちは警備ギルドに未加入だったし、やってることはモグリの護衛行為でかつ密出入国者だ。不法を官憲に訴えることなんかできっこない。っていうかそもそも私たちは指名手配の身だから結局は泣き寝入りするしかなかった。他にも、事あるごとに私の尻や胸を触り続けてきた卑劣な助平商人までいた。
(あのクソ行商人め、綺麗な嫁が居るというのに。そっ首撥ね飛ばしてやろうか……)
私が殺意を帯びた目で行商人らを見る度、母は『我慢しろ』と耳打ちして私の袖を強く引っぱった。もし私がここで怒りに任せて行商人を殺せば、私たちはただの『凶悪な強盗殺人犯』としてさらに過酷な追っ手を差し向けられることになるだろう。軍人であった母の怜悧な大局観が正しかったのは理解できても、あの屈辱は今思い出しても腹の虫が収まらない。──いまだに怒りで手が震えてくる。
「セルヴェウス様……いや、レオナと合流して無事に落ち延びられたなら……この最悪な逃亡譚をそっくりそのまま小説にして新聞社に投稿してやろうかしら」
私はぽつりと独り言ちた。レピソフォンがモデルで、ヴィオシュラ学院時代にやらかしたと噂されてる悪行が載った『おひつじ座のラー』の小説が奥宮の女官たちで流行っていた。地方新聞の、読者投稿が火付け役らしく、今では演劇や講談の恰好のネタになっているとか。こういう暴露系小説が良い娯楽になるのなら、私がいくらでも書いてやろうかしら。
*
王太子としての公の称号は『セルヴェウス』だ。だが私やロガン、ハイディたち姉弟の間では彼女のことをひそかに『レオナ』と呼んでいた。百獣の王ライオンから取ったわけじゃない、私たち姉弟やレオナが好きなバレエの作曲家レオ・ドリーヴに由来する呼び名だった。本来なら彼女を常に王太子として扱わざるを得なかったけれど、奥宮のレオナの私室内だけでは、彼女のことを『私たちの末妹レオナ』として目いっぱい可愛がっていた。
ただ、私室内であったとしても礼儀作法に恐ろしく厳格だった母ラダミヤの前だけは別だった。母の前ではその名を口にすることすら禁じられ、話題にするときですらきちんと「セルヴェウス様」と敬称もつけることを徹底させられた。もし破ればロガンや私、ハイディであっても烈火のごとく叱られたし、何度も尻をぶたれた。きっと母は少しの油断で王太子セルヴェウス様のことを「レオナ」とポロリ呼びしてしまうのを防ぐため、あえて厳しく躾けていたのだろう。……今ならその意図がよく分かる。
……今、母は高いびきをかいて熟睡しているし、独り言だからこそ私は今、可愛い妹のことを『レオナ』と呼ぼう。
「っていうか、そもそもレオナの生まれ自体が、最初からもう無茶苦茶なのよ……!」
私は苛立ちをぶつけるかのように足元の小石を拾い上げると、またもや近づいてきていた子どもゴブリンへと投げつけた。
レオナは女の子として生まれたはずなのに、どうして王太子として振る舞わなきゃいけなくなったのか。原因は王国宮廷の不毛でドロドロとして馬鹿馬鹿しい王位継承権争いだった。
現王と王后様の間にはどういうわけか長年子宝に恵まれなかった。そんな中、こともあろうに前王マスチェラス様と愛妾との間にあの最悪な男──レピソフォンが誕生してしまった。現王に直系の子がいなければ次なる王位継承権は現王と血の繋がった弟レピソフォンへと移る。だが王太后はマスチェラス様の愛妾であるポンパイヤを「ただの聖心教の巫女」であるとして頑なに認めず、当然レピソフォンの事を公式な側室の子とは認めなかった。
そのポンパイヤときたら生まれも判然としないどころか初等教育すら修めていない、それに聖心教の巫女だ。侯爵家出身である王太后様は熱心な月信教徒だったし、歴代の王朝も、周辺国も国威行事に関しては月信教に併せて執り行われていた。そのため王位継承の際に与えられる冕冠も月信教の司教が新たな王に被らせることになっている。同じ主神を奉る宗教であっても月信教と聖心教の違いは大きいし、今後も交わることはないだろう。そのため王太后様は聖心教の巫女である愛妾ポンパイヤとの間の子を嫌悪するのも無理ないし、幼い頃からふてぶてしい態度だったレピソフォンを嫌うのも仕方が無い。……とはいえマスチェラス様だって本当はどこの生まれかいまいちよく分かっていない。だが統一戦争で独り勝ちしたマスチェラス様に逆らえば即座に粛清されるのだから、誰も追及しなかっただけのこと。
なおエラール王宮発行の正史では、マスチェラス様については『前王朝六代目国王クレイヴフの後裔』なんて書かれているけれど、クレイヴフ自体が子沢山で孫も含めれば百二十人以上の子孫がいた。しかも二百年近く前のクレイヴフの後裔だと言われて一体誰が本気で信じるだろうか?
とはいえ王太后様から側室の子として認められていない以上、レピソフォンは法的に私生児となり継承権は消滅する。現にレピソフォンには『傍系王族』として侯爵位しか与えられていないし、マスチェラス様はその点について何も言わずに崩御してる。王太后に至っては彼を徹底的に無視したまま薨去した。だが他に現王に子がいないとなれば話は変ってくる。王宮内はレピソフォンを担ぐ一派、前王マスチェラス様の弟の息子であるゼルベル公を担ぐ一派に二分され、凄惨な内乱へと突き進むのは火を見るより明らかだったのだ。
そんな国家崩壊の危機の最中、ご高齢の王后様が奇跡的に妊娠。……そして出産した直後、血相を変えた側仕えたちが「王子誕生!」と宮廷中に触れ回ったのだ。それがすべての歪みの始まりだった。
★
現在の王国法において王位継承権は『男系男子のみ』と定められている。もし王后様から生まれたのが「女児」だったと周囲に知られれば、その瞬間にこの国がレピソフォン派かゼルベル派かで真っ二つに割れる。それを憂いての現王の策略か、王后様の執念か、あるいは側仕えたちの苦肉の機転だったかはわからない。ひょっとしたら王宮の政務一切を取り仕切る宰相ノクシオス卿の発案だったのかもしれない。そして王后様の私室で生まれたばかりの『男の赤ん坊』はすぐさま王后様の手から引き離された。そしてちょうど同じ時期にハイディを出産したばかりだった母ラダミヤが奥宮へと召喚し、母を乳母に任命するや否や『男の赤ん坊』が引き渡されたのだ。そして冷や汗をたれ流すノクシオス卿は乳母となった母にこう厳命した。
「この子を、何が何でも立派な『国王』に育て上げろ。これはマスチェラス様からの遺言だ」
★
母ラダミヤは一介の孤児だった。しかしそんな彼女をエラール王宮の高級武官にまで引き立ててくれたのは、統一戦争時に戦陣の駒としてコキ使った『スケベ伯』のクラレンス様だけではない。前王マスチェラス様や宰相ノクシオス卿、そして周りの武勇者たちから気に入られたからだ。そんなマスチェラス様という大恩人の遺言を引き合いに出されれば母だって断れるはずがない。奥宮へと通された母は、それ以降自宅へ帰ることも叶わないまま、その後ずっと私たち娘と共に王宮内で暮らすことになった。ちなみにだけど母ラダミヤの夫で私たちの父ホレイショとは面会や帰宅どころか手紙のやり取りぐらいしか許されなかった。それだけでなく父が十年前に病死した時ですら、母や私らは葬儀への参加すら認められず、弔伝だけしか許されなかった。
奥宮に閉じ込められた私たち、……母だけでなく長女である私、年子の弟ロガンも、新しい妹レオナを徹底的に「弟」として育てる役割を担わされた。彼女には女の子らしい遊びや言葉遣い、仕草の一切が禁じられ、それだけでなく男の衣服を纏わせ、男物の下着まで付けさせられても誰も何も言わなかった。……いや、誰も何も言えなかった。そして彼女が木剣を握れる年齢になれば母直伝の苛烈な剣術を叩き込まれた。そして奥宮に優秀な家庭教師を呼んでは私たち姉弟も一緒に帝王教育を叩きこまれたのだった。
当時の幼い私ですらこの奥宮がとんでもない場所だって感じ取ったし、ノクシオス卿の胡散臭くて如何わしい奴なのは理解できてた。王太后様が神経質なのも、王后様が病弱なのも知っていた。そして私たちの元にやってきた「弟」の身体にちんちんが付いていないことくらい当然のように気づいていた。だけど母に突きつけられた「何が何でも立派な『国王』に育て上げろ」という至上命令の重さを前にして、私もロガンも誰一人として疑問や不安を口にする者はいなかった。「弟」と年が近いハイディもまた、彼女を本当の弟であるかのように慕って育った。
――公式の称号はセルヴェウス。だが、姉弟だけの秘密の名前は、レオナ。
しかし私がどれほどレオナを可愛がろうとも、彼女から「お姉ちゃん」と呼ばせることだけは頑なに拒み、むしろ「私たちの事はトレハ、ロガン、ハイディと呼び捨てになさい」と厳しく言い付けた。だけどレオナは心の奥底から女の子だった。だから二人きりの時は女の子っぽい髪型にして欲しいとねだられたっけ。で、レオナの髪をこっそりと三つ編みのシニヨンにして女の子らしく飾り立ててた時も、彼女は口の中でもごもごと何か言いたげにしてたっけ。
レオナと同時期に母の乳を分け合って育ったハイディも同じだ。それもそうだ。彼女は高貴なる王族で、私たちとは本来生きる世界が全然違う人間だ。この一線は絶対に越えてはならないという、幼い私らなりの、分を弁えた拒絶だったのだ。
……だが奥宮から脱出する直前のレオナが涙ながらに「お姉ちゃん!」としがみついてきた時のことは今でも鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。本当はたまらなく嬉しかった!! レオナだってずっとずっと、ずっと言いたかったのは知ってた。レオナは私を呼ぶ際、いつも心の中で一度折り合いをつけてから「トレハ」と呼んでるのは知ってた。だからこそ、いつか無事に合流を果たし、どこか遠い異国で静かに余生を過ごせる日が来たなら──その時はレオナに飽きるほど「お姉ちゃん」と呼ばせてやろうと心に誓っている。
あと……ロガンとハイディの訃報を奥宮で受け取った時だっけ。まるで双子のように育ったハイディは非常に優秀だった。兵棋演習でも座学でも優秀、剣技や度胸に至っては母譲り。……おっちょこちょいなところは父譲り。その兄のロガンも非常に優秀で、将来は王国の中枢で活躍する軍人官僚として名を馳せただろう。……きっと彼女たちが生きていればこの王国は最高の軍事国家になっていただろうし、王太子としてこの国を背負う「弟」にとっては最高の両腕そのものだったろう。しかし二人ともレピソフォンのせいで命を落とした。──その知らせが届いた時もレオナは私に抱き着くと声を押し殺して泣いた。そして一言、小さな声で「お姉ちゃん」と漏らしている。
私はロガンとハイディとは血のつながりが無い。だけど二人のことは本当の弟妹だと思ってるし、レオナの事だって可愛い末妹だと思ってる。けれど最愛の妹は今、どこでどうしているのか全く手がかりがない。私と母とで王国内の主要な領地は探し尽くした。残されている場所は母の旧知の戦友であるヴァルトア辺境伯夫妻が統治する東端辺境の街・キュリクスくらいなものである。
「春になれば……南への関所が開くはず。何としてもキュリクスへは行かなきゃね……」
パチチッ……!
焚き火が大きく爆ぜて火花を散らした瞬間、私は自分がいつの間にか深い微睡みに落ちていたことに気づき、ハッと息を呑んだ。寝ずの番をしなければならないのに不覚にも意識を飛ばしていた。冷や汗をかきながらスティレットの柄を掴み、慌てて周囲を見渡した私の視界――その焚き火の先に。
いつからそこに居たのか、一人の見知らぬ男が不気味に立ち尽くしていたのだった。
*
「お、おい、待てって! 俺は人間だ!」
その男は両手でこちらを制するようなジェスチャーをしながら、焚き火の前にどかりと腰を下ろした。何があったかは判らないが、男は頭から顔の半分を覆うように包帯が巻き付けられている。私はスティレットの柄を強く握りしめたまま、焚き火を挟んでその男と対峙した。母は今も地響きのような高イビキをかいて気持ちよさそうに眠ったままである。
「──何か、御用ですか?」
私が喉の奥から絞り出すように訊ねると、男は懐から小さな水筒を取り出して口に流し込んだ。男から漂う僅かな呼気から察するに、中身は度数の強い蒸留酒のようだ。巻かれた包帯がどす黒く汚れているからきっとどこかを切って出血しているのだろう。怪我しているくせに酒を煽るなんて、一体何を考えているのか判らない。
「なあ、悪ぃが……何か食うもん持ってないか?」
「──ありません」
即答した。
母のリュックには七階層で切り取った大トカゲの肉が、私のウエストポーチには携行食のわずかな干し肉と乾燥ハーブが入っている。だが名前も名乗らない見ず知らずの男にくれてやる義理なんて一粒もない。それに、下手に食事を提供して「腹を壊した」だの「美味しくない」だのと後から恨み節を言われるのも不愉快極まりない。
……そして何より、私は男性と話すこと自体、昔から酷く苦手だった。
奥宮での私の立場は、王太子セルヴェウス様の乳母であるラダミヤ付きのメイドだ。そのため奥宮内で私に話しかけてくる者は女官や女中ばかりで、男性の文官たちと会話を交わす機会など皆無だった。王宮を出てお使いを頼まれた時に警備兵と最低限の言葉を交わすくらいで、基本的に男性に対しては苦手意識しかなく、まともに話した記憶がない。
かつて若い兵士から「今度、一緒にお茶でも飲まないか」と誘われたことはあるが、私が緊張のあまり表情を一切崩さず「何故ですか?」と真っ直ぐ聞き返して以来、何故か誰からも一切誘われなくなった。私が身構えることなく話せる男性なんて、きっとこの世界で父ホレイショと弟ロガンだけだったかもしれない。
「……ちっ、使えねぇな」
男は不躾に舌打ちをすると、再び水筒に口を付けた。
恨み節を避けるつもりだったのに、結局文句を垂れられる。理不尽だった。だがこの程度の理不尽な仕打ちは奥宮では日常茶飯事だったのでいちいち気にするつもりは無い。
「で、姉ちゃんたちはどこまで潜ったんだよ?」
「……」
「なんか答えろよ!」
私にはこの男の質問に応じる気など微塵も無かった。とにかく目の前に居座るこの男の存在そのものが酷く目障りだった。たかが男から怒鳴られたぐらいで表情を変えるほど柔な訓練を母から受けていない。だが、気持ちよく寝てる母を邪魔してる事には腹が立ち、スティレットを握っている私の拳がどんどんと白くなるほどに力が入っていくのが自分でも判る。
「──ん、何の騒ぎさね」
「ひえっ!?」
今まで高いびきをかいていた母が、ぬうっと上体を起こした。母は眠る際、いつもの癖で左目の眼帯を外していたため、ひどく痛々しい古傷が剥き出しになっている。それを見た男は、情けない悲鳴を小さく上げたのだ。
「あぁ、不愉快なものを見せて悪かったさね」
母は呵呵と笑いながら、革製の眼帯の紐を頭の後ろで手際よく結び付けた。
統一戦争の時、母は功を競い合っていたユリカ・ヴィンターガルテン様に負けじと、城門を破壊したあとに独り猛然と突出した。「私についてこい!」と叫び走り出したという。その際、敵弓兵の放った一撃を左目に受けた際の傷痕を隠すために眼帯をしているのだ。ちなみに、突き刺さってすぐに焦って矢を力任せに引き抜いたせいで左の眼球まで一緒に取れてしまったらしく、本来瞳があるべき場所にはいまは特注のガラス玉が嵌め込まれている。
「──ん? お前さん……仲間はどうしたさね?」
母は大きく伸びをしながら男を凝視した。私はこの男に見覚えはなかったが、母は何かを知っているようだった。問われた途端、男はあからさまに気まずそうな顔をする。
「ほらほら、冒険者登録の時、お前さんの『ケツ持ち』をしてた連中らさよ」
母の言葉を聞いて私の脳裏に記憶が繋がった。目の前の男は、冒険者登録のあとの講習会で私の姿や母の年齢を見て『イロモノ』だと談じた奴だ。その周りでゲラゲラと嘲笑っていた連中がどこ行ったと母が聞いてるのだろう。私はスティレットの柄を握る手を少しだけ緩め、男の顔を冷ややかに覗き込んだ。
「わ、わからん……いつの間にか、はぐれてしまって!」
男はまるで自己弁護をするかのように、必死にここへやってきた顛末を話し始めた。まとまりのない話を私なりにまとめると、彼ら六人パーティは専門の斥候を雇い、三階層へと降りる崖を無事に下りきったのだという。しかし下りることに予想以上に手間取って体力を使い切ってしまい、崖下で休息を取っていたところゴブリンの群れが襲撃。パーティは一瞬で壊滅状態に陥ったらしい。
「あの時、斥候の野郎は何もせず真っ先に逃げ出したんだ! だからこんなことになった! ギルドにこの不当を訴えたい、だから俺を地上まで上げる助けを頼む!」
「……はは、そんな事さね」
母はそう呟くと、包まっていた毛布を丁寧に畳んでリュックに詰め込んだ。男は救われたと思ったのか膝を突き、身体を前のめりにして母に縋り付こうとした。しかし母はその男の顔面に無慈悲な手のひらを突き出し、冷徹に言い放った。
「お前さん、何か致命的な勘違いをしてねぇかい? 斥候なんて索敵や罠解除の専門職であって、前線での戦闘は専門外さね。お宅さんとの契約がどうなっていたかは知らんが、大抵は『三階層到着時点』で案内終了を宣言して撤収するのが普通さよ。それにギルドの手引書に『三階層の崖下は奇襲の危険あり』と書かれているのを無視して、のんきに休憩を取ったのはお前ら自身さね」
「だが、困っている人間に手を差し伸べるのは世間の常識だろ……!」
「馬鹿も休み休み言いな! 迷宮内の出来事はすべて自己責任。それが冒険者の鉄則じゃないのかね!? それにうちの娘に飯の無心なんてみっともない真似までして、断られたら『使えねえ』って言ってくれたみたいじゃないさね!」
母はそう吐き捨てると、水筒から水を一口含んで喉を鳴らし、ずっしりと重いリュックを背負うや否や立ち上がった。それを見て私もすぐにスティレットを握りしめたまま立ち上がる。
「あの隻腕の受付嬢の言葉をもう一度よく思い出しな。……冒険者稼業なんて『内輪揉めでパーティが空中分解する、食料が尽きて飢え死ぬ、そして魔物に食い散らかされるなんてザラな世界』だってな。お宅さんみたいな馬鹿にでもわかるよう教えてくれたのを『しみったれた説教』だと鼻で笑ったのは、他でもないお宅さんさよ」
「お、おい! お 前ら、俺を置いてどこへ行くんだよ!」
「地上へ帰るんさね。……ほら、別れの餞さね、これでも齧って一杯飲んでな!」
母はウェストポーチから干し肉の塊を引っ張り出すと、男の足元へ無造作に投げつけた。そして少し肩をいからせながら足早に水場を歩き始めたのだった。
母が猛烈にイラついている時の、非常に分かりやすい仕草だった。母は、他人任せで何かがあればすぐ他人のせいにする他責思考の男がヘドが出るほど大嫌いなのだ。自分の実力も計れず、契約状況も把握せずにここまでやってきてあれやこれや文句を垂れ、思い通りにいかなかったら暴言まで吐く。しかも迷宮内で飲酒してるなんて緊張感のかけらもない。こんな男に付きまとわれたら自分たちの命すら危ういという判断もあったのだろう。しかしこれらも母なりの精一杯の拒絶だった。……だけどそのまま完全に飢え死にさせるのは寝覚めが悪かったのだろう。あの干し肉は、母なりの最低限の憐れみだ。
「あんた、体力は大丈夫かい?」
「私は平気です。その代わり、二階層にある『宿屋』に戻れたら、少し長めに休ませてください」
「……あぁ、そうしようさね」
あそこに居座り続ければあの男のせいでまともな休息など取れそうもない。そう瞬時に判断したからこそ、母はせっかくの安全地帯である水場から脱出するという選択を取ったのだ。水場を出た瞬間、母が先陣を切って爆発的な速度で駆け出した。
突然舞い込んできた『新鮮な獲物』に、周囲のゴブリンたちが色めき立って襲いかかってくる。しかし母は、その突進を全盛期と変わらぬ華麗な脚技で迎え撃ち、骨を砕く鈍い音と共に文字通り蹴散らして血路を開いていく。私はその後背を追いながら、横槍を入れようとするゴブリンたちをスティレットの鋭い一突きで容赦なく追い払った。
「おい、待ってくれよ! 置いてくなよ!」
背後から男の悲痛な叫び声が響いたが、私も母も振り返ることは無かった。道中、岩肌鋭い床には血に塗れた鉄の胸当てや肩当てが転がっており、その周りにはスライムが集っているのが見えた。
――それらが、あの男の仲間たちの成れの果てでないことを、私は心の中でほんの少しだけ祈ったのだった。
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