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292話 武辺者の地から少し離れたヴィルフェシスでの話・1 =幕間=

 奥宮から突如として行方不明となった王太子について、「何かを知っている」と目された乳母ラダミヤとその彼女に付き従うメイドのトレハにはすぐさま王国中に指名手配が掛けられた。だが妙なことにエラール王宮には彼女たちの足取りに関する有力情報は殆ど回ってこなかった。


 それもそのはずである。今なお王国軍の高官ではラダミヤに恩義を感じている者が多く、指名手配が掛かったからと言ってそう簡単に動く恩知らずは居ない。それどころか統一戦争時に活躍した『長剣の女傑』を捕らえるなんて兵たちに多大な犠牲が出るだろう、それを考えて防衛線の守将たちは揃って及び腰になってしまう。そこへさらに現政権のエラール王宮を冷淡視する地方貴族たち。おかげでまんまと新都エラールを脱出することに成功したラダミヤとトレハは、王国中を巡って王太子を探し続けていた。


 ……何もかも打ち捨てて、三人で静かに生きるため


 こうして落ち延びた王太子セルヴェウスを探し続ける二人は、ついに王国北方辺境の地ヴィルフェシスへと流れ着いた。折しも秋の終わりを祝う豊穣祭がちょうど終わった頃である。


 *


 このヴィルフェシスという土地は、エラールから見て南東のキュリクスやロバスティア王国から遥か北のシェーリング公国へと抜ける北街道にある都市である。しかし豊穣祭が終わり、冬を迎え入れれば街道は深い雪によって埋まり、関所は封鎖してしまう。つまり雪解けを迎える春までは完全な「陸の孤島」となるのだ。二人が着いた日が関所が開いている最後の日で、豊穣祭というイベントを終えて南へと帰る行商人の群れに逆らって彼女たちはやってきたのである。


「さて……『春の主神祭』が過ぎるまで何して過ごします──母さん?」


 そして二人がヴィルフェシスへと到着してついに三日が過ぎた。することが無い。木賃宿の客室に置かれた安っぽい椅子に腰掛け、細身のスティレットを丁寧に研ぎ出しながらトレハが淡々と訊ねた。一方のラダミヤは寝心地の悪いベッドの上で大の字になって寝そべり、ぼんやりと天井の木目を数えている。


 関所の担当官が言うには街道の封鎖が解除されるのは、だいたい春の主神祭の頃らしい。そうなるとこれから四か月ほどはこの極寒の辺境の地で足止めを食らうことになる。路銀心許ない指名手配中の二人がこんな地でのんびり生活していれば、春を待たずに財布の底が尽きてしまうのは目に見えていた。かといって働こうにも身分証が無い。


「そうさねぇ……。よし、ちょっくら“スケベ伯”のトコにでも挨拶に行くかね」


「え……」


「どうした、トレハ」


「めッちゃ嫌なんですけど!」


 ダンッ、と激しい音を立ててスティレットをテーブルに叩きつけるやトレハは立ち上がって叫んだ。しかし数々の修羅場をくぐり抜けてきたラダミヤにとって、トレハが腹を立ててることなど些事でしかない。彼女は相変わらず、驚く素振りすら見せず大の字のままぼんやりと天井を眺めていた。


「ははっ、アンタはあの“スケベ伯”からいっつも尻を触られてたもんねぇ」


「……あのジジイ、挨拶がてらに撫でまわすように触るんですよ!? しかも尻の割れ目を丁寧に、執拗に!」


『どんな事があっても表情には出すな』とラダミヤから言われ育てられたトレハではあったが、クラレンスからのセクハラ行為に対して表情を歪めそうになった事なんて一度や二度ではない。さすがにスティレットを抜くような事は無かったが、セクハラされた日は“妹”であるセルヴェウスに愚痴っていたほどである。そんなトレハは忌々しげに言い放つと刃出しを終えたばかりのスティレットを逆手に構え、部屋の中に文字通りの殺気を充満させた。そのただならぬ気配を察してか、ラダミヤは寝返りを打って唯一残された右目でトレハを見て呵々と大笑いするだけだった。


「いいじゃないか、あの“スケベ伯”にとって若い女の尻を触るなんてのは『おはよう』って言うのと同じような挨拶代わりさね。減るもんじゃない、そうカリカリすんなって」


「母さん!」


 トレハが声を荒らげた瞬間、客室の薄い壁をドンと激しく殴る音が響いた。


「おい、うるせぇぞ!」


 隣室から地鳴りのような野太い声が響く、どうやら昼過ぎまで隣で寝てた男が怒鳴っているようだ。ラダミヤはすぐに「すまんな!」と壁に向かって大声で返すと「……気を付けろよ」と不機嫌そうな呟きが返ってきた。


 木賃宿というだけあって壁が一枚の板切れのように薄いが、ここは荒くれ者の冒険者ばかりが泊まる宿だから仕方が無い。客室で少しでも声を上げれば即座に隣から文句が飛んでくる。


『とはいえ、昨晩遅くまで娼婦たちを引っ張り込んで盛大な『大宴会』を開き、宿をさんざん揺らしてくれたお前が文句言う筋合い無いんだがなァ……』


 ラダミヤもトレハも内心でそう毒づいた。明け方近くまで大騒ぎするだけでなく艶めかしい声を響かせていた隣室が、昼間に普通に話しているだけで怒鳴られるのには納得は行くはずもない。


「ささ、ぶつくさ文句言ってないで、着替えて準備しな。……あの“スケベ伯”は暴騰したエラールの市場をようやく落ち着かせ、それにレピソフォンのゴタゴタから逃れるように本領へと戻って来たさね」


「私、マジで行きたくないんだけど……」


 最後の最後まで本気で渋るトレハの背中を、ラダミヤが「まぁまぁ、そう言うなって」と軽くいなし、宥めすかしながら着替えを手伝ってやると、二人は道が雪で白く染まるヴィルフェシス領主館へと足を向けるのだった。


 *


 前王朝以前からロブル家が治めるヴィルフェシスの領主館は、一地方貴族の居館というより堅牢な王城のような威容を誇っていた。それもそのはず、このヴィルフェシスの地下にある迷宮から魔物たちが湧きだした時の最終防衛線になるからだ。キュリクスの城壁は立派だと行商人らは言ってたが、それよりも豪奢な煉瓦壁に囲まれた石造りの建物がこの地の領主館である。


「よぉ、“スケベ伯”」


「久しぶりぃ! ラダミヤちんじゃない~」


 二人が通された広大な領主執務室では顔をほころばせた“スケベ伯”が待っていた。王宮であろうがメイドを見かければ挨拶代わりに尻を触り、ノクシィ一派やレピソフォン一派から敵視されないよう道化のように振る舞っている好々爺、それがこの館の主ことクラレンス・ロブルである。


 統一戦争を知らない若い武官や文官たちからすれば、彼なんてただの『耄碌したスケベジジイ』にしか見えないだろう。だがラダミヤの片眸には、あの戦乱の頃と何一つ変わらないギラギラとした眼光を宿す野心家クラレンスにしか映っていない。有能な人材を見抜いては手元に置き、無能なおべっか使いからはそっと距離を置く。ロブルの家名と土地、そして土着の精霊信仰のためならいつでも戦う男――それこそがこの老辺境伯の正体だ。


 思えば統一戦争の折、孤児あがりだったラダミヤやヴァルトア、ユリカといった素性の知れぬ若造どもを側近に引き上げたのもクラレンスだ。老軍師リモネを彼らの指導役に宛がい、使い捨ての捨て駒にすることなく自軍の主戦力へと育て上げた。そして彼らが戦場で活躍したことでロブル家は新政府内で頭角を現したばかりか、ヴィルフェシスの本領を安堵され、さらには前王朝派に加担した周辺の村や町までをも褒美として毟り取った。それだけではない。クラレンスは子飼いであったラダミヤやヴァルトアを、子爵位にまで取り立てるよう中央へ働きかけた恩人でもある。


「ねぇラダちゃん。せっかくなら『バルヴァ』って名前で面会申請すればよかったのに」


「ふん、アンタのことだから、私の“本名”なんかとうに忘れてると思ってね」


 城の受付では敢えて指名手配されている「ラダミヤ」の名を告げた。受付の文官は、指名手配犯の突然の出頭に怪訝な顔を浮かべたが、次の瞬間には泡を食ったような顔でこの執務室へと駆け込んできた。きっとクラレンスから事前に話を聞いていたのだろう。だからこそ訪問してすぐにこうして面会を許されたのだ。ちなみにラダミヤという名は戦争の混乱期に使っていた通称に過ぎない。戦功を重ねるうちに通称ばかりがあちこちに売れてしまったための通称だ。ちなみに彼女の本名はバルヴァという。


「ラダちゃん、指名手配されてる身なんだから、もう少し身の危険を感じたらどうなの?」


「ふん、私がやってきたからと言って、アンタが衛兵隊を寄越すとは思わないわ。それに今まで散々泳がせておいて、今更捕縛する気? ……まァ、もし兵を差し向けるって言うならトレハと一緒に血路を開いて落ち延びるまでよ」


 ラダミヤが不敵に笑うと懐から素早くナイフを抜いた。横に立つトレハもその動きに合わせ、スカートの隙間からスティレットを二本引き抜く。


「あらやだ、怖い怖い」


 クラレンスはわざとらしく身震いしてみせた。それを見てラダミヤが鼻を鳴らしてナイフを収めると、トレハも滑らかな動作でガーターベルトへスティレットを戻す。二人から放たれた一瞬の殺気をまともに浴びた若い文官は、懐からナイフを取り出そうともたつきながらも真っ青な顔でガタガタと震えている。


「ところでラダちゃんにメイドちゃん、御用向きは何かしら? あなたたちをここで武官として雇って匿えばいい?」


「アンタには、まともな身分もなかった私たちを貴族に引き上げてくれた恩義がある、これ以上迷惑を掛ける訳にはいかないわ」


「殊勝なことを言うわねぇ」


「だけどさ、私とこの子の新しい身分証を発行してくんない? 今のところ危ない目には遭ってないけど、今後の保険として、ね」


 ラダミヤはふと、クラレンスの横に王太子セルヴェウスが立っている気がした。生まれてすぐに王后から引き離され、ラダミヤの『四番目』の()として懸命に育てた王子だ。だが、ふとまばたきをするとセルヴェウスの姿はすっと消えた。


「なぁんだ、そんなこと。判ったわ」


 クラレンスは事もなげに言うと、ラダミヤは現実に戻された気がした。そしてクラレンスは執務机の引き出しから上質な羊皮紙を取り出すや沈金を散りばめた漆塗りの万年筆を手に取った。金色のペン先が心地よい音を立てて羊皮紙の上を滑るように走る。


「はい、これはヴィルフェシス市民としての正規の身分証よ」


 しばらくして差し出された二枚の羊皮紙をラダミヤは視線で追った。そこにはヴィルフェシス領主館として正式に発行された『バルヴァ・レイス』、そして『バルヴァの娘、ステヴィア・レイス』の身分証だった。これなら官憲から職務質問されても疑われることはない。ラダミヤは鼻を鳴らし、それを手に取ると懐に仕舞った。


「助かるわ、クラレンス伯」


「ここから先はどうするつもり? 援助ならいくらでも……」


「恩人にこれ以上の借りは作れないわ。だけど……」


「何かしら?」


「──最後の我がままを許してくれるなら」


 それまで執務机の前で堂々と仁王立ちしていたラダミヤが、突如として膝を折り、床に跪いた。その姿を見たトレハも揃って跪礼を取る。クラレンスを『スケベ伯』や『アンタ』と言ってた傲岸不遜な女傑が膝を折り頭を下げたのだ。


「万が一のことがあったとき……私たちを、守ってくれる?」


「……いいわ。何かあったらそこにいる文官に言い付けなさい」


 クラレンスは表情を消し、静かに、そして深く頷いてから言った。


「それを聞けて安心した、感謝する」


 ラダミヤは短く応じると弾かれたように立ち上がり、踵を返して執務室を去っていった。トレハがその影のように後に続く。二人の足音が遠ざかるのを待って、部屋に取り残されていた若い文官が恐る恐る口を開いた。


「……か、閣下。よろしかったのですか? 彼女たちは一級の手配犯で……」


「何かあったら、彼女たちの利益になるように動きなさい」


 クラレンスはそれまでの軽い口調を完全に捨て去り、凍り付くような声でぴしゃりと言い放った。


「――命令だ!」


「は、はいっ!」


 老辺境伯の放った圧倒的な覇気に圧され、股肱の文官はひどく間抜けな返声を絞り出すのが精一杯だったという。

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