70 残された森で
間もなく、サンジェルスでマルグリット女王とジェラルドの結婚式が行われるとの発表があった。
その知らせは、戻らないシリルを心配して街に出たアーサーからもたらされた。
兄はなぜか気落ちした様子だし、シャーロットとしてもどう感じていいかわからないというのが本当のところだ。
(遅かれ早かれ、こんな日が来ると思ってた。王族であるあの人が、いつまでもこの森にいてくれるはずなんてなかったのに……)
何を期待していたのだろうかと、シャーロットは洗濯物を干しながらぼんやりと考える。
そんなシャーロットの周りでは、心配そうにラクスが飛び回っていた。
空は青く綺麗に晴れて、いつもならジェラルドが薪を割る音を聞きながら、昼食の準備を始める時間だ。
なのに、ちっともやる気にならない。
何もわくわくしない。
ラクスと森にこもってから、大変なことは沢山あれど、つらいと思ったことはなかった。
空が綺麗に晴れたこと。鳥が可愛らしく囀る声。風の運ぶ季節のにおい。些細なことがいちいち特別だった。
なのにジェラルドがいないというだけで、もう二度と会えないかもしれないというだけで、シャーロットはおなかにぽっかり穴が開いたような喪失感を感じるのだ。
どんなに食べても埋まりそうにない。それどころかご飯を食べる気にもならない。
そんな自分を、シャーロットはもてあましていた。
「放せ!」
しかしそんなぼんやりは、森に響き渡る大声によって破られる。
驚いて声のする方を見ると、そこには万端よろいで身を固めたシリルと、それを引き止めるアーサーの姿があった。
どうやらシリルは、一人森を出て行こうとしているらしい。
何事かと、シャーロットは慌てて二人に駆け寄った。
「ジェラルド様は身を挺して俺を逃がしてくださったのに、見捨ててなんて置けるか! 一人でも俺はサンジェルスに行く!」
「落ち着け! 団長自身が、国として動くなとお前に伝言を頼んだんだろう!?」
怒鳴るシリルに、押さえつけるアーサーも必死だ。
年の離れた兄弟で喧嘩することも稀なため、シャーロットはこんな二人を初めて見た。
「ちょっ、落ち着いてシリル」
シャーロットもアーサーに加勢しようとするが、不意にシリルが払った手に撥ね退けられてしまう。
「きゃっ」
地面に尻餅をついたシャーロットに、シリルは驚いてようやく抵抗をやめた。
そばを飛んでいたラクスは、シャーロットを守るようにシリルに牙をむいている。
「大丈夫よ。大丈夫」
そんな我が子の背中を、シャーロットはゆっくりとなでてやる。
しばらくするとラクスは、落ち着いたのかシャーロットの手の中に納まった。
少し重たいが、小さいサイズのラクスなら抱っこできないこともない。
ラクスを抱えたまま起き上がったシャーロットは、スカートのお尻をぱんぱんと払った。
「ごめん……ロティ」
シリルはまるで、自分の方が傷ついたような顔をした。
気の強い弟がこんな顔をするなんて、そうあることではない。
「大丈夫だから、気にしないで。それよりもシリル。一人でサンジェルスに行くなんて無理よ」
「でも、ロティだって気になってるんだろ? なんで団長は、事を荒立てるななんて……」
「団長は誰よりも国のことを考えていらっしゃる方だ。大国であるサンジェルスと事を構えれば、ファーヴニルが無事ではすまないとお考えになったんだろう」
そう言うアーサーも、ひどく辛そうな顔をしている。
なかなか心を読ませない兄が、こんな表情をするなんて本当に珍しいことだ。
なんとなく、その表情には別の理由がある気がした。
もちろん彼もジェラルドのことは心配しているだろうが、それだけならもっと理詰めでシリルを説得したりしそうなものなのに、それをしない。
(お兄様もシリルも、何かおかしい。それにもちろん私も。ジェラルド様、貴方がいないと困ってしまうんです。もう、どうしていいか分からないんです―――……)
「ロティ!」
突然、叫んだシリルが駆け寄ってくる。
何事かと思って見上げると、そこには弟の驚いた顔があった。
シリルはハンカチを差し出す。
シャーロットが刺繍して兄弟たちに渡したハンカチ。
アーサーとシリルには竜騎士団の紋章を。そして一番上の兄には、ヨハンソン男爵家の紋章を刺した。
そのとき初めて、シャーロットは自分が泣いていることに気がついた。
涙は途絶えることなく流れ続ける。
空は気持ちよく晴れているのに、心はちっとも晴れず土砂降りだ。
こらえきれず、シャーロットは嗚咽を零した。
婚家から追い出された時ですら、泣き言ひとつ言わなかった彼女が。
母親の涙に濡れたラクスは、急に悲鳴のような甲高い声で鳴く。
それはシャーロットですら、今まで一度も聞いたことのない泣き声だった。
そして彼は光に包まれたかと思うと、シャーロットの腕から飛び出しどんどんと大きくなった。
大きく大きく、もう人間が何人分という数え方はできないほどだ。
おそらく王城と同じぐらいの高さだろうか。そこまで育ったラクスは成長を止め、長い首を使って器用にシャーロットを銜えた。
「え、おい! 何してるんだ!!」
驚くアーサーとシリル。
一方シャーロットはといえば、驚きのあまり声も出ない。
そうこうしている内に、ラクスはシャーロットをそっと自分の背中に乗せた。
牙にかまれたわけではないので、痛みはどこにもない。ただ服がラクスの唾液で少し濡れた程度だ。
ラクスはそれをアーサーとシリルにも繰り返し、あっという間に三人を背中に乗せてしまった。
「いったい、どうするつもりなの? ラクス」
困惑するシャーロットに応えるように、ギャァァと鳴いたラクスはバサバサと羽ばたき空に飛び立った。




