69 女王失踪の報
時間は少し巻き戻る。
一部で多弁な蜂とも呼ばれ恐れられる外交官のエリアス・ヴェルナーは、交渉相手であるファーヴニル王国の王弟を見送った後、驚くべき知らせを受け取っていた。
「陛下が、いなくなった……だと!?」
そう口にした瞬間、彼は己の手で口を覆っていた。
どこで誰が聞いているとも限らない。こんな国家機密級の情報をうかつに口にしてしまうなど、いくら与えられている客間の中とはいえ、あまりにも彼らしくない失態だ。
だが彼が動揺し、報告を疑ってしまったのも無理はない。
彼の母国であるサンジェルスは大国だ。そして彼の主は国で最も尊い血を受け継いでいる。本来であればいつ何時も護衛の騎士が侍り、守られていなければいけない立場である。
ところが、だ。
その尊い身の上であるマルグリット女王が忽然を姿を消したという。
常識からすればあり得ないことだ。それこそ魔法のような超自然的な方法でも使わなければ、古く堅牢な城から誰にも見とがめられずに女王を連れ出すことなど不可能のように思われた。
まして齢十五となるマルグリットは、十歳で血みどろ後継者争いを勝ち抜いた異端の女王である。
若さゆえ、あるいは女ゆえとその失踪の理由を類推しようにも、彼女はあまりにしたたかすぎた。
安易に敵対勢力に消されるような迂闊さがあれば、五年前の争いの際既に命を落としていたはずである。
しかし彼女は、そうはならなかった。それこそが彼女の強さの証明になるだろう。
エリアスが竜伝説に守られた小さな隣国を訪れているのは、ひとえにその女王のためである。彼はマルグリットに忠誠を誓っている。そして自分たちの都合のいい王配として、あたりを付けたのがファーブニル王国王弟のジェラルドだ。
由緒正しい血脈を受け継ぎ、品行方正で容姿は美麗。だが何よりもエリアスにとって好ましかったのは、かたくなに政治にかかわろうとしないその姿勢にあった。
この男であれば年下の女王の治世を妙なプライドで邪魔するようなことはないだろう。
そう思ったのだ。
幸いジェラルドが国王警護のためサンジェルスを訪れた際の、女王の反応もとてもよかった。
彼女の閣僚がジェラルドを王配候補の上位に引き上げたのには、ふさわしい理由があるのだ。
だというのに、そのマルグリットが姿を消したという。
警備についていたはずの自国の騎士たちに、一体何をしていたのかと怒鳴りつけたくなった。
エリアスは剣を持たない。代わりに言葉の刃を交えて自国に利益を持ち帰るのが仕事である。国を空ける可能性が高いからこそ、女王を守る近衛騎士には常に高い水準の護衛を求め続けてきた。
だが一瞬の油断かあるいは何者かの策略か、その守りが崩れたというのはにわかには信じがたい。
なにより、サンジェルスの王都からファーヴニルの王都まではどんなに馬を飛ばしても二週間以上かかる。
つまりエリアスが報告を受けた現在、既にマルグリットが姿を消して二週間以上の時間が経っていることを意味する。既に見つかっていればいいが、そうでないならもはや王配どころではない。急ぎ母国の情報を集めなければ。
知らせを持ってきたのはエリアスの子飼いだった。彼によれば、敵国が女王を浚った可能性まで考慮し、女王不在をごまかしつつ周辺諸国へ探りを入れる働きかけが行われているらしい。
近くエリアスにもそれを求める命令が送られてくるはずだ。
その命令に対しどう対応するかも、おそらくは監視され試されているに違いない。
「厄介な……」
マルグリットがもし亡き者とされていた場合、側近であるエアリスは政治的に非常にまずい立場となる。次に国内で誰が権勢を握るかによって、最悪サンジェルスに戻らずファーブニルよりはるかに遠い異国に亡命する必要性まで出てくるかもしれない。
エリアスは乱暴に椅子に腰を落ち着けると、つややかな髪をかき乱し荒い息をついた。
選択を間違えれば、自分が今までに得た地位も名誉も名声も、すべてが無に帰してしまう。今すぐ沸騰しそうになる頭で、エリアスは必死に考えを巡らせていた。
真っ青な顔色で、彼は自嘲した。
「まさかこれが、竜の呪いというやつなのか?」
ジェラルドが竜と特別なかかわりがあるという情報を得た時に、エリアスは部下を使ってファーヴニル王国の竜伝説を詳細に調べさせた。
その項目は多岐にわたり、中にはファーヴニル王国民ですら知らないような情報も多分に含まれていた。
その中の一つに、ファーヴニル王国の安寧を害すれば、竜の裁きが下るというような内容の伝説がある。これはファーヴニル国内ではなく、母国サンジェルスの一部地域にのみ伝わる伝説だ。
それを聞いた時、エリアスはずいぶんファーヴニルに都合のいい噂だと笑ったものだ。
国力において優位にあるサンジェルスがファーヴニルに攻め込まないのは偏に、他国との緩衝地として利点を見出しているからに過ぎない。
そうでなければこんな歴史が古いだけの小国など、とっくにサンジェルスの一地域となっていたはずだ。
そしてそれを恐れたファーヴニル王国の祖先が、自国に都合のいい裁きとやらの伝説を残したのだろうと、彼は気にも留めていなかった。
ところが今、現実としてエリアスは窮地に立たされている。
まさかと思いつつも、部屋の壁に竜の意匠を見つけ、エリアスは背筋に冷たいものを感じていた。




