65 ほっとする午後
シャーロットは森の中にある湖の水面を、ぼんやりと眺めていた。
今は姿が見えないが、水中ではラクスが狩りを行っているはずだ。もはやこの森でラクスに敵う者はなく、大きな魚を捕まえることも何の苦も無くやってのける。
最近は自分で食べるだけでなく、人間たちが食べる分まで採ってきて、シャーロットに褒めてくれとばかりに見せつけてくるほどだ。
シャーロットは気晴らしのため、今日はそんなラクスに付き添うことにした。そのせいか、ラクスはいつも以上に張り切って魚とりに夢中だ。
一方シャーロットは、先ほどまでラクスに向けていた笑みを消し、悩まし気にため息をつく。
シリルは戻ってきたものの、翌日もジェラルドが戻るどころか連絡すらない状態が続いていた。
頼りになる兄弟がいるというのに、シャーロットは何とも言えない落ち着かなさを覚えた。
初めは身分の差から言葉を交わすことすら躊躇われたのに、今ではその不在に寂しさを覚える。
王族であるにもかかわらず率先して巻き割をしてくれたり、言葉にせずとも不自由していることに気づいて棚を直してくれたりと、彼はいつもさりげなくシャーロットを手助けしてくれていた。
義実家で貶され続けてきたシャーロットにとって、ジェラルドとラクスのいる生活はまるで、ぬるま湯の中にいるように居心地がよかった。
セイブルと出会ったことで感じた不安や焦りも、ジェラルドがいたから乗り越えることができた。
だからこそ、彼の婚約話を聞いた時、動揺しなかったと言ったら噓になる。
シリルの反応が大きすぎてそこまで考えが及ばなかったが、冷静になってみるとじわじわと喪失感が襲ってくる。
身分の差があるとわかっていたのに、どうしてここまで心を許してしまったのだろう。
誰かを信じて裏切られた時、どれほど心が痛いか。誰よりもよく知っているはずなのに。
「ぎゃあ?」
シャーロットははっとした。
考えを語としていたせいで、ラクスがすぐそばまで近づいていることに気づかなかったのだ。
地面の上には銀色の鱗を持つ魚が、身のつまった体を堂々と横たえていた。
息子の目の中に心配そうな色を見て取り、シャーロットは柔らかく微笑んだ。
「心配させてごめんね。少し考え事をしていただけなの。ラクス、。こんな大きなお魚を捕まえられるなんてすごいわ」
つるつるの肌を撫でると、ラクスは気持ちよさそうに鼻先を擦り寄せてきた。
言葉が通じなくても、心は通じている。ラクスの感情表現はいつもまっすぐで、嘘偽りがない。いつも全力でシャーロットに好きだと伝えてくれる。
だからこそ、こんなにも心が安らぐのだろう。
思わずシャーロットは、両手を広げてラクスの体を抱きしめていた。
いつかこうなることは分かっていたはずだと、ジェラルドがいなくても息子さえいれば幸せになれると、彼女は必死に自分に言い聞かせていた。
***
一方その頃、残されたアーサーとシリルはシャーロットの不在を見計らって情報のすり合わせを行っていた。
「それで? 怒りのあまり団長室に乗り込んだお前が、どうやって生きて帰ってこれたんだ?」
内容の深刻さの割に軽い口調でアーサーが問うと、縄を編んでいたシリルは口をとがらせて嫌そうに兄を睨みつける。
「そんな顔をしたって、お前が無謀をしたのは変わらないだろ。いいから正直に話してくれないと、なにかあった時に家族を守れないだろうが」
家族というのは実家で暮らす両親はもちろんのこと、シャーロットや目の前のシリルのことを含んでいる。
どれだけ呆れていても見捨てるつもりはないと宣言され、シリルはいよいよ意地を張っていられなくなる。
「団長が結婚すると聞いて頭が真っ白になって……だってあんなにもシャーロットに近づいておいて、優しくしておいて、許せないだろ。ただでさえシャーロットは前の結婚で傷ついたのに、これ以上なんて!」
話している内に怒りが再燃したのか、シリルの口調が荒くなっていく。
アーサーは姉が関わると冷静さを失うくせに、当人の前では素直になれない弟に苦笑する外なかった。
「少なくとも、お前みたいに衝動で八つ当たりしてくる弟がいたら、優しい団長に心を許してしまうのは仕方ないのかもな」
「な……っ!」
「いいから、お前の主観じゃなくて、あちらはどう動いているのか冷静に教えてくれ。大事なことだ。この森の中にいると、俺たちはどうしても情報から切り離されやすい。ラクスの存在がある以上切り離されるとは思わないが、俺たちの存在が危険だと判断されれば、最悪故郷の家族が人質に取られるかもしれないんだぞ? そのことは考えなかったのか?」
冷徹なアーサーの問いに、言い返そうとしていたシリルは口を閉じた。
「分かってる。でも近くであの二人を見てたら……互いに好きあってるのは俺にだってわかる。それなのに団長が他の誰かと結婚するなんて、シャーロットはまた悲しむじゃないか!」
「お前の気持ちはわかる。でも団長はーーージェラルド殿下は王族だ。心のままに好きな相手と結婚できるわけじゃない。それはわかるだろ?」
「だけど……!」
体が大きくなって大人になったと思っていたが、この弟はシャーロットのことになると目の前が見えなくらるらしい。
もちろん兄弟としてシリルの気持ちがわからないわけではないが、アーサーは基本的に熱くなるということがない。生まれた時からずっと、頭の一部が氷のように冷えている感覚なのだ。
だからこそ、すべてを忘れて心のままに行動することなどできない。
「分かったから。それで?」
「団長に直接、なんでシャーロットに優しくしたのかって聞いて……あの人は答えなかった。俺はサンチェス様に捕まって、それから解放されるまでめちゃくちゃにしごかれた」
その時のことを思い出したのか、シリルは俯いて体を震わせる。
体中傷と打撲だらけになったくらいだ。よほど激しい指導を受けたに違いない。それでもアーサーなどは、命があっただけ寛大な処置だと思うのだが。
「じゃあ、結局結婚話は本当なのか?」
「分からない。団長は否定も肯定もしなかった。ただ少し、考えさせてほしいと」
「考えるといっても、もう国民にまでこの話が伝わってるくらいなんだろう?」
「それは……少し妙なんだ。市場の商人から聞いたんだけど、街中にやたら吟遊詩人がいて、マルグリット様と団長の恋愛譚を歌ってるって。俺も実際に見たし」
記憶を手繰るようなシリルの言葉に、アーサーは顔をゆがめた。
「作為的なものを感じるな。問題は誰がそんな手間暇をかけてこの結婚を確実なものにしたいのか、だが。他に、何か城で動きは? なんでもいい。わかる範囲でいい。できるだけ詳細に思い出してくれ」
「動きって言われてもな。俺程度に情報なんて入ってきやしないよ。サンジェルスの外交官が団長と会ったってのは、護衛してたやつから聞いたけど」
「外交官……エリアス・ヴェルナーか」
アーサーは心底嫌そうに呟いた後、シリルに背を向けて自分の私物をあさりだした。
その背中からはただならぬ気迫のようなものが感じられる。
いつも飄々としている兄だ。これほど真剣な顔を見るのは一体いつぶりだろうか。
シリルにとって不思議なのは、弟の不始末について話している時よりもよっぽど、外交官の名前を呟いた時のアーサーの方が余裕なく感じられたところだ。
「アーサー? なあ兄貴、一体どうするつもりだよ」
動揺する弟を置き去りに、アーサーは手早く身支度を整えると、男三人が寝床にしている臨時の宿舎を出た。
「馬を借りてくぞ。俺は情報収集してくるから、シリルは今度こそ何があってもシャーロットから離れるな。いいな! 何があってもだぞ」
言うが早いか、アーサーはすぐに馬の用意を済ませ走り去ってしまった。
素早いその動きに、シリルは唖然と背中を見送るよりほかない。アーサーは巧みに木々を避けて馬を走らせる。
しばらくは呆然としていたシリルも、表情を引き締めると兄の言いつけを守るべくシャーロットのもとへと向かった。




