60 蜂の企み
「なぜお前がそのことを知っている?」
ジェラルドの押し殺した声音は、平時であれば相手を威圧するのに十分な迫力を伴っていた。
しかし相手は海千山千の蜂である。
そのゴージャスな微笑みを崩しもしない。
「おや、あれで隠せているつもりですか? そちらの方が意外だ。知りようはいくらでもあります」
おそらくは、城にいる間者だろうな。
声に出さず、ジェラルドはそう当たりをつけた。
相手は大国。
息がかった者を内部に潜り込ませるなり、あるいはすでにいる者を買収するなり、やりようはいくらでもあるに違いない。
それを危惧しての森の生活だったのだが、おそらくはあの嵐の晩、ラクスに使役の術を掛けてからしばらく、城に滞在した時にどこからか漏れたか。
「むしろ感謝していただきたいぐらいだ。もうしばらくしたら、近隣諸国であなたの取り合いになる。それに先んじて、我が国では最高の待遇でもってお迎えしようというのですから」
そう言って、蜂は似合いもしない酒場のエールを飲み干した。
余裕のあるその素振りが、ひどく苛立たしい。
「……そこまで知れ渡っていると?」
「愚問ですな。森に守られたこの国は、各国の情報戦を甘く見すぎている。情報こそ百金に勝る宝。情報こそ最強の武器ですよ」
煌びやかな宮廷人どころか、まるで軍の参謀のような口ぶりだ。
ジェラルドは改めて、エリアスがただのおつかい外交官などではなく、マルグリットを女王の座に押し上げた能臣の一人だと悟った。
「少し……考えさせてくれ」
どうにかそれだけ言って、自分の分の勘定を済ましジェラルドは店を出た。
***
城へ戻るまでの道すがら、様々なことが脳裏に浮かんでは消えていった。
夜の街は静まり返っている。
蝋燭は高価だから、待ちに暮らす市民のほとんどは寝静まっている頃だろう。
「王配、か……」
今更だなと、ジェラルドは笑いたくなった。
亡きジェラルドの母ならば、或いは喜んだかもしれない。
これでファヴニールの国に復讐できると―――。
母が生きていたら、自分はこの申し出を喜んで受けただろうか?
想像してみるが、どうにもうまくいかなかった。
エリアスにペースを合わせたエールのせいか、それとも多弁の蜂の毒にやられているのか。
ジェラルドは奇妙な感慨にとらわれ、思わず笑いたくなった。
今じゃなければ、例えばジェラルドがもっと若かったなら、国のためにと喜んで隣国に赴いただろう。
ファヴニールにとってサンジェルスはすぐそこにある脅威だ。
その内部に入り込み、あまつさえ国主の配偶者となれれば、母国への恩恵は計り知れない。
しかし今のジェラルドにとって、その申し出は少しも魅力的ではなかった。
脳裏には、森で共に暮らす純朴な少女が浮かぶ。
そう、少女だ。
結婚をし、出産をして離縁まで経験していても、あの娘にはちっとも擦れたところがない。
見た目の幼さも相まって、ジェラルドには本当にただの少女のようにしか思えなかった。
―――いいや、“ただの”というには語弊がある。
少なくとも今胸に抱いている気持ちは、自分がシャーロットを“ただの少女”だと思っていない何よりの証拠だろう。
場末のエールのようにほろ苦い気持ちで、ジェラルドは空を見上げた。
星が痛いほどに瞬いている。
今頃シャーロットもこの星を見ているだろうか?
離れてそれほど時がたったわけでもないのに、既に森での生活が懐かしくなっている自分を、ジェラルドは笑った。
「これはこれは、随分とご機嫌なご様子」
突如かけられた声に、ジェラルドは動きを止めた。
いつの間に回り込まれたのか、目の前には先ほど分かれたはずの男が立っていた。
「そのご様子では、いい返事を期待しても?」
夜目の利く蜂だ。
いいや狐だったかと、ジェラルドは悪態をつきたくなった。
「まだ何か用が?」
尋ねながら、ジェラルドは周囲の気配に神経を尖らせた。
七、いや十はいるか。
囲まれている。
闇の中に人のうごめく気配がした。
どうやら自分は、思ってもみなかった話に余程心を乱されていたらしい。
そうでなければ、こんな状況になるまで襲撃者に気付かないなどありえない。
「“或いは王よりも用心深い、穴熊の騎士”あなたの通り名をご存知ですかな?」
先ほどまでと同じ余裕のある口ぶりで、エリアスが言う。
彼の左右にはいつの間にか、黒ずくめの男たちが出現していた。
「てっきり筋肉だけが取り柄の脳筋かと思っていたのですが、そのご面相は予想外でした。うっかりあなたの肖像画を陛下にお見せしてしまったのは、我々の落ち度ですが」
エリアスはジェラルドに向けてというよりは、独り言のように言った。
そして剣を抜いて周囲を警戒するジェラルドもまた、奇妙な感覚に捕らわれる。
―――なんだ?
不意を衝いて囲んだ割に、男たちは特に攻撃をしてこない。
いいやそれよりも、問題はジェラルド自身にあった。
てっきりエールのせいだと思っていた酔いが、彼から冷静な判断力を奪う。
飲んだといってもいっぱいほど。
普段の酒量からして、この程度で酔いが回るはずがない。
ジェラルドの足元がふらついた。
瞼がどうしようもなく重く、いつの間にか立っているのがやっとになっていた。
「きさま……っ!」
先ほどの食事に何か混ざっていたのだろう。
ジェラルドはエリアスを睨みつけた。
「私からしてみれば、あなたのどこが用心深いんだという話ですがね。顔こそ美しいが、脳筋であるというのはやはり間違いないようだ」
不快な蜂の羽音を聞きながら、ジェラルドの意識は薄れていった。
 




