59 影響
バシンと大きな音が響き渡る。
めっきり使われることの減った、騎士団長の執務室だ。
だが留守の間もしっかり掃除されているのか、埃っぽさはない。
兄である王との謁見から戻ったジェラルドは、古巣の様子を見るため最初からここにくるつもりではいた。
だが兄から伝えられた話によって心乱れた今、もはや騎士団の様子を見るどころではない。
懐かしそうに挨拶してくるかつての部下たちを適当にいなし、逃げるようにこの部屋に飛び込んだ。
そして冒頭の音は、彼が慣れ親しんだ執務机に両手を叩きつけた音だ。
部屋の外までついてきた騎士たちは、いったい何事かと思いジェラルドに続いて部屋に入るのを躊躇した。
生真面目だが決して権威的ではない団長の背中には、激しい怒りが陽炎のように揺らめている。
おかげで、長年苦楽を共にしてきた騎士たちですら、気軽に声をかけることが出来なかった。
「珍しいですね。あなたがそこまで感情的になるのは」
重い沈黙の中で最初に口火を切ったのは、ジェラルド帰城の報を聞いて待ち受けていた老境の騎士だった。
「サンチェス……」
ジェラルドは振り返ると、その名を小さくつぶやいた。
居並ぶ騎士の中に合って身長はすこし低めだが、それを補って余りある迫力の持ち主だ。
かつての怪我の影響か眉毛が一部分切れており、白髪の目立つごま塩頭は、短く刈り込まれている。
ジェラルドの剣の師匠でもある彼は、前線を退いた今も騎士団の顧問として城に仕えている。
王弟であるジェラルドに対しても、気負いなく声をかけることのできる希少な人物だ。
その後ろには、副団長がなんとも居心地悪そうに立っていた。
ジェラルドは気まずい思いを味わう。
感情を押し殺すことが習い性となっていたジェラルドにとって、よく知る人物に感情的な場面を目撃されるのは、なんとも決まりが悪い。
サンチェスと副団長であるガイルは、部屋の前に集まっていた騎士たちを追い払うと、中に入って扉を閉じた。
「心中お察ししますが、騎士たちの前でそれをするのはお控えください」
鼻に皺を寄せてガイルが言う。
ジェラルドが森で暮らすようになって、一番実害を受けたのはおそらく彼であろう。
今はジェラルドに代わり様々な業務が、彼の肩に圧し掛かっている。であればこそ、憤懣やるかたないジェラルドも、安易に言い返すことはできなかった。
「陛下になにを言われたのかは分かりませんが、不機嫌の理由は例の婚姻話ですかな?」
重い空気を混ぜ返すようにサンチェスから放たれた言葉に、ジェラルドは目を剥いた。
「知っていたのか!」
「知っていたも何も、王都は今王弟殿下とマルグリッド女王陛下との婚姻に沸いておりますぞ」
驚きのあまり、ジェラルドはつかの間言葉を失った。
人払いをするほどの機密情報として扱われているかと思えば、街の人々は当人であるジェラルドよりも先にこの結婚話を耳にしていたというのだ。
森に籠っていて外界と隔絶されていたとはいえ、事態の異常性にジェラルドは眩暈がした。
「まさか、兄上がそこまでなさるとは……」
ジェラルドは俯く。兄である国王がどれほど本気であるか思い知ったのだ。
国民にまで知らされているのなら、この婚姻話は殆ど覆せないところまで来ている。
ジェラルドの脳裏に、なぜかシャーロットのあどけない面影が浮かぶ。子を産んでなお、彼女はどこか無垢なままだ。
彼女と共に過ごす時間が心地よく、今まであえて先に進む必要はないと思っていた。ラクスの存在がある限り、この時間はずっと続くのだと勘違いしていた。
それがまさか、こんな形で足元をすくわれるとは。
ジェラルドが口の中で苦い後悔を噛みしめていると、近づいてきたサンチェス思わぬ言葉を口にした。
「陛下ではございません。おそらくは三枚舌の狐が、金を握らせて吟遊詩人にこの婚姻を歌わせているのでしょう」
「狐? 外交官のエリアス・ヴェルナーか!」
ガイルがジェラルドの前に進み出て、吟遊詩人の名前が書き連ねられた書類を手渡す。
反射的にその文面に目を走らせながら、ジェラルドはぎりりと奥歯を噛んだ。
「一体どういうつもりだ? 俺と自国の王女を娶せたところで、あちらにうまみなどないだろうに」
謙遜ではなく、それは事実だった。
王族同士の婚姻とは、通常和平関係の構築などのために用いられる。その場合、新郎新婦の身分が釣り合わねば意味がない。
だが大国の女王であるマルグリッドと、小国ファヴニールの、それも王位継承権において王太子に劣るジェラルドでは、政治的な価値において明らかに釣り合わない。
それをまるで既成事実のように噂を流布してまで、婚姻を成立させようとしていることにジェラルドは違和感を抱いた。
そしてサンチェスが続けた言葉が、疑念をより強固にする。
「考えたくはありませんが、あちらは既に殿下の情報を得ているのかもしれません。あの竜に関わる、その特殊性を」
ジェラルドは思わず、己の掌に視線を落とした。
数奇な運命によって、現在ジェラルドは唯一無二の存在である竜のラクスを、ある程度自由に操ることが出来る。
勿論非常時を除いてそれを行使するつもりなどないが、そんなこと相手には関係ない。
竜欲しさにジェラルドの身柄を欲しがっているのだとしたら、自国の王女との結婚という破格の条件も納得がいくというものだ。
「地位を餌にすれば、こちらが喜び勇んで食いつくとでも思ったか」
ジェラルドが忌々し気に呟く。
事情が分かったところで、彼の心はちっとも晴れることがなかった。むしろ苛立たしさが増しただけだ。




