2-18 泥濘湾猫夏大橋少年記
青く、どこまでも晴れ渡る空。
暗く、脂と泥で静かに狂って死んだ海。
鈍く、ぎらつく光を乱反射させてのたうつ波。
青く、この海が太陽と空を映し出して輝くことは最早ない。
暗く、脂と泥に埋まっていった文明と人々の営みは戻らない。
鈍く、ぎらつく光だけが今日も寄せては返す重たい漣を飾り立てる。
遠く、どこか未来の世界。
長い長い戦争の爪痕だけが残る、荒れ果てた世界。
たったひとりの旅路。心の目覚めるままに。
迷いも、悩みも、生きる意味すらない世界。
たったひとりの世界。目覚めに心を委ねたい。
泥濘と化した青希湾を南に伸びる夏すみれ半島の沖合に浮かぶ猫島と夏島を結ぶ全長約15キロメートルの猫夏大橋が崩れ去ったのは今から百年以上前のこと。かつて北政府と南方軍によって大陸を二分した、もはや誰が何のために始めたのかすら誰も何も分からなくなった戦争が始まったばかりの頃だったらしい。戦争は沈静化して久しいが、今に至るまで橋をかけ直そうという人は現れない。よしんば直そうとしたところで莫大な予算も資材も何処にもなく、騙すように連れてきた外国人技能実習生や網引島人間と呼ばれる造成人間など安価で使い捨ての労働力も手に入らない。ましてや海は北政府が作り出した濃脂雲塊による度重なる銀酸驟雨の最悪の副産物、重層油泥面層に覆われた死の海となってしまった。深層には従前からの天然海水と呼べるものが循環しているものの、そこは北政府と南方軍それぞれが開発した生物兵器の改造実験体が放置され異常進化した異体化新生物の巣窟となっている。雨の主成分には鉛やカドミウムなど重金属の他にキミカルな不可逆物質も含まれており、海に入れば一瞬で全身汚染のち数日間苦しみぬいた末に死ぬという有様。この橋が崩れてから、みんなこの島で生まれ、この島を出ることなく暮らし、この島で死んでいった。島を出る手段が無いのだ。この崩れ果てた橋を渡っていく以外には。
あの夜、目の前でオヤジが死んだ。まるで波打ち際で干上がった横須賀電氣海月みたく苦しみに青ざめながら息絶えたオヤジが僕に伝えたかったことは一体なんだったのか。それを僕は確かに聞き届けたはずなのに、記憶には一切残らなかった。
聞こえたけれど聞こえていない。聞いていたけど聞いていない。それは戦前に編み出された二重思考というやつの仕業だ。僕らはこれが文字通り遺伝子に刻み込まれている。基本的に思考や感情において自我というものがなく、体制にとって不都合な言語や音声などの空気振動はすべからく鼓膜でキャッチされた瞬間にふるい落とされ、脳が認識するよりも先に排除される。
唯一のアクセスであった橋が落ち、周囲の海にはマトモな生き物がただの一匹も居なくなり、僕らは思考と油泥と二重の意味で孤島に幽閉されている。
誰も島の外を知らぬまま百年以上が経つ。今や残存衛星からの周知映像放送も途切れて久しく、各家庭に据置された受像装置は電気信号の砂嵐だけが吹き荒れる箱になっている。新しい知らせも入らず、島の外を知るものも居なくなり、文字通り外に出ていく道もなく。だけどもう、それで他の誰かが困るということすら……。
ある曇った寂しい朝。夏島に向かい合う捻転岬から望む青希湾は白く濁っていた。どす黒く光る濃脂雲塊が輪郭をぬらぬら光らせながらごんごんと押し寄せてきた。
脂で静かに狂った海の重たい潮騒だけが病んだ海から轟いて来る。音もなく響く歌だけが脳裏に懐かしく。目の前の風に色は無く。空からは脂雨の予感がじわじわとしみ出して、今日も鬱屈の屋根の下で茫然と一日をやり過ごせと声なき声。
僕は今日、この崩れた橋を渡る。かつて混じり合い繋がっていた鉄とアスファルトとコンクリートの塊を渡って、いつか青かった空と海を探して。
脳に埋め込まれた遺伝情報制御調整器が劣化しているのか、残存衛星からの定期巡検波動が途切れたことで機能が鈍ったのか、あるいは両方か。島の中で僕だけが何かに気づいている。それが何なのかは、まだわからない。きっともっとチューナーが壊れていくにつれて見えてくるのだろう。もっと波動から遠ざかった時に聞こえてくるのだろう。
通常、遺伝情報制御調整器によって身体動作や思念沸出は全て発現するまえに管理され、安衛行則(国家安全衛生行動規則)または範念創則(模範的思念的創造的規則)によって定められたものから一定の逸脱が見られると検じられた場合、即刻のちシャットアウトされ直前の行動または思念は無効化される。復帰まで数秒から長ければ数分、重罪クラスになると数か月に及ぶ場合もあるが、たいていの場合は立ち眩みのような症状が出て、次の瞬間には規範通りの行動または思念に移行するようになっている。行動に移す前の思考から阻止しようというわけだが、それは何も自立とか独立とか下剋上など大げさなものを防がんとするばかりではない。国家は国民の安全を守るため、国民は兄弟、国民は家族との見地から僅かな変化も見逃さないようにしているのだ。
疑問、怠惰、怯懦、愚弄、軽蔑、嘲笑、望郷、慟哭、喝采、鬱屈。国家にとってどれひとつ取っても命取りとなる。だからこそ、国のために死ねと言わんばかりの全国民全体管理型安全保障社会構造体が築き上げられ、運用されてきた。だが戦争勃発から徐々に瓦解し、途切れ、破壊されたシステムは今や透明なまま社会に横たわるだけの不可視スポメニックと成り果てた。
もう何を思ってもいい、何をしても、何処を歩いてもいい。空を見上げようが海を眺めようがテントを借りようが、誰にも管理、制御されることはない。
それに気づいているのは、どうも僕だけらしい。
目の前に見えている海と空は濃淡の曖昧な鈍色に曇って黙り込んでいるが、脳裏でゆらめく空と海は青く広がり白く湧き上がり、風がそのときの匂いを運んできた。
幾重にも積み上げられ、空へと登ってゆく雲の回廊を僕は歩いてゆく。二つの景色は重なり合い引き剥がされ、やがて溶け合って消える。帰る場所が海で目指すものが空ならば、青く広いほうがいいと思うようになった。だけど毎日をやり過ごしているだけならば、鈍く曇ったままでもいい。青すぎても広すぎても、海も空も手が届かなければ虚しさと焦燥が募るばかりだから。
まあ、どっちみちこのままココに居たって何にもならない。
嵐のときは海中に沈んでしまうよう作られた道路を橋へと向かって歩き出す。他に辺りを歩く人は居ない。もう今この島に何人ぐらいが生き残っているのかもわからない。砂浜には巨大な一角噛鮫や銀輪花海月が押し寄せてきて人々を突き刺し、あるいは引き千切り、さらには長い触手で絡め捕って丸呑みにしていった。生きる希望も目的もなく、ただ茫然と壊れて狂った世界の小さな島に取り残された僕たちは理由もなく動き続け、ときどき食われ、やがて体の中で知らず知らず回り続ける時計の針が止まったらそれで終わりなのだった。
僕が踏みしめ続けてきた猫島の地面から見知らぬ場所へ。慣れ親しんだ靴音が変わる期待と不安で胸の奥が膨らんで、血の流れが速くなっている気がして。崩れ果てた猫夏大橋は僕の家からでもよく見える。橋脚、道路、パイプライン、鋼鉄のワイヤーが全てバラバラに空を目指し海を求めて散らばったように見える。低い空を背景に、鈍い海をキャンバスに、僕の脳裏に永遠に刻まれるであろう墓碑銘のような絵画。
イレギュラーと判定された国民は親愛局の職員によって帯同入所の手続きを取られ、規定の期間そこで再度の国家親愛教育を受講することになっている。ただ職員の到着には時間が掛かるはずだし、今の状況で彼らの視覚器官にイレギュラー報告機能が働いているとも思えない。いずれにしても、あまり猶予はあるまい。
密かに身支度を整えていた僕は圧縮式携行袋壱八式を引っ掴み自室を出た。
僕の家は猫島で唯一の商店だったが、売るために並べるものは何年も前になくなった。それでも倉庫に残っていた携行食や飲用の結合水滴のパックを幾つか忍ばせ、誰にも何も言わず表に出た。
島の人々は歩き始めた僕を見ても何も言わない。普段なら今の時間に適した定型発声構文が幾つかインプットされていて、そのどれかを投げかけてくるはずのなのに。
僕のチューナーが壊れかけているから彼らに認識されなくなっているのか。彼らが僕をイレギュラーと見做し、忌避しているのか。
店に並ぶはずだった品物の帳票管理システムも反応せず、なんなく持ち出すことが出来たし、亡くなった父に代わって店の管理システムと一体化した母からの無断持出物品追跡信号も受信していない。
僕は残された死にかけのシステムからも孤立したようだ。統制事務所の前も通り過ぎ、島を一周する回遊道路に出た。島の中央にこんもりとそびえ立つ猫島富士の森を抜けていくことも考えたが、ここまで放ったらかしにされるのならばいっそこのほうが安全だし、手っ取り早い。
猫夏大橋のたもとにある船着場跡は海陸共棲葉緑蔦絡に覆い尽くされ、割れた窓から建物内部にまで這入り込んで、文字通り絡みつき締め付けるように生い茂って。陸に上がったオカコンブは今の時期になると紅い実をつける。海中のミネラル分と光合成により生成した酸素を含むそれは島に住む漁師たちの栄養食や子供のオヤツであり、潜水士のボンベ代わりにもなっていた。だが戦後に汚染された海水を汲み取ったそれを噛むと海中の複合化学成分が酸素に乗って脳へと運ばれ、強烈な幻覚作用を生み出す恐るべき麻薬に変貌した。
島の人々は、僕も含め瞬く間にこれの虜になった。今もこの廃墟のなかに寝転がり、引き攣った笑い声と共に痙攣する足が見えている。自力で中毒から抜け出すことは困難で、脳に堆積した有毒物質によって神経中枢が破壊され生きたまま屍になるのを待つ他ない。島に残された少なからぬ人々がオカコンブの紅い実に侵されていった。
潮風に揺られて紅い実が笑う。笑いながら僕を誘う。ふらふらと近寄る。





