7-5
夕飯に誘ってくれたウェンディ達に、疲れを理由にやんわり断って。
雪路はボンヤリ、川沿いの道を通って帰路に着くことにした。いくらか遠回りになるのだけれど、真っ直ぐに帰る気にはなれない。
(また部屋の前とか中に、何かされてたらどうしよう)
せっかく風呂にも入って温まったのに、寝る前にまた何か掃除をしたりするのは嫌だと、そう思う。
(決闘のことも……何か対策考えなきゃだし……)
湯冷めしてしまうのは百も承知で、マフラーに顔を埋めながら、川の水面に映る星空を眺めてゆっくりと歩いた。
(とりあえず、誠さんにアドバイスして貰うとして……)
それでも勝てるだろうか、と唸る。
「ここに来てから悩んでばっかりだなぁ」
思わず独り言を呟く。そして自分が呟いた言葉から視線を逸らすように顔を横に背けると、川沿いのベンチが目に入った。
(そういえば)
ふっと、以前にここでウェンディと大福を食べようとしたのだと思い出す。
(あの時は……)
無意識に、対岸に視線を移す。
(……いないよねぇ……)
あの日は、対岸で煙草を吸っていた姿。今日は、ない。
(……忙しいのかな)
ぼんやり、立ち止まって雪路は首を傾げた。
(拗ねてる……って、エリックさん言ってたけど……)
ちゃんと食事は採っているのか。以前、対岸で会った時は徹夜になりそうだと言っていたけれど、普段はきちんと寝ているのか。
余計なお世話なんだろうなと思いつつ、ツラツラと思考する。
見詰める水面には、星明かりが映っていた。キラキラと揺れる光は、ひょっとすると空の本物よりも明るい。
(……会いたいな)
ポツリと思って、ハッと、声に出したわけでもないのに口を両手で抑えた。殆ど無意識に、何か思考を挟まず、ただその一言がポンと出てきたことに、ドキリと鼓動が一度跳ねる。
(……好きなのかな)
これは好きなのかもしれない、と、とうとう頭の中で明瞭な自分の声がした。頭の中の中の中の方、一番奥では、とっくの昔に、そんなこと分かっていたけれど。意識して考えようとすると無性に気恥ずかしくて、だから押し込めていた結論は、しかし、その刹那にとうとうポロリと抑え切れずに溢れ出す。
(……好き)
かもしれない、でも、たぶん、でもなく。これは間違いなく恋なのだと、とうとう頭の奥、無意識の領域から溢れて、意識の全てでしっかり思った。
何をして欲しいとか、好きを返して欲しいとかですらなく、ただ、好き、と。溢れ出して頭の中も肺の中も心臓も、指先や髪の先まで、それで一杯になってしまう気がする。ただ会えたなら、それだけで良いと、不意に泣きたいくらい強くそう思った。
(……私、もうダメかもしれない……)
ぼうっと思考していたら落ち着かなくなってしまって、込み上げてくる好きの衝動を逃がそうと、雪路は浮遊魔法で、対岸に行った。
キラキラ光る水面のほんの少し上を、滑るように飛んで渡った川の向こう。そこに何があるわけでもないのに、いてもたってもいられなくなった事自体、もう自分は色々とダメなのではないかと、渡り切ってますますと気恥ずかしくて。
「……決闘のこともあるのに……」
水面を見詰めて小さく息を吐いた。気恥ずかしさを誤魔化そうと絞り出した真面目な声は、しかし、音として耳に届いた瞬間、思った以上に効果を上げる。
「……そうだ……。勝たなきゃ……うかれてる余裕なんてない……」
多難な前途が不意に強烈に思い出され、どこかふわふわと現実から隔離して込み上げていた衝動は、すぅと、引いてしまう気がした。無くなってしまう訳ではないけれど、その前に、大きな壁を立てられてしまったように、それは再び頭の奥に戻ろうとして。
(……何を考えていても、決闘の不安が急に出てきて、全部持ってっちゃうなぁ)
それを忌々しく思うと同時、受け入れなければとも思った。
(……私は私の誇れる私でいたい)
他ならない、あの人に言ったではないか。
ならば、今、この時の不安も目を逸らしてはいけないのだ。それも飲み込んでこそ、あの人に相応しくありたいと思った自分に誇れる自分のはず。
高揚した気分は現実に戻って冷え始め、雪路はゆっくりと、光湛えた水面から視線を逸らす。
「……頑張らなきゃ」
帰ろう、と、少し先、対岸に渡る為の石橋に目を向けた時。
その石橋の手前、角から、人影が現れた。
「あ」
思わず、全ての動きを止めた。
(うそ)
こちらに気付かない様子で、そのまま橋の方を向いて歩いて行く後姿は、見間違いようもない。
(アントワーヌさん)
星明かりに、帽子から零れた銀の後髪が輝く。
雪路は考えるより先に、思わず駆け出した。
アントワーヌは橋を渡って行ってしまったけれど、ふと、渡り切った所で雪路の足音に気付いた仕草を見せ、振り向いた。
「……雪路?」
振り向いた一秒後に、足音の主に気付いて、金の瞳は瞬く。
「……あの……はい……」
ハッと、雪路は橋の真ん中辺りで立ち止まった。
「ええと……」
特に用があるわけでも無い。走って追い付いたくせに、それでどうしようかなんて、考えていなくて。
怪訝に思われるな、と、そう客観的に自覚して、あ、と顔に血が上ってくる。
どうしよう、どうしよう、と、思わず視線を落とした。
「……ええと、こんばんは」
ようやくと、小さく、それだけ言うと。
「ああ、良い夜だな」
アントワーヌは、特に不審に思っているようでもなく、少しだけ表情を緩めた。
「……いつもと服が違うな。すまなかった、遠目で気付かなかった」
「あ、いえ、そんな」
慌てて首を左右に振り、雪路はおずおずと思い出したように橋を渡り切る。
(……私、今まで、アントワーヌさんとどれくらいの距離感で話してたっけ?)
燦々と星空が流れる川辺。赤い煉瓦で舗装された道には、他に人はない。
三歩分の距離を開けて立ち止まり、早鐘を打ち始めた心臓の上に片手を置いた雪路は、言葉を見付けられなくて焦った。
しかし、雪路が焦った頭で何か話題を絞り出す前に、アントワーヌが再び口を開く。
「週末に決闘と聞いたが」
「は、はい……」
一歩、革靴は距離を詰めた。それにドキリと飛び上がりそうになるのを堪え、雪路はコクコクと頷く。
「三連戦、と」
金の瞳は少しだけ眇られ、いくらか怪訝そうな面持ちを見せる。
「……些か不利な条件に思えるが……?」
「……大丈夫です」
ハッと、雪路の中でまた、その現実が嵩を増し、再度、溢れ掛けていた衝動はなりを潜める。
「これは、やらなきゃならない事なんです」
ゆっくりと、冷静さを取り戻す頭で、そう思った。
「ここで逃げたら、また、前と同じだから……」
すると、一瞬の沈黙。工女の服を着た雪路に、そして、先週の決闘、加えてその後の涙など、たぶん、アントワーヌが何かしら状況を推察出来るだろう条件は揃っていた。
「……対策はあるのか?」
いくらか憂慮するような問に、雪路は一瞬、返答できない。
(勝てるかは、わからない)
勝率が低いのは明らかだった。しかしだからといって、早々に降参してしまうことも出来はしないから。いたぶられて、無様を晒して負けるかもしれない可能性の方が高くて、それを避ける秘策なんてものは、まだ、ない。
「……勝つ方法が、確実な方法があるわけでは、ないです。けど……でも、私は、戦わなきゃならない」
少し間を置いてから、ようやくと、雪路はそう答えた。悪い未来の想像に挫けかける自分にも言い聞かせるようなその言葉に、アントワーヌは、暫し沈黙を返してくる。
(……無謀だって、呆れられたかな)
不安で、そしていたたまれなくて、雪路は視線を煉瓦の道に落とした。
「あの……」
この人にだけは、他ならないこの人にだけは、呆れられたり、何か悪い方向に思われるような事にはなりたくない、と。焦りと不安に耐え切れなくて、俯いたまま、思わず掠れた声を上げかけた。
そこで、そっと、頭を撫でられる。
「あ……」
「褒める約束だったな」
黒い手袋の手が落ち着かせるように頭を撫でて、歌うように優雅な声が余裕を湛えて言葉を落とす。
「いい子だ、よく頑張っている」
その一言で、燻っている不安の全部に、まだ立ち向かえる、向かってみせる、と思った。立ち向かえる自分でいたいと、そう思う。
(頑張ろう、頑張れる、頑張りたい)
重苦しい現実への不安は相変わらず頭の中に居座っていて、それを受け入れなければと、気も張っている。
けれど、ふわふわと溢れ出る衝動は、今度は、引っ込まなかった。
(私、この人が好きだ)
ごく単純な、それだけが、頭の先から踵の先まで、溢れ返りそうになる。
声もなく、込み上げる衝動の逃がし場所もなくて、一心に、ただ溶けてしまいそうな心地で見上げてしまった、二秒。
(会えて、良かった)
会いたいと思った人に会えた幸運がゆっくり実感されて、重かった胃のあたりが、穏やかに何かから解放された気がする。
こんな幸運だってあるのが、この現実なのだ。だったら、多難で厳しく見える未来も、実は存外に何とでもなるものなのかもしれない、と。
(……大丈夫。悪いことばっかりじゃない)
思えばウェンディや工女達、書記官等の鉱夫達は味方してくれている。ニコロやヘイダルや誠だって、直接的には手助けして貰うわけにいかなくても、出来る限りで心配して、気にかけてくれるのだ。
勝たなければ、戦わねば、と。辛い事から逃げないために、辛いことばかり直視してしまっていたけれど。それで本来、身近にあったはずの幸運や安心を見落としてしまいそうになっていた。
「私、何とかやってみますね」
目を逸らさないのは自分で決めたことだ。けれど、それしか見えなくなっては、身動きができなくなる。
焦らずに、ちゃんと周りを見なければと自戒して、雪路は笑った。
「お会いできて良かったです。ちょっと弱気になってたんですけど、元気、出ました」
すると、アントワーヌは少しだけ首を傾げて、目元を緩める。
「光栄だ。俺も、会えて良かったと思う」
優雅な声色が、いつもより少し、甘い。優しさ故の甘さなのかもしれなくても、途端に意識して、雪路の頭の中はピタリと動きを止めた。
じっと見上げたまま、何も言えなくて、蕩けるくらいふわふわと心地好いのに、同時に同じくらい泣きたいほど息苦しくて。悲しくもないのに、目尻が熱くなるまま、何も言えなくて見上げ続けて。
アントワーヌは一度、金の目を瞬いて雪路を見返した。そして僅かな間を置いてから、指の甲で雪路の頬に触れる。
頬から目尻を、そうと撫でられて、雪路は声も出ないまま、びくりと心臓の前で両手を握った。
静かに見返してくる金の瞳を見上げたまま、身動き出来ないほど、心臓は早鐘を打っている。
「……雪路?」
優雅な声と同時に、もう一歩、距離が詰まる。
頬を撫でていない方の手が、そっと顎に触れて、上向くように誘った。
からころと、星明かりごと流れる川の音が、今更のように耳についた。見上げている金の瞳と銀の髪の向こうには、本物の星明かり。
(……死んじゃう)
ぼんやりと、そう思った。心臓は小さく縮んでいるのに、これ以上ないほど早鐘を打っていて、息の仕方すら忘れそうなほど、頭の中は一つの感情で埋まっていた。
このまま死んでしまってもいいくらい、どうしようもなく、この人の事を好きになってしまっているのだと、そう実感してしまうで。
「……死んじゃいそう……」
ふっと、零れた言葉。驚いたように、長い銀の睫毛が揺れる。
それで自分の声を自覚し、あ、と小さく雪路は悲鳴を上げて口を抑えた。
「あの、いや……その……。空、綺麗だなって」
顔に血が上ったのを隠すように、少し俯いて早口に、言い訳にもならないことを言う。
「……ああ、綺麗に星も月も出ているな」
アントワーヌは頷いて、雪路の頬をまた撫でてから、その手も、顎に触れていた手も、そっと離した。
(へ、変に思われたかな、さすがに……)
肩を揺らした雪路に、雪路、と優雅な声は囁いた。
「秘密の話をしよう」
「え?」
また少し甘い声色に、鼓膜が溶けてしまいそうな気がした。見上げたまま、再び動けなくなる雪路の前で、アントワーヌは微笑む。
「俺は立場上、決闘その他、花嫁候補の何事かについて、誰かを特別に支援したりはしない」
その言葉に、雪路の心臓は即座に軋んだ。それはつまり、雪路に対しても、今回、特別に応援しているわけではない、ということだから。上っていた血が、今度は一気に下がって目の前が暗くなるような感覚。
けれど、アントワーヌは続けて少し声を落とした。
「だが、今、本当は」
スラリと、左手の手袋を外して。
「俺は、お前に勝って欲しいと思っている」
「……え?」
目を見開いた雪路の前で、手袋を外した左手の中指から、銀の指輪が引き抜かれた
そうしてそれは、そのまま、そっと雪路の右手の平に置かれて。
「え、あの、アントワーヌさん」
雪路が慌てて声を上げると、軽く首を左右に振る。
「魔法の銀は魔除けになる。……といっても、特別な魔法も掛けていないこれでは、本当にただのお守り程度だが」
「あ……」
「それでも、何かの役には立つだろう、どうか、持っていて欲しい」
細められた金の瞳と、少しだけ甘えるようですらある声音。
肺も心臓も破裂してしまうのでないかと言うほど、何かが込み上げてきて、雪路は思わずギュッと両手で指輪を握り込んだ。
「……ありがとうございます」
今度こそ死んでしまいそうだった。きゅうきゅうと心臓と肺が鳴いている。
おそらく本当にお守りで、深い意味もない、単に親愛なのだと思っても。
それでも、嬉しくて、愛しくて、相手を見上げる目の奥はジンと痛んで、頬にも熱が篭っていく。
手袋をしていない手が初めて頬に触れてくる。長い指が、サラリと頬を撫で、目尻をなぞって、髪を掻き上げて。
手袋越しより少し細く、けれど、その分硬さを感じさせる手。
ゾワゾワと、そこから解けて崩れてしまいそうになって、うっかりすると表情に何か出てしまいそうで。
「あの……」
少し焦って、雪路は誤魔化すように小さく微笑んだ。
「その……この前、エリックさんが」
無言で見詰め続けたら、何を口走るかわからない気がしたので、多少強引に、雪路は話出した。
「アントワーヌさんが、拗ねてる、って言ってたんですけど……。何か、あったんですか?」
すると、人形のように端正な顔はパチリと瞠目して、それからいくらか気まずそうに笑う。
「……ああ、少し」
バツの悪そうな、それ以上は聞かれたら困ると言わんばかりの、そんな笑い方。
こんな顔もするのだなぁと思って、それを可愛いと思って。
胸に込み上げてくる締め付けような感覚に、雪路は胸元を抑えたまま、こっそり息を吐く。
「雪路?」
開いた無言の間に、アントワーヌは今度は怪訝そうに首を傾けた。
「あ、いえ」
雪路は笑って誤魔化して、頬から離れたアントワーヌの左手のあたりに視線を逸らした。
まだ手袋をしていない指先。そこまでも、綺麗に整っている。
ふと、そこで、少し遠くで鐘の音がした。一本奥の大通りで、路面電車の最終便が走って行く。この街の路面電車の最終は、地球に比べれば随分と早いけれど、それでも、もういつもなら屋敷に戻っている頃合だと知る。
「そろそろ、帰った方が良い」
アントワーヌはそう言って、道の先を片手で示した。
「……はい」
肯定しながらも名残惜しくて、雪路は思わず少し眉を下げて見上げた。
「雪路」
再び、左手が頬に触れる。今度は手の平で包むように撫でられて、びくり、と息が止まる。
「あの」
「健闘を祈っている」
優しい声色で、あやすように落された激励。
「……はい」
コクンと頷いて、雪路は、離れる手に合わせて一歩、下がった。名残惜しさは余計に募るけれど、一方で、帰って明日からも頑張らねばと、そういう気持ちが満ちてくる。
「おやすみなさい。日曜日、頑張りますね」
「ああ、おやすみ」
アントワーヌは外していた手袋を嵌めながら、小さく頷く。
雪路は軽く会釈して帰路の方に踵を返し、そして、ふと思い立って、振り向いた。
「あの、また会えますか?」
落ちた声は思ったより頼りなくて必死で、自分で少しドキリとするけれど。
「日曜日、決闘場に、会いに行く」
返って来た言葉に、思わず頬が上がった。
「待っていますね」
万感を込めて、そう微笑む。
「私、絶対に勝ちますから」
そう言い切れるくらい、無敵になったような、幸運を引き寄せたような、そんな気分。
「Tu as un très beau sourire」
「え?」
「いや」
アントワーヌは笑って、首を左右に振った。
「気を付けて帰るように」
「はい」
今度こそ踵を返して歩き出す雪路の背中に、歌うように優雅な声が、聞こえてくる。
「可愛い人、良い夢を」
ドキンとして、振り向いた時。
そこには漂う霧の名残だけ。星の流れる川辺には、真っ赤になった雪路だけが残された。
「……ずるい」
でも、そういうところ、たぶん好きなのだと、小さく小さく、呟いた。




