10-8
書斎の扉を閉めた瞬間、気配があった。
視線を向けた瞬間に、暖炉に紅蓮の火が燃え上がる。
「アントワーヌ」
火は捻れた角を持つ猫の形を取って、魔女の声で呼び掛けた。
「何か、マダム?」
「商人が」
炎の方に向き直るアントワーヌに、炎の猫はますますと激しく燃え上がり、ひときわ地獄の業火の如く赤く赤く燃える口腔をくわりと剥く。
「あの女の忌々しい番犬めが、急ぎ商談の確認をしたいと言っている!」
「この時刻に?」
部屋中が火事のような紅蓮に照らされていた。凍り付くような深い怨嗟と怒りの滲む魔女の唸りに、しかし、金の瞳は特に何を思うでもないよう、静かに少し伏せられただけ。
「忌々しい!心底に、あやつの顔を見るだけで臓が煮えくり返る!ああ、忌々しい!あの女めが!あの女の番犬めが!いずれ爪の先から一寸ごとに手足を刻み、頭は生きたまま蜈蚣と蜚蠊に食わせてくれる!」
「マダム、御無礼をお許し願いたく。アレにはこちらで話を付けておきましょう」
部屋中の紅蓮はいつの間にか本物の地獄の業火に変わっていた。決して物を燃やす事はないが、そこには確実に、見たものの正気を蝕む、禍々しく呪いの篭った炎の影が落ちている。
「ああ、お前に任せよう」
魔女は吐き捨てるようにそう言った。
「よく働け」
パチン、と。そうして炎は去った。
再び暗闇に包まれる部屋の中、金の瞳は、そのまま、バルコニーのある履き出し窓の方へと向いて。
ひとりでにカーテンが開き、窓から、煌々と照る月明かりが降って来る。室内の闇は青を帯び、窓前の床には、窓枠の形で一層青い青い明るさの染みが落ちる。
その青い光の染みに、ブクブクと、毒々しい緑色の泡が生じた。それは次の瞬間パァンと弾け、幾千もの小さな禍々しい青の鬼火が吹き上がったかと思うと、その向こうから、人影が現れる。
「いやぁ、遅い時刻に申し訳ありません」
微塵も負い目など感じていない声で、現れた商人は嘯いた。
「美しい紅蓮の魔女様はお怒りではありませんでしたか?いえ、直接貴方を訪ねようとしたのですが、私避けに特化して拒絶の魔法がガンガンに掛かっているものですから、この屋敷」
酷いですねぇ、とさも悲しそうに商人は肩を竦めた。
「仮にも親友に対して、うっかり押し入ったら三回くらい死ぬ様な本気の呪いの魔法で訪問拒否しなくても……。確かに昔、勝手に入って家中の家具を私好みに変えたりしましたけど……。でも、ほら、あの時、キッチンの収納棚は気に入ってたじゃないですか、貴方」
「火急の確認事項とは?」
ソファに座って、アントワーヌは問うた。
「そんなに急いで本題に入らずとも、少し思い出話などは」
「急ぐ必要があるから、この時刻にわざわざお越しかと思ったのだが、ムシュー?」
「……まぁ、急ぎではありますね、いつだって」
商人はソファの方を振り向き、ゆっくりと歩み寄る。
「いつでも、栄光ある我が麗しき主は、この鉱山特区の件について、早急な〝処理〟をお望みです」
そして、商人はニコリと両頬を更に釣り上げる。
「先日の話の続きをしましょう。楽しい楽しい、交渉の時間です」
パサリ、と、カーテンが再び閉まった。
「商人」
「待てはなしです、聞きなさい。今夜こそが、貴方を口説き落とすには最適と、私が決めました」
真っ暗になり、互いの輪郭すら定かではない闇の中。けれど何にぶつかるでもなく、商人は、コツン、コツン、と室内を歩き回り始める。
「ねえ、ご存知でしょう?かつて魔法界に君臨した、恐ろしい、それはそれは恐ろしい、最強の魔女の物語」
淡々と、いつも通りの慇懃無礼な調子で、その〝交渉〟は唐突に始まった。
「強欲にして美しく、美麗にして強欲。地獄が歩くかの如し最強の魔女は、その富と美貌への果てない欲望のまま、魔法界を蹂躙しました」
数え切れない娘達が手足を切り落とされ、目を抉られ、皮を剥がれ、その美貌を保つ為の妙薬となり。数え切れない男達が、その富への執着を満たす為、鎖に繋がれ、死を持ってしか解放されぬ奴隷となった。
あるいは、その魔女の欲望を叶える為に狩られ、滅び去ってしまった亜人種族、魔獣種も数知れない。
「魔法界王室は、麗しき栄光の女王陛下の元、第一王子を総大将に、直下騎士十二団、ならびに属国たる各種特区……すなわち、魔法界でもなく、地球でもない、しかし同じ世界線にある異界の支配地より、総勢二万の戦力を招聘し、たった一人の魔女の討伐を試みた」
しかし、と、商人の声は、暗闇の中で囁く。
「……惨敗したのですよ」
感情の失せた声で、ただ淡々と。
「あの魔女は、〝予言された魔女〟だった」
予言が如何なるものかは知っているでしょう?と、商人は続けた。
「魔法界には、生まれた瞬間に〝運命〟を予言される者達がいる。そうした者達は、たいてい、魔法界において偉業を成す特別な者達だ」
予言とは、偉人たるべき赤子に約束される、決して破れぬ強固な呪いであり、同時に、加護。
「予言を受けた者は、予言通りの存在になる。予言から外れたことは、決して実現しない」
そして、恐ろしい最強の魔女が受けた予言は。
「〝魔法界に属する者には、決して殺せぬ〟」
それは事実上、魔法界にとって、最大にして絶対の脅威となる存在ということ。
予言は違いなく実現され、魔女が居地としていた最果ての城に向けた戦力の半数以上は、その肌に傷の一つもつけられぬまま薙ぎ払われ、無惨な骸となった。命のみは残った戦力も、最早二度と使い物にならぬ状態となり、命からがらに退却した状態。
高笑いを響かせながら、女王の首を捥ぎ取らんと居城を出て迫る魔女を前に。魔法界王室は、ひとつの決断を下した。
「……魔法界王室は、魔女を殺すのではなく、封じ込める事にしました」
いつも通りの慇懃さを取り戻し、商人は囁く。
「丁度、支配者も、先住民もなく、ただ存在するだけであった、異界に」
それがここですよ、と、甘くさえ聞こえる声音で。
「……我々魔法界が、あの魔女に〝何〟を与えて、ここに封じ込めたか……。この異界の、無限の富を生みす尽きぬ鉱脈、永遠に歳を取らぬ停止した時間……その源」
ふわりと、暗闇の中で風が吹いた。闇の中、左右で異なる瞳が、ただ一人を、凝視する気配。
「あの魔女は、〝賢者の石〟を、持っている」
低く、甘さを消した声は、いっそ冷たさすら感じさせない声音で、囁いた。
「最早、我等王室ですらその理論を知らぬ古代魔法の至宝。究極の答、神に至る導、あらゆる欲望を叶える、至高の魔法結晶、最後の奇跡です」
歌うように、朗々と。
「魔女……そう、この鉱山を支配する、あの強欲で美しい紅蓮の魔女が、なぜ、後継者を欲しているか分かりますか?」
コツリ、と、アントワーヌの真後で、商人の足音は止まって。
「……貴方も既に薄々、お察しの通りです」
コツリ、ソファに一歩近付く音がした。
「あの魔女は、〝ここから出られない〟のですよ」
嗤う様に、声は落ちる。
「魔法界王室が仕掛けた罠。この世界で永遠の富と美貌を得るかわりに、魔女は、この世界から……賢者の石から、離れられない」
だから、と商人の声は再び囁く様に小さくなった。
「魔女は、自身に変わって賢者の石を安定させる人柱として、後継者を求めている」
言葉が止めば、一瞬、脳に刺さるような静けさが辺りを支配する。あらゆる雑音を拒絶し、あらゆる音が外へ漏れぬよう、魔法が掛けられた書斎の中。気の遠くなるような無音と、目を開いていることすら忘れそうな底のない黒の闇に、気配だけが二つ、存在している。
「我々魔法界王室は、紅蓮の魔女の後継者が現れる前に、何としても今度こそ、奴を殺さねばならない」
再び話し出した商人の声は、足音もせぬまま、気付くと真横に移動していた。
「しかし、予言がある以上は、我々魔法界に属する者には、決して、あの魔女は殺せない」
そこで、と、猫撫で声が少し腰を折ったように近くなる。
「魔法界に属さず、しかし、他ならぬあの魔女に抗する手段を持っている者が、ひとり、いる」
キシリ、と、ソファが軋む音がした。腰を下ろした商人は、猫撫で声のまま、声を潜める。
「パリは今も健在です。貴方の知る頃のまま、華やかに、麗しく、そして、今や更に賑やかに。……ねぇ、貴方は、あの都に帰りたいと、思わないのですか?」
返事を返さない相手に構わず、甘やかな猫撫で声は滔々と続く。
「たとえ後継者が決まっても、その後継者は封印解除の為の人柱として、不要になるまで魔女の監視下で飼い殺されるだけ。ならば、後継者への景品である貴方達も、何があっても帰還を許されることなどないのです」
低く、優しくその誘いは落ちる。
「魔女を殺しなさい。とっくに、貴方もその結論に辿り着いているはずです。ならば、我々魔法界はその結論に助力を惜しまないのです、親愛なる、私の親友」
「……助力を惜しまぬ?」
そこで初めて、アントワーヌは口を開いた。
「……違うな。都合良く、予言から外れた人間を、利用したいだけだろう」
「おやおや」
わざとらしく悲しげな声が答える。
「百年以上、貴方に信頼して頂けるよう、真摯に取り組んで来たつもりなのですが……。まだ、信頼して頂けないのですか?」
「……話はそれだけか?」
アントワーヌは淡々と、いつも通りの歌うような声を上げた。
「いずれにせよ、重要事項を深夜の疲れた頭で決めるのは遠慮しよう。再度出直しを願おうか」
そうして、立上がりかけた瞬間に。
「ねぇ、おわかりですか?」
ぐい、と、右肩を商人の手が掴み、覗き込むように、立ち上がる事を邪魔する気配。
「私がなぜ、今日に限って、こんな真夜中に、この話をしに現れたか」
猫撫で声が囁いた。
「いつも、貴方が屋敷に私を入れまいとしているのは知っていましたが。……今日はことのほか、私のみならず、あの魔女の介入さえ極力最小に……そう、この部屋から漏らさぬように魔法が巡らされていた」
気配が近付き、声は更に近く、囁く。
「随分と、大事にしてあげたい客人が、いるようですね」
微かに、掴んだ肩が動いたのを悟った商人は、喉の奥で嗤う。
「……ねえ、魔女の後継者となったものは、この世界から二度と逃れられない。……まだ帰る場所がある子なら、さぞ可哀想な結末ですねぇ」
優しく、優しく、けれど背筋を凍らせるような冷たさを込めた低い囁きで。
「……あるいは、魔女が後継者を得て再び魔法界に戻れば、この特区……魔女と、我々魔法界の戦争が、始まるでしょう」
その時に、と、言い聞かせるような丁寧さで、脅す様な甘やかさで、言葉は紡がれた。
「貴方が必死に築き上げた、この平穏も、崩れ落ちるのです」
答えを返さぬままのアントワーヌに、クスクスと商人は嗤う。
「何もせず立ち止まっていれば、いつか地獄はやってくるだけ」
なんて悲しいことでしょう、と。嘯いて、商人は最後に呟いた。
「貴方は賢明な人だ。どうぞ、賢いご決断を」
ふわりと、カーテンがひとりでに開き、光を取り戻した室内。商人はいつの間にか窓際にいて、優雅に一礼していた。
「Gute Nacht. 返答は次回をお待ちしましょう。良い夜をお過ごし下さい」
そうしてその姿はふわりと鬼火に変わって消えて。
数秒、沈黙があった。
それから、もう他に誰も聞くもののない声が、部屋に、落ちる。
「……殺したところで、それで、終わるものか」
不老不死、無限の富。人が思い描く〝願い〟の代表格。
〝賢者の石〟とは、そういうものだ。不老不死や無限の富、それだけに限らず、ひとのありとあらゆる願いを叶える不可能なきもの、形持つ奇跡、究極の魔法結晶。時を操る魔法に次ぐ、神話、伝説の時代に錬成され、以降、二度とその製法に届いたもののいない、古代の遺産。
仮に、現状で賢者の石の所有者である魔女が死んだならば、魔法界は、その超貴重な奇跡の結晶を前に、どう動くか。
あるいは、魔女が賢者の石により生み出した、この世界の理。無限の鉱山、永遠の時は、それを〝願った〟者が消えた時、どうなるか。
まったく予想できないわけではない。むしろ、それだけならとっくに予想は出来ている。
予想が出来ているからこそ、慎重にならざるを得なかった。導き出した予想故に、これは、あまりに複雑な問題であると、わかってしまっている。
この両肩に乗った責任は、決して軽いものではない。そしてそれを、死にたくなるほどの重い責任を、決して苦痛ではないと、あるいは、どんなに苦痛だろうと最後まで手放してなるものかと、誓った自負がある。
だから、ここで安易な決断は出来ない、しない。
「……何もしなければ戦争だとしても。……狐め、早々に決められるものではないと、わかっていて嘯くか」
吐き捨てて、ドサリと。アントワーヌはそのままソファに横になった。




