10-6
衣服や靴は、魔法で乾かす、泥を落とす、あるいは浄化系の魔法で殺菌する事までは可能らしい。
ただ、下がった体温は戻せないし、水を浴びて中途半端に崩れた髪や化粧を戻すのは、〝時間を巻き戻す〟大魔法の領域になる。魔法界でも殆ど伝説や神話の域だと言う時間操作系の魔法は、流石のアントワーヌでも使えない。
ならば、いっそ半端に残って見苦しい飾りは落とした方が良いと、雪路はそのまま浴室を借りた。
いつか借りた通りの快適な浴室で熱い湯を浴びるとサッパリして、涙の跡や崩れた化粧が落ちると同時に、気分も完全に持ち直す。体温も上がって、ホッと人心地。
綺麗に戻った服を着直して廊下に出て、キョロリと左右を見回した。
(食卓、食卓……)
約束通りにフルコースを用意していてくれたようで、少し遅い時刻になってしまったけれど、どちらも夕食を取っていないから、約束通りに食事にしよう、と。
(……髪とかお化粧とか)
予定通りに一番良い状態ではないけれど。取り消しにならなかったことが嬉しくて、雪路は小さく微笑んだ。
(……でも、指輪は、残念だな……)
なくしてしまったと謝ると、アントワーヌ当人は、元より〝毒林檎〟を想定してのものだから、今失くしても問題ない、気にするな、と笑ってくれたけれど。
(……だって……)
他ならないその人から貰った物だから。単にお守りだったり、試練対策だったとしても、雪路にとっては大事な大事な物だったのだ。
だいぶ落ち着いて冷静になったとはいえ、そこだけは、やはり引っ掛かっていた。
(……明日にでも、あの井戸の周辺、探してみようかな)
そう決めて、よし、と、小さく頷いたところ、食堂に辿り着いた。
ノックしてから開いたドアの向こう、綺麗に食器の並んだテーブル。洒落た燭台の灯で照らされた室内は、四隅がぼんやり曇って闇に融ける、淡い明るさで。柔らかい絨毯の感触といい、一瞬、煙るような美しい外国の映画のワンシーンに入り込んだような錯覚。
「あの」
「奥の席へ」
ノックを聞いて厨房から出て来たアントワーヌは、軽く笑ってテーブルの方へ視線を向ける。
「あの、前は、もっと椅子が……」
前回訪れた時には、確か七脚あった椅子が、今は二脚だった。示された席に座りながら首を傾げると、ああ、と、金の瞳は瞬いた。
「今日、そこに座るのは、お前だけだ。だから他は不要だろうと」
どかした、と。事もなく言いのけて、席について。
わざわざ、椅子まで片してくれたのだと。お前の為、と、そう思って、料理だけでなく、手間をかけてくれていたのだと。
嬉しいやら緊張するやらで硬直した雪路に、キョトンと一瞬、視線を向けてから、アントワーヌは小さく笑う。
「では、やや遅いが食事にしようか」
視線一つで、卓上の硝子瓶やグラスが動き出し、飲物を注ぎ、前菜が現れ。
「……魔法みたい」
「魔法だが」
うっかりと、当然の感想を漏らした雪路は、面白そうに返されてハッと我に返る。
「あ、いや、その……わ、わかってますけど!」
慌ててコクコク頷いて、誤魔化すように、目の前にフヨフヨ浮いて来た華奢なグラスを手に取る。
葡萄色の液体に、一瞬、お酒だろうかと手を止めて。けれど、ふわりと甘い香は、アルコールのそれではない。
「アルコールは入っていない」
見た目だけ、それらしくしてみただけだと言われて、安心して乾杯に応じた。
「あ、これおいしいです」
口に含むといよいよ、お酒どころか、ほんのり甘くて優しい味のジュースに頬を緩めると、そうか、とアントワーヌは頷いた。
「口に合えば何より」
「アントワーヌさんのそれは、本物のお酒ですか?」
殆ど同じにしか見えない液体を見比べると、ああ、と返答がある。
「お酒って、おいしいんですか?」
「物によるだろうが……。一口飲むか?」
軽く傾けられたグラスに、パチリと雪路は瞬きして思案する。
(きょ、興味がないわけじゃない……)
一口、となれば、誤差の範囲だよね、しかも、ここは地球でも日本でもないから合法だし、と。それは罪悪感よりも好奇心が勝る申し出で。
「じゃぁ一口……」
ちょっと手を伸ばしてグラスを受け取ると、その間に、皿の上にはいつの間にか前菜が乗っていた。
「……渋いです」
赤いワインは、単純に、苦いというか、渋い気がした。香りはとても良くて、一瞬、美味しそうだと思ったのだけれど。
「ええと……葡萄ジュースとは違うんですね、甘くないです」
「……違うだろうな、それは」
私には早かったです、と神妙にグラスを返す雪路に、一瞬、間を置いてからおかしそうな小さな笑い混じりで頷きが返された。
「甘い物が好きか?」
「はい。チョコもクッキーも、ジュースも、甘い物はだいたい好きです」
頷いて、そうだ、と思い出す。
(聞こうと思ってたんだ)
今度会った時には、相手の好きな物や、嫌いな物、たくさん聞きたいと、そう思っていた。
前菜に手を付けながら、雪路はコテリと首を傾げる。
「アントワーヌさんは、どんな物が好きなんですか?お酒は好き、って事です?」
「どちらかと言うと、苦手の部類に入る」
「え」
思いがけない返答に、思わず手を止めた。
「じゃぁ、なんで……?」
今飲んでいるんだと目で訴えると、いや、と少し気まずそうに金の瞳は逸らされた。
「味が苦手なわけではない。味だけならば、ワインやシャンパンは好きだが……」
弱い、と。観念したように、アントワーヌは笑った。
「飲み慣れない日本酒など飲まされた日には、下手をすると朝まで机で熟睡だな」
「ええ、意外です……」
何をしても平然としていそうな雰囲気があるのに、と。素直に呟くと、そうでもない、と肩を竦める。
「誠にはよく潰される」
「誠さんが?」
「あれは酒豪だぞ。しかも、滅多に酔わないが、酔うと饒舌になって、誰かれ構わず頭を撫で回す」
「ええ……」
それは意外過ぎる一面だぞと思わず息のような声を漏らし。
「……あ、お料理おいしい!」
止めていた手を再開して口に含んだ前菜は、チーズと野菜で出来ていて、ほんのり鼻に抜けるような香りまで美味しい。
「おいしいです、これとパンだけで、お腹いっぱいになるまで食べられちゃいそうです!」
「……前回より、語彙が増えている」
「そこですか!?そこにそんなにビックリしますか!?」
わいわいと話ながら食べているうちに、皿が空いた絶妙なタイミングで、次の料理が現れる。
魔法って便利だなぁ、と思いつつ。
おいしい、おいしいと口角を上げ続けていると、やはり語彙は前のままだと笑われて。
「だっておいしいから、おいしいって言うほかないじゃないですか!」
メインの肉料理に差し掛かった辺りで、雪路は力説した。
「見た目もすっごく綺麗ですし!味もおいしいですし!これ、もうお店で出せますよ!」
「それは光栄だ」
クスクス笑うアントワーヌに、そこでふと、雪路は思い至る。
「もしかして、アントワーヌさん、本当にお店で出してた人ですか?」
「ん?」
聞き返されて、ええと、とちょっと間を置く。
「あの……もしかして、地球にいた頃、シェフだったとか、かな、って」
いつか誠と話したように。もう地球に帰りたいとは思っていないのかもしれない。不意にそんなことが思い起こされて、そうだとしたなら、自分はどうするだろうと、チクリ、逃げ切れない問題が頭を擡げる。
「なるほど。……しかし、残念だが、シェフではない」
ちょっと気分が沈み掛けたところで、歌うように優雅ないつも通りの声が言った。
「あちらにいた頃は、料理なんて殆どしなかった」
「え」
これも意外だと思って、笑う顔を見返した。
「じゃぁ、地球にいた頃って……ええと、お仕事何をしていたんです?」
「どう見える?」
逆に面白そうに問い返されて、ええと、と考え込んだ。
(……確かに、シェフって言うよりは、なんか、こう、貴族、とか、そんな感じっぽい……)
誠がこちらに来て七十年ほど、そして、ヘイダルやニコロ達は、一九一〇年代に来たというから、約百年ちょっと。話によればそれよりも前に、この世界に来たというアントワーヌは、つまり百年以上前のフランスにいたということで。
(その頃って、貴族ってあったっけ?)
貴族に対して民衆が挑んだフランス革命といえば有名だし、学校の授業でやったような気もするけれど。それが果たしていつごろだったかは、ざっくり、十九世紀前後かな、くらいで、ちょっと自信がない。
「ええと……ナポレオンはマリー・アントワネットより後だっけ?……アウステルリッツ……会議は踊る……」
ブツブツ呟く雪路を、アントワーヌは楽しげに眺めていたけれど。
「俺は一八五〇年代、第二帝政……ナポレオン・ボナパルトの甥、ナポレオン三世の在位期にこちらに来た。だが職は、おそらくお前の時代にもあるものだろうな」
その言葉に、パッと視線を向ける。
「私の時代にも……」
ならば貴族というわけでもないかと呟くと。
「貴族位は持っていた。伯爵家だ」
「え」
「祖父の代に、爵位を買った家系だった」
生粋の貴族ではない、ということのようだけれど。それでも爵位持ちとはイメージ通り過ぎる。
「だが、俺の代では革命の後だ。身分だけで職になる時代ではない。職は別にあった。……ああ、爵位を買うほど稼いだ祖父とは、別の職だが」
ううむ、と、雪路は考える。
(……現代にもありそうな職業……)
改めて相手の姿を見る。
「俳優さん?」
「Non」
それこそ、ちょっと微笑むだけで山ほどファンが出来そうだと呟いた答えは外れらしい。
「……弁護士さん?」
「Non。……役者よりは近い」
「警察官とか?」
「Non。だが、ある意味で、近付いてはいる」
「もしかして、軍人さん?」
「……限りなく近い。ほぼ正解だ」
「限りなく近い?」
どういう事だとパチパチ目を丸くする。軍人、というのも、イメージというよりは、ふと、誠やヘイダルの顔が浮かんだので、言ってみただけだったのだけれど。
キョトンと首を傾げる雪路に、アントワーヌは軽く片手をヒラリと振った。
「軍医だ。俺は医者だった」
「軍医さん」
その言葉に、雪路はオウム返してから、なるほど、と納得する。
「意外か?」
「いえ、……どっちかと言うと、お医者さんって、納得です、何となく」
白衣なんて着たら、とんでもなく似合いそうだと、思わず頬を抑える。
(絶対かっこいい……)
特にそういうフェチがあるわけではないけれど。想像するだけで、無性にソワソワしてしまう。
(しかも軍医さん)
ならば軍服でも着ていたのだろうか。白衣に軍服に、それはちょっと盛り過ぎている、ズルくはないかとそう思う。
「絶対かっこいいじゃないですか……」
思わず声に出してしまってから、ハッと慌てて口を抑える。すると一瞬、キョトンと間を置いてから当人は笑った。
「それは素直に嬉しい感想だが……。実物を見たらガッカリしただろうな」
「え?」
「戦地では常に、血だか薬品だかわからない物で汚れてボロボロだった記憶しかない」
それは想像がつかない、と思う。いつ見ても身綺麗で、どこか特別感のある容姿をしたアントワーヌだから。汚れてボロボロの姿なんて、イメージできない。
それに。
「戦地って、どこか戦争に?」
軍医なのだから当然と言えば当然だけれど。戦争に行っていたのかと、何だか衝撃がある。
「クリミア半島の戦争に」
ポツリと、アントワーヌは答えた。答えて、ほんの刹那だけ、金の瞳は部屋の隅の方を見た。
「クリミア半島……」
聞き覚えのある地名だと思って呟いた途端、ピンときた。
「ナイチンゲールの!?クリミア戦争ですか?」
小学校の頃に伝記を読んだ事がある。現在の看護師の礎になったという世界一有名な看護婦も、確か、その戦争と共に歴史に名を残したはず。
「ああ、スクタリの野戦病院の……イギリスから来た看護婦殿か」
後世でもかなり有名になったらしいな、と。金の目は再び雪路の方へ戻ってくる。
「知ってるんですか?」
「いや。俺はフランス軍の軍医で、ほぼセヴァストポリ近郊野営地の救護所か、戦艦の上にいたからな。一度、遠目に見た程度しか」
「遠目に……見たこと、あるんですか……」
歴史の教科書でしか知らない人と、同じ時代に同じ場所にいた事があるという。本人は事もなげだけれど、雪路からすればポカンとするには充分過ぎた。
パチパチと無言で目を瞬いて驚いていると、アントワーヌは笑って軽くテーブルの上を示す。
「感心して貰えるのは悪くない気分だが、手が止まっているぞ、マドモアゼル?」
ハッと、雪路は、肉にナイフを当てたまま停止していたことを思い出した。
「す、すみません、つい」
マナー違反だろうかと慌てて赤くなると、いいや、と楽しげに首を振る。
「見ていて非常に面白い」
「それ、良い意味ですか!?」
むむ、と視線を向けると、ああ、と穏やかな声が返ってきた。
「とても」
ふわりと、目を細めてアントワーヌは頷く。
「とても、良い意味だ」
見た事のない表情だと、雪路は思った。人形のように整っていて、あるいは高級な猫のように優美で、だからこそどこか気難しげで厭世的な雰囲気さえ纏っているいつもの様子と、それはちょっと違っている。
本当に、ただ楽しいような。ふわりと、空気が抜けたような、くつろいだ表情。
完全な素の状態と言うべきか。全く警戒や身構えがない状態というか。完全に信頼されたような、不意に無防備に、何か核心に触れさせて貰えたような気がして、ヒョコンと心臓が飛び跳ねた。それからバクバクと駆け足になって、頬骨の辺りが熱くなってくる。
(……どうしよう)
好きとか嬉しいとかですらなくて。おそらく、そういう思いもいっぱいいっぱいあるのだけれど。けれど、そういう言葉だけでは名状しがたい衝動が込み上げて、顔を上げているのも手一杯になった結果、無意識に視線を手元の皿に移す。
「……わたし、いま、すごく……すごく、しあわせかもしれません」
ボソリと、堪え切れなくなって、溶け出た声に。
「それは良かった」
クスクスと楽しげな声が応じて、どうぞ、と、空になっていたグラスに葡萄色の液体が注ぎ直される。
「お前に喜んで貰えたなら、何より嬉しい」
この人は、私を恋しさで殺してしまうかもしれない、と。ふわふわして、けれど焼き切れてしまいそうな頭の奥で、雪路はそう思った。




