↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女と鉱石、帰還譚  作者: 空野
Chapitre.10
104/323

10-5

 「このっ……開いて……!開いて、よ……!」 

 浮遊魔法を発動し、渾身の力で押した鉄格子は、けれど、一向にびくともしなかった。

 「開いてってば……!」

 カンッと、格子を拳で打つ音が虚しく響き、ゆるゆると、雪路は浮遊魔法に込めた力が抜けて落ちていく。ポチャリと、着地した足は、足首まで泥水に浸かった。

 薄暗い古井戸の底。頭上には、本来なら落下事故防止の為の鉄格子が被せられていて、浮遊魔法でも出る事はできない。

 雷撃系の魔法を真正面から食らってしまい、一時的に意識が飛んで。気付くと井戸の底だった。

 厚くてブヨブヨした泥と水の層があったおかげで、大きな怪我はないけれど。折角の服は汚れ切ってしまっている。

 「……どうしよう……」

 見上げた格子越しの空は、とっくに夕焼けのオレンジを通り越して藍色で、星すらハッキリと見えていた。

 「もうとっくに……」

 約束の時間なんて過ぎているに違いなかった。バッグに入れていた腕時計は壊れてしまっていて確認のしようもないけれど、空を見れば一目瞭然に遅刻どころの騒ぎではない。

 「……どうしよう」

 訝しんでいるだろうか、それとも、勝手に約束を反故にしたか、忘れたかと思って、怒っているのではないか。

 普段ならば、アントワーヌに限って前者はともかくと、すぐさま後者のような反応をするわけがないと、わかるのだけれど。せっかくの服も靴も汚れ果てて、化粧や髪すら濡れて崩れ、泥を被って酷い状態で。おまけに冷えて来た空気は、水浸しの体から体温や体力も奪っていく。寒いやら、悲しいやら、焦るやら、身心共に最悪の状態で冷静を欠いた頭では、通常なら有り得ないと切り捨てるような嫌な考えがもっともらしく膨らんでいく。

 (謝らないと)

 もう二度と、夕飯になんて招いて貰えないのではないか。早く、早く事情を説明して謝らねばと、そう焦燥して。

 その一方で、こんな格好で、と、絶望的な声が頭の中で聞こえた。せっかく、せっかく、楽しみに、一生懸命、頑張ったはずなのに、全部、全部無駄になってしまった、と。

 よしんば遅刻を許して貰えたとしても。今日の約束は消滅だ。もしかしたら、最高の姿で、それをかわいいと、似合っていると、言って貰えたかもしれない、楽しかったはずの初めての約束は、もう、有り得なくなってしまった。

 それがもったいなくて悲しくて、さっきからずっと、喉の下、肺の辺りがフルフル震えて重くて息苦しい。

 (カレンやウェンディも、応援してくれたのに)

 本当は、引越し初日だからと、三人でお泊まり会でもしようかという話もあったのだ。けれど、雪路に予定があるならと、喜んで送り出してくれたのに。

 こんなことなら、お泊り会にしていれば良かったのだと、後悔のような、申し訳ないような気持ちも湧いてくる。

 肺が冷たくて重くて、息をしているのが辛くて、お腹が重苦しくなってきて。

 (……もういいや、どうせ汚れてるし……)

 ちゃぽん、と。投槍気味に乱暴に思って座り込み、雪路はグリグリと頬を片手の甲で擦った。もう片手は無意識に、首からチェーンで下げていた銀の指輪を掴もうとして。

 そして、気付く。

 「あ……」

 落とされた時にか、それとも、もっと前にか。チェーンごと、無くなっている。

 「うそ」

 さぁっ、と。元から寒さで下がっていた血の気が更に一気に引いた。反射的に両手を前に付き、泥の中を探る。

 「ねぇ、うそ、うそでしょ……!」

 さほど広くない井戸の底。ますます泥だらけになるのも構わず探した指輪は、けれど、見付からない。

 「……ねぇ、それだけは……ねぇ、やめてよ……」

 細い声で呟いても、何かが変わるわけなくて。

 「そんな……ねぇ……なんで……」

 頭の中が真っ白だった。約束は破ってしまったし、泥だらけにはなってしまったし、何もかも台無しで、その上、あの指輪まで、なくしてしまったなんて。

 「……どうしよう……」

 こんな所で泣いていたって、もう取り返しは付かないと、頭の奥の方が怒ったように冷静に怒鳴り散らしているけれど。じゃぁ、どうしろっていうのよ、と。もう何もかも最悪で、台無しじゃない、と、頭の表面の方も、ヒステリックに喚き散らして自暴自棄になっている。

 まともに動いている思考なんてなくて、無意識にボロボロ落ちる涙に当てようとした手は、やっぱり泥だらけで。

 目に入るから、だめだ、と。そこだけ、妙に反射的にちゃんと動いた思考が余計に悲しくて苛ただしくて、ますます泣けて来てしまった。 

 息が喉でつかえて、こめかみの奥の辺りが引っ張られたようにキンと痛い。もうどうでも良いやと、服で泥を払った手で、顔を覆った。

 そこで、ジワリと、何かの、気配を感じた。けれど、こんな狭い井戸の底に何かいるわけもないと、あるいは、もう何もかも自暴自棄でどうでも良くて、目も向けずにいると。

 円形の井戸を構築する四角い石の角、じわりと、滲み掛けた何かは、次の瞬間に掻き消えた。

 それから、一分。

 ガタリ、と、頭上で音がした。

 「雪路」

 聞こえた声に、ハッとする。

 「こんな所にいたのか」

 微かに、いつもの優雅さを欠いた声だった。少し焦燥したような、驚いたような。

 「アントワーヌさん……?」

 細く、無意識で呟くと、一瞬の間を置いて、霧が立った。そうして気付いた時には、乾いた芝生の上に座り込んでいた。

 「怪我は?」

 目前に膝を付いたアントワーヌは、金の瞳を瞬いて首を傾げる。

 「ずぶ濡れだが、体調も悪くなっていたりは」

 ふっと、伸ばされた手を、殆ど反射で身を引いて避けてしまった。

 「雪」

 「あの、汚いので……」

 手袋をしていなかった手に、泥が付いてはいけないと。

 「あの、ごめんなさい、私、約束破っちゃって……」

 俯いたまま、目を合わせられなかった。こんなに汚れて酷い状態だし、おまけに泣き顔なんて綺麗なものじゃない。何より、怒っていないか怖くて、顔を下げたまま、言い訳じみた、泣き声まじりの早口だけが上滑りする。

 「ごめんなさい、私、ちゃんと、ちゃんと、覚えてたんです。楽しみにしてて、絶対に、遅刻したりしないつもりだったんです。一番、一番、ちゃんとした格好で、ちゃんと……ちゃんと、行く、つもりで……」

 そうなのだ。忘れるはずなんてなくて、何より楽しみにしていて、毎日、毎日、ワクワクしていて。絶対に、絶対に、失敗なんて、したくなかったはずなのだ。

 声に出しているうちに、それが全部水の泡になってしまったのを改めて実感してしまって。

 喉が引き攣って、息の仕方を忘れたように、言葉が止まる。喋りたいのに、喋らなくてはと思うのに、空気がうまく使えない。喉が引き攣って、肺が停止して、肩だけが震えていた。

 「ごめん……なさ、い……」

 涙声でようやく捻り出した声に、一瞬、返答はなかった。

 それから、黙ったまま、抱き寄せられた。

 ギュッと、少し苦しいくらいに片腕で引き寄せて、もう片手は、ポンポンと、頭を撫でてくれる。

 「……気にしていない」

 少し間を置いて、静かにアントワーヌはそう言った。歌うような優雅さよりも、ただ、穏やかに、静かに、そうっとそうっと、壊れ物を扱うような優しさを出そうとしたような、声だった。

 「事故か何かだろうと思っただけだ。俺は何も気にしていない」

 冷え切っていたから、服越しでもとても温かくて心地良かった。汚れてしまうとか、濡れてしまうとか、離れなければと思うのだけれど。それでも抗い難いほど、その腕の中は安堵出来る。

 「お前は何も悪くない、全部、大丈夫だ」

 何も心配するようなことはないから、と。断言されて、ボロボロと、今度は体中の強ばりが取れたせいで、涙腺の力も抜けたように、また涙が出て来る。

 「遅刻したのは俺だ、すまなかった。もっと早く、猟犬でも魔法でも使って探すべきだった」

 怪我はないか、と。具合が悪くなっていたりは、と。問われて、フルフル首を横に振った。

 「……ちがいます……、ちがうんです」

 あなたは悪くないと、掠れ声で呟くと、もう一段、背中に回っている手に力が籠る。

 「……いい子だ」

 ポツリと、呟くように言って、数度、片手で雪路の髪を梳いて。

 「だいぶ冷えている。服は魔法で乾かしてやれるが、下がった体温は戻せない。移動するとしよう」

 優しい声音に、思考が落ち着いて来た雪路もハッとして、コクリと頷いた。

 「移動の魔法を使うが、お前はおそらく、その手の魔法での干渉に対する耐性がかなり強い。長距離移動では、〝落とし〟かねないから、出来るだけ動かず、このまま、よくよく掴んでいてくれ」

 「〝落とす〟?」

 聞き返すと、ああ、と金の瞳は少し細くなる。

 「この世界に来て最初の時も、〝落ちた〟だろう?」

 ああ、そういえば、と、思う。魔女に連れ去られた時、雪路はどうやら、本来着地すべきではないところへ、メルヴィンの鉱山へ落ちたのだったか。

 また、目的地以外に落ちては大変だと、恐る恐る、緊張しながら服を掴むと、クスクスと、すぐ頭上で笑い声がした。

 「……ずいぶん、遠慮がちだな」

 「え、あの、だ、だって……」

 今更ながら、気恥ずかしさで声が詰まる。

 好きな人に、思い切り抱き締められて、平然とはしていられない。

 思い出したようにバクバクと早くなり始める心音が伝わりはしまいかと、慌てていると、ポンポン、と、片手がもう一度頭を撫でる。

 「いい子だ」

 宥めるような声に、パチリと目を瞬いた瞬間。

 「……少し遅れたが、約束通り、屋敷にお招きしよう」

 フワリと、視界に霧が広がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。