11月3日-3
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「・・・・・・ちゃん、お・・・…ゃん…」
「…………」
「……おにいちゃん、お兄ちゃん。時間だよ」
「ん……あ……・・・」
…ゆさゆさと軽く肩を揺すられる感触に、ふいに僕は眠りから覚めた。
なにか…すごくいい夢を見ていたような気がするのだけど、起きた瞬間に
ころっと忘れてしまった。
ただ、内容は忘れてしまったけど、余韻のようなものはかすかに残っている。
なのでまだ目を開ける気にもなれず、口だけ開いて絵依子の声に応えた。
「………ん……あとちょっとだけ……」
「だめだって。ほら起きてよ、お兄ちゃん」
今日は代休だっていうのに、なんかやたらとしつこく起こそうとしてくる。
なんなんだ……まったく
「…わかったよ…。ふあ……もう…朝かぁ……」
「……もぉ。朝か、じゃないよ。もうお昼前だよ。あんまり気持ち良さそう
だったから、起こさなかったけど」
「え……!? ほ、ほんとに?」
あわててまぶたを開けた時、僕の目に飛び込んできたのは、窓から差し
込む強めの光と、絵依子の柔らかな笑顔だった。その絵依子の髪を、少し
開けた窓から入る風が、ゆるゆると優しく撫でている。
「………?」
ふと僕は、自分の頭がいつもの枕ではなく、なにか妙に心地いい…柔らかい
ものの上に置かれていることに気がついた。
そして僕を覗き込む絵依子の顔が……妙に近い。
「これ……何がどうなってるんだ?」
「何って、まだ寝ぼけてるの? 膝枕してあげてるんだよ」
「……は………?」
……がばぁっっ!!!
「わ……起きたばっかりなのに元気だね、お兄ちゃん」
「ば、バカ! なに勝手なことしてるんだよっ!」
「…もぉ、それはこっちのセリフだよ。起こそうと思って枕元に座ったら、
お兄ちゃんが自分から転がってきて乗せたんじゃん」
「え………?」
あまりに信じがたい話を聞かされ、気恥ずかしさと、自分でもよく分からない
ショックがごちゃ混ぜになり、思わず飛び起きてしまった僕を見ながら、くすくす
とさもおかしそうに絵依子が笑う。
「しょうがないから、さっき起こすまでそのままにしといてあげた、天使の
よーな可愛い妹にそんなこというなんて、ほんっとお兄ちゃんってサイテーだよ
ねぇ……」
「あぅう……、ほ、ほんとうに……?」
「あ、な~んかお兄ちゃん、ホントにすっごく気持ち良さそうにしてたよ?
いろいろ寝言までいってたぐらいだし」
「な……な……!」
きっと今の僕の顔は、とんでもないほど真っ赤になってることだろう。鏡なんか
見なくても分かるぐらいだ。
どうしてここまで恥ずかしいのか…自分でもよく分からないのに。
「あ、あの……、な、何か僕、変なこととか言ってたか……?」
「えへへ。教えなーーーい♪ でもここだけの話…、かなーり衝撃的な内容
だったよぉ? 愛の告白? みたいな~?」
「そ、そんな訳あるか! だ、だって僕は別に…、す、好きな人なんか……」
「はいはい。じゃあそぉいうことにしておいてあげる♪ わたしの勘違い
でしたっ☆」
「ぐ…ぐぐぐぐぐ……」
「とにかく起きたんならご飯にしよっか。朝ごはん…っていうより、もうお昼
だけど。……ほらほら、早く立って!」
結局、先日のようにまたぐいぐいと絵依子に押し切られ、僕はダイニングに連行
されたのだった。
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「お兄ちゃんの朝ごはんはそれだけど、足りる?」
絵依子がチンしてくれた、ご飯とみそ汁、ベーコンエッグにサラダがテーブルに
並ぶ。だけど絵依子の席には何もない。
「あぁ…うん。でも、おまえのは…?」
「わたしはもう食べちゃったよ。だから今からお昼だよ」
呆れたような声で言いながら、コンロの前に立つ絵依子が、鍋にインスタントの
ラーメンを放り込んだ。っていうか、こいつにラーメンなんか作れるのか…?
「足りなかったらお兄ちゃんの分もラーメン作るよ? いる?」
「い、いや…いいけど。おまえ……大丈夫か……?」
「…なにが?」
「何がって……」
みそ汁を作るのも、あれだけ悪戦苦闘してた絵依子である。インスタントとは
いえラーメンを作るなんて、あいつには不可能な仕事に思えてならない。
しかし、ふと見ると鍋のそばには、すでにもやしやらハムやらが準備されて
いた。あとは麺を湯がいて、スープの粉を溶かすだけのようだ。この間のように、
包丁が欠けたりしている様子もない。
「意外にちゃんと出来てるんだな……。こりゃびっくりだ…」
「ん? なんか言った? 集中してるんだから邪魔しないでよ?!」
国語の授業で習った、『男子三日会わざれば何とか』というやつだろうか。
インスタントの麺を茹でながら、恐ろしく真剣な眼差しで鍋に向かう絵依子の
成長した姿に、僕はちょっとだけ感動していた。
まぁ、こんなのでも絵依子も一応は女子なのだけど……。
少しして、見た感じはしっかりとラーメンしている丼を、どん、と絵依子が
テーブルに置いた。
「「いただきまーす!」」
僕は冷蔵庫に入っていた、母さんの作ってくれた朝食、絵依子は自作の
インスタントラーメンと、メニューはバラバラながらも、声だけはいつもの
ように揃った。
まずはみそ汁をすすり、ご飯をほおばる。この間と同じような味ということは、
今日のみそ汁も絵依子の手作りなんだろう。
「もぐもぐ……そういえば母さんは?」
「あ、お兄ちゃんが寝てる間に電話があってね、お母さん、急な手術が入った
から帰るのは夕方になるって」
「そっか。相変わらずだなぁ……」
病院の仕事、看護師の仕事はこういうことは珍しくない。特に母さん
みたいなベテラン看護師はそうらしい。
人の命を預かる仕事なのだから、状況や場合によっては自分のことを後
回しにしなきゃいけないこともあるんだろう。ましてや母さんの性格だと、
自分からそういうのを背負い込むだろう。
ほんとうに…大変な仕事だとつくづく思う。母さんには早く楽をさせて
あげたい。本当に…つくづくそう思う。
このみそ汁もそうだけど、絵依子がラーメンまで作れるようになったのも、
僕と同じ思いからなんだろう。きっと。
「ふーっ、ふーっ、はふはふ…ずずず……、ぷはーーーっ!」
「…………」
と、感慨にふけりながら、ずるずるとラーメンを貪る絵依子を見ていると、
なんだか妙においしそうに見えてきた。
「……なんか美味しそうだな。一口もらっていいか?」
「え~~~? さっきいらないって言ってたじゃん」
「ケチケチするなよ。一口だけだからさ」
「…もぉ、そんなに食べたい? しょうがないなぁ。じゃあ……」
「サンキューな。では……」
パァ……ッッンンッッ!!
少しだけこっちの方に動かしてくれた丼に、さっそく僕は箸を入れようと
した。でもその瞬間、指ごと僕の箸が……弾かれた……!
目にも留まらぬ、おそらくは絵依子の左ジャブが……僕の右手を弾いた。
不思議と痛みはほとんどない。だけど…衝撃でびりびりと右手がしびれている。
「…なにしてんの、お兄ちゃん」
「え…? な……なにって…、ひ、一口……」
「……ち、が、う、でしょ? はい、あーーーん♪」
・ ・ ・ え え え え え え え え ! !
ま 、 ま た か ! !
「い、いや、文化祭の時はフォークがひとつだけだったから、ああするしか
なかったけどさ、今はほら……」
まだしびれが残る右手をテーブルの上に戻し、マイ箸の存在をアピールしようと
した瞬間、僕は言葉を失った。一方、絵依子はニコニコと笑っている。
僕の箸は…頭の部分を残して…消滅していた。
「な……」
「あぁ~、これじゃ自分で食べるのは無理だねぇ。しょうがないなぁ~お兄
ちゃんは。ほんとにもう~☆」
みるみるうちに、残った頭の方も細かなヒビが入り、完全に破壊された……。
この現実を目の当たりにしては、さすがの僕も「もう一本取ってくるよ」とは
言えなかったのだった…。
「じゃあはい、あーーーん♪」
「・・・・・・・あーーーん・・・・・・・」
絵依子のラーメンの味は……正直分からなかった。
余計なこと言うんじゃなかった………。
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…結局「あーん」は一口で終わらず、三口ほど食べさせられたあと、代えの
箸を取りに行くことを許された僕は、再び自分の朝食に取り掛かっていた。
「ところで絵依子、おまえは今日、どうするんだ?」
「わ、わたし? まぁ…いろいろと…かな。お兄ちゃんは?」
「特に予定はないよ。だからバイトの時間までゴロゴロしようかなって」
…普通に答えたとたん、残りわずかなラーメンをすすっていた絵依子が、
なにか虫けらでも見下ろすような目で僕を見た。
「うわぁ……、やっぱりお兄ちゃん、いつもトイレでご飯食べてんじゃ
ないの? せっかくの平日お休みなのに、友達と遊ぶ予定もないなんて…」
「…うるさいな。バイトまでの時間を体力回復にあてる、合理的な判断
だと言ってほしいね。それでなくっても昨日の片付けや、ヘンな夢のせいで、
僕はいろいろボロボロなんだから」
実際、起きたばかりとはいえ、まだ昨日の疲れが完全に抜けている感じは
しない。夕方からのハードなワークに立ち向かうには、目いっぱいの休息が
必要なのだ。
「ふ~ん…。でもそういえば今朝はびっくりしたよ。だけど怖い夢見て飛び
起きるなんて、お兄ちゃんってやっぱり子供みたいだよね。くすくす……」
今朝方の一件を思い出したのか、絵依子が笑う。まぁ確かにあれは我ながら
相当みっともない姿だったと思う。
今でこそただの『夢』だと割り切れているけど、でもあの時は…本当に
正気を失いかけるほどの『悪夢』だったのだ。
「う……うるさいなぁ。っていうか、元はと言えばおまえのせいなんだよ…」
「…どういうこと? お兄ちゃんの夢にわたしが出てきたの?」
「あ、い、いや……、そ、そういうことじゃ……」
ついうっかり口に出してしまったものの、絵依子が夢に出てきたのではなくて、
逆に絵依子だけがいなくなったからだ、とはさすがに言えなかった。だけど、
何を勘違いしたのか、絵依子がニヤニヤと笑っている。
「ふ~~~ん。なるほどなるほどぉ~」
「だ! だから違うって言ってるだろ!」
「ねぇお兄ちゃん、これから寝るとき、子守唄でも歌ってあげようか?」
「あのな……いい加減にしないと怒るぞ?」
「はいはい♪ でももし、またうなされたら、今度はすぐに起こしてあげるね」
「………」
結局誤解は解くことも出来ず、僕は無言のままご飯をかき込むしかなかった
のだった。




