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第5話 濃姫の密書と、美濃紙買い占め作戦

第5話です! ここから第2幕「美濃経済攻略編」へ突入します。

美濃からの経済封鎖に対し、聡は美濃の特産品を巡る先物取引を仕掛けます。

清洲城の奥御殿に漂う空気は、昼間の本丸広間とはまるで異なっていた。

薄暗い行灯の灯火が、障子に微かな影を落としている。伽羅と白檀が入り混じった甘美な香煙が、部屋の隅に澱むように揺れていた。


「……お前が、噂の商社マンとやらでおじゃるか」


絹擦れの音とともに、漆黒の濡れ髪をゆったりと垂らした美女が、上座の円座から聡を見下ろしていた。

薄紅色の小袖を肌蹴させ、白磁のような肩を惜しげもなく晒している。年齢は十八かそこら。だが、紫がかった細い双眸には、美濃の蝮と呼ばれた斎藤道三の血を引く者特有の、冷ややかな知性と猛毒が宿っていた。

織田信長の正室、濃姫――帰蝶。


「おい、帰蝶。余のソウをあまり舐め回すように見るな」


信長が不機嫌そうに腕を組み、聡の前に立ちはだかる。


「ふふっ、吉法師。そんなに目くじらを立てずともよいではないか。四万の今川勢を一滴の血も流さずに追い払い、東海道の商路まで奪い取った男ぞ。どれほどの化け物かと思うたら、案外、人の良さそうな顔をしておる」


帰蝶は煙管をくゆらせ、紫煙の向こうから妖しく微笑んだ。


「ソウと申したな。……美濃の兄・斎藤義龍が仕掛けてきた『塩留め』と『禁輸』、どう切り抜ける心算でおじゃる? 美濃の山林から切り出されるヒノキの角材と、公家や寺社が買い求める美濃和紙。これらはすべて、尾張の富の源泉。これを断たれれば、尾張の城下の息の根は止まるぞ」


信長の眉間に、微かな緊張が戻る。

だが、聡は正座を崩さず、静かに手帳を取り出した。


「義龍公は、経済というものをまるで分かっていませんね」


「……何?」


帰蝶が紫煙を止め、細い眉をぴくりと動かした。


「美濃は山国です。ヒノキ材と和紙を輸出し、その代金で尾張や伊勢から塩と魚を買い付けることで国が成り立っている。義龍公が自ら境目を封鎖したということは――今頃、美濃国内の製紙問屋や山林地主は、出荷できない在庫の山を抱え、日々の飯代すら工面できずに悲鳴を上げています」


聡は手帳の頁をめくり、尾張と美濃の川筋をペン先で叩いた。


「買い手がいない物は、暴落する。これが市場の絶対原則です。今、美濃の紙と材木の価値は、かつての三分の一以下まで叩き売られているはずだ」


信長と帰蝶が息を呑んだ。


「暴落だと……? 敵の国の中でか?」


「ええ。だからこそ、こちらから仕掛けます。桶狭間の和睦で手に入れた今川領の塩と、伊勢湾の干鰯(ほしか)。そして堺の商人から集めた銀を元手に、美濃の商人たちから『和紙と木材の全在庫』を、裏ルートから一括で先物買い占めします」


「買い占める……!? 敵の禁輸令を無視してか!?」


信長が目を剥いた。


「商人は武士のメンツなどでは飯を食えません。義龍公の命令に従っていれば一家心中です。そこへ『尾張の黒川聡が、全量を即金で買い取ってくれる』という話を持ちかければどうなるか。……美濃の商人たちは、我先に密輸船を仕立てて清洲へ物資を流し込みますよ」


帰蝶は煙管を取り落としそうになりながら、目を見開いた。

やがて、その艶やかな紅唇が三日月の形に吊り上がる。


「くくっ……あははは! 恐ろしい男! 兄上が締め上げたつもりが、締め上げられて干からびるのは美濃の城下の方でおじゃるか!」


帰蝶は円座から身を乗り出すと、信長の制止をすり抜けて聡の頬にすっと白い指先を触れさせた。


「気に入ったでおじゃるよ、ソウ。……美濃の闇商人との繋ぎは、この帰蝶がすべて手配して進ぜよう。吉法師の財布だけでなく、わらわの裏帳簿にもなっておくれ?」


「余の男に気安く触るなぁぁっ!」


信長が割って入り、帰蝶の手をパチンと払い落とした。

奥御殿に火花が散る中、聡は密かに息を吐き出した。

『戦国の姫君たちは、誰も彼も一筋縄じゃいかないな……』

だが、作戦の第一歩は確実に動き出していた。

翌週、木曽川の境目の渡し。

月明かりのない漆黒の夜、川霧が水面を白く覆い尽くしていた。

ちゃぷん、ちゃぷん、と静かな水音が闇に響く。

川上から現れたのは、十艘を超える細長い平田舟の船団だった。

舟の舳先には、山積みにされた極上の美濃和紙の束と、切り出されたばかりの青々としたヒノキの角材。


「……黒川殿はおられるか! 長良川の紙問屋、角屋でござる!」


蓑を着た美濃の商人が、小声で必死に呼びかけてくる。

岸辺の葦原から、柴田勝家が護衛の兵とともに進み出た。


「ここにおわす! 声が高いぞ、商人ども!」


金髪の三つ編みを頭巾で隠した勝家が、鋭く一喝する。

聡は泥濘を踏みしめて舟へと歩み寄ると、荷駄馬に積んできた麻袋の山を指差した。


「約束通り、三河湾の極上白塩百石と、伊勢の干鰯二百俵。さらに差額の銭は、堺の豪商・今井宗久の裏書きがあるこの金銀為替手形でお支払いします」


袋の口を開けた瞬間、商人の目が丸くなった。純白の塩が月明かりにキラキラと輝いている。


「し、塩だ……! 本物の塩がこんなに……! 城下の民は塩が買えずに塩抜きで倒れかけておるのです! これさえあれば、一族郎党救われまする……!」


商人は涙を流して聡に深々と頭を下げた。


「買い占めた紙と材木は、すべて尾張の舟へ積み替えろ。明日からは、さらに買い取り価格を一割上乗せする。美濃の同業者すべてに伝えなさい。『米と塩が欲しければ、紙と材木を持って木曽川へ来い』とな」


「は、ははぁっ! 必ずや、美濃中の問屋に触れを出しまする!」


その効果は、劇薬のように美濃全土を蝕んでいった。

斎藤義龍が城から「尾張との商いを禁ずる」と触れを出せば出すほど、美濃の物資は闇ルートを通じて木曽川を渡り、尾張へと激流のように吸い込まれていった。

清洲城の広大な土場には、良質なヒノキ材と和紙が山のように積み上がり、尾張の職人たちは安価な資材で大いに潤った。

一方、稲葉山城の城下町では――。


「なぜじゃぁぁぁッ! なぜ尾張が干上がらず、我が城下から紙も木材も消え失せておるのじゃぁぁッ!」


義龍の狂乱の怒号が響き渡っていた。

塩と米が枯渇し、物価が高騰。領民や商人たちの不満は頂点に達し、稲葉山城の足元は音を立てて崩壊し始めていた。

清洲城の天守で、木曽川の向こうにそびえる稲葉山城を見つめながら、聡は隣の信長に告げた。


「信長様、機は熟しました。次は尾張で『楽市楽座』を布告します」


「楽市楽座……? 座の特権を破棄し、市場を誰にでも開放するのか?」


「ええ。関所を完全撤廃し、税を免除すれば、美濃の商人は店ごと清洲へ移住してきます。戦わずして、敵の富と人口をすべて吸い上げるんですよ」


信長はぞくぞくと身体を震わせ、琥珀色の瞳を爛々と輝かせた。


「ふふっ……恐ろしい男よの、ソウ。……だが、稲葉山城にはまだ、美濃きっての知恵者と謳われる軍師がおるぞ」


「知恵者?」


「名を、明智十兵衛光秀。……余の叔父の客将を務める、銀髪の怜悧な娘じゃ」


銀髪の知性派軍師――明智光秀。

破綻寸前の美濃で、過労に喘ぐもう一人の天才少女との出会いが、すぐそこに迫っていた。

【兵站ミニ解説:美濃和紙と為替手形】

美濃は古来より良質なコウゾと長良川の清流に恵まれた紙の特産地でした。戦国時代の公文書や領地の検地帳、寺社の記録用紙として美濃和紙は莫大な需要を誇り、紙を抑えることは現代の半導体を抑えるに等しい経済的打撃力を持ちました。


次回『第6話 楽市楽座の先手打ち、岐阜城包囲の米相場』は明日18:00更新予定です!


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