第6話 楽市楽座の先手打ち、岐阜城包囲の米相場
第6話です!
尾張での楽市楽座と、美濃の年貢米十万石をめぐる空売り&買い占めの合わせ技。
そして、美濃の城内で倒れかけている銀髪の少女とは……?
銅銭の擦れ合う乾いた音と、香ばしい焼き魚の煙が、清洲城下を白く染め上げていた。
道幅五間の本町通りは、身動きが取れないほどの人波で埋め尽くされている。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 美濃の白木椀が今なら銅銭十文だよ!」
「伊勢の干鰯に三河の塩! 座の冥加金(上納金)は一切なし! 尾張の楽市でしか買えない安値だよ!」
商人たちの威勢のいい掛け声が、初夏の青空に突き抜けていく。
黒川聡は泥の落ちたスーツの袖をまくり、帳面を片手に市場の中央を歩いていた。その隣には、朱色の長羽織を羽織り、物珍しそうに屋台を覗き込む織田信長の姿がある。
「ソウ、本当に座の問屋から冥加金を取らぬのか? 商人に勝手に商いを許して、城に銭が入るのか?」
信長が訝しげに琥珀色の瞳を向けた。かつて領主といえば、座と呼ばれる特権商人から巨額の上納金を取り立てるのが常識だった時代だ。市場を開放するという発想そのものが、戦国の常識を覆していた。
「取らなくていいんです、信長様。座の特権をなくし、関所を廃止すれば、他国の商人が競って集まる。商いの数が十倍になれば、流通する米と銭の総量が桁違いに跳ね上がります。領民の消費が増え、武具や兵糧の調達コストは三分の一に激減するんですよ」
「……うむ、確かに。以前は一俵四百文した兵糧米が、今は二百五十文で手に入るな」
信長が感心したように頷く。
そこへ、大槍を肩に担いだ柴田勝家が、満面の笑みで駆け寄ってきた。両手には、焼きたての団子の串を山のように抱えている。
「軍師殿! 美濃の鍛冶問屋が工房ごと清洲へ引っ越してまいりましたぞ! 『稲葉山城下では鉄も炭も手に入らぬが、清洲へ来れば何でも揃う』と涙を流して喜んでおりました!」
「勝家、そなたはまた買い食いをしておるのか。余の財布に無駄遣いをさせるな」
「滅相もござりませぬ、吉法師様! これは我が隊の足軽どもへの差し入れにござる!」
豪快に笑う勝家を見て、聡も思わず頬を緩めた。
自由な市場の活気は、どんな堅城よりも強固な国力を作り出す。だが、本番の経済戦はここからだった。
◇◇◇
その日の午後、清洲城の勘定所。
静まり返った部屋に、薄衣を纏った濃姫――帰蝶が忍び足で入ってきた。
「ソウ、美濃の兄上から、まことに愚かな報せが届いたでおじゃるよ」
帰蝶は煙管の灰を火鉢に落とし、妖しく目を細めた。
「兄・斎藤義龍は、度重なる商人や民の尾張流出に焦り、城下の全豪農から年貢米十万石を強制徴発したそうじゃ。それを堺の豪商へ一括で売り払い、鉄砲千挺を買い揃えて力任せに尾張を踏み潰す心算でおじゃる」
「十万石の年貢米の投げ売りですか」
聡は手帳に筆を走らせ、冷徹に微笑んだ。
「義龍公は、自ら墓穴を掘りましたね」
「墓穴……? 十万石の米が銭に化け、千挺の鉄砲が美濃に揃えば、脅威ではないのか?」
信長が身を乗り出す。
「揃いませんよ。市場に突如として十万石もの米が一気に供給されれば、相場はどうなりますか? 大暴落です」
聡は手帳に一本の需要と供給の曲線を引いて二人に示した。
「私はすでに、堺の豪商・今井宗久と津田宗及に裏から手を回してあります。東海道の自由通商権をエサにして、『美濃の米はカビが生えて質が悪いという噂を流し、買い取り価格を一石あたり通常の半値以下まで買い叩け』と指示を出しました」
帰蝶が息を呑んだ。
「……半値に買い叩く? それでは兄上の手に入る銭は半分にしかならぬではないか」
「それだけじゃありません。買い叩いた十万石の米を、堺の商人名義ですべて我が織田家が秘密裏に買い取ります。そして、美濃国内へ通じる長良川と木曽川の米問屋をすべて抑え、美濃国内の小売市場への米の流入を完全に止めます」
聡の言葉に、信長の背筋に冷たい戦慄が走った。
「待て……それは、美濃の城下から米が完全に消えるということか?」
「ええ。城外の米はただ同然で安く買いたたかれ、城内の領民や足軽が買う米の値段は十倍に跳ね上がります。『米先物の空売りと現物買い占めの合わせ技』です。義龍公の手元には鉄砲を買う銭も残らず、城下の民は飢えに苦しみ、年貢を強奪された農民の怒りは爆発する」
信長は息を詰め、やがてぞっとしたように自らの肩を抱いた。
「……お前という男は。槍一本振るわずに、国一つを丸ごと干上がらせるのか」
「兵站と物流を敵に回すとは、そういうことです。戦わずして勝つのが、商社マンの仕事ですから」
聡の冷徹な経済包囲網は、わずか一ヶ月で美濃の首都・稲葉山城を機能不全へと追い込んだ。
米相場の暴騰により、稲葉山城下では暴動と打ちこわしが頻発。
城を守るべき足軽たちへの給糧も途絶え、脱走兵が相次いだ。
さらに、美濃の重鎮である『美濃三人衆』――稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三名が、「義龍様にはもはや民を養う器量なし」として出陣要請を拒否。事実上の反旗を翻したのだ。
そして、運命の夜。
木曽川を渡って清洲城へ滑り込んできた忍びの斥候が、勘定所へ転がり込んだ。
「も、申し上げます! 斎藤義龍、城下の暴動を抑えきれず、錯乱の末に発狂! 重臣たちに見捨てられ、稲葉山城は完全に孤立いたしました!」
「城の兵力は!?」
信長が問う。
「本丸に立て籠もる兵は、わずか百余名! しかも、兵糧は一粒も残っておりませぬ!」
「勝った……!」
勝家が歓喜の声を上げる。
「吉法師様、今こそ全軍で稲葉山城へ攻め寄せ、美濃を平定いたしましょうぞ!」
だが、斥候は躊躇いがちに言葉を継いだ。
「……されど、城の軍師館にて、たった一人で踏みとどまり、帳簿を抱えて城門を死守している者がおりまする」
「何? まだ抗う者がおるのか?」
「はい。名を、明智十兵衛光秀……。南蛮眼鏡を掛けた銀髪の少女武者にござります。不眠不休で城内の米の配給を調整し、倒れかけた兵に自らの食事を分け与えながら、なおも帳簿の計算を続けておりまする。……すでに過労で立っているのもやっとの様子にて」
聡の胸の奥底に、鋭い痛みが走った。
『明智光秀……。真面目すぎて、破綻した組織の全責任を一人で背負い込み、潰れかけているのか』
聡は立ち上がり、信長に向き直った。
「信長様。明日の稲葉山城への入城、私に先頭を歩かせてください」
「ソウ? 武器も持たぬお前が先頭を行くのか?」
「ええ。武器はいりません。持っていくのは――温かい炊き立ての白米と、新しい帳簿です」
聡は手帳を懐に収め、力強く頷いた。
「あの真面目すぎる軍師を、救いに行きます」
美濃平定の瞬間、そして歴史に名高い天才軍師・明智光秀との運命の出逢いが、いま幕を開けようとしていた。
【兵站ミニ解説:米先物と空売り】
米の先物取引は江戸時代の堂島米会所が世界最古の先物取引所として有名ですが、現物の大量供給による相場暴落と買い叩きは、古来より相場師たちが行使してきた冷徹な経済戦の手法でした。
次回『第7話 美濃無血開城、銀髪軍師・明智光秀の参入』は明日18:00更新! 第2幕完結です!
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