第4話 海道一の美姫と、交わされた約束
第4話、第1幕完結話です!
孤立した今川義元の本陣へ突入した聡。刀ではなく「通商同盟」を突きつけます。
紅絹の天幕を叩く雨音が、激しい豪雨から静かな小雨の気配へと変わりつつあった。
天幕の破れ目から吹き込む風には、硝煙の苦みと、焼き払われた米俵の香ばしい匂いが混じっている。
「死にさらせ、今川義元ッ!」
織田信長が一歩踏み込み、白刃を抜いた。切っ先が義元の白皙の喉元へ、あと数寸というところまで突きつけられる。
「吉法師様、やめろ!」
黒川聡は泥まみれの革靴を踏みしめ、信長の南蛮胴の背中を掴んで力任せに引き戻した。
「邪魔をするな、ソウ! ここで義元の首を獲らねば、尾張の憂いは消えぬ!」
信長が血走った瞳で振り返る。その呼吸は肩で荒く上下していた。
「逆だ、信長! 首を獲ったら、それこそ尾張は全滅する!」
聡の鋭い叫びに、信長が息を呑んだ。
「……何だと?」
「よく考えろ! 義元公の首を獲れば、駿河・遠江・三河の今川一門が狂乱の復讐軍になる! 後継者の氏真や、大高城に詰める松平の三河勢が、弔い合戦と称して総力戦で尾張に攻め寄せてくるんだ! 三千しかいない織田軍で、復讐に燃える三カ国の本気を受け止めきれると思うか!?」
信長の全身が、ピシリと凍りついた。
「それは……」
「大将首を獲れば勝ちという、単細胞な武士の頭から脱却しろ! 今川軍四万は、兵站を断たれて田楽狭間の泥濘に立ち往生しているだけだ。まだ兵自体が死に絶えたわけじゃない。追い詰められた獣を袋叩きにすれば、死兵となって暴発するぞ!」
聡は信長から手を放すと、床几に腰掛けたまま静かに扇を弄ぶ今川義元の前へと進み出た。
義元は濡れた黒髪を雅やかに肩へと流し、妖艶な薄笑いを浮かべたまま聡を見上げている。
「……面白い男でおじゃるな。織田の小娘よりも、よほど物の道理が見えておる」
「義元公。あなたも分かっているはずです」
聡はスーツの泥を払い、商談の場と同じ冷徹な眼差しを義元に向けた。
「四万の将兵は、一歩も進めず、食う米もない。雨が上がれば飢えと混乱で自壊します。ですが――織田軍は、今川軍四万の全将兵が駿河へ無事帰還するための『最低限の干し飯と塩』を提供します」
天幕の外で大槍を構えていた柴田勝家が、目を剥いて叫んだ。
「ぐ、軍師殿!? 敵に塩を送るどころか、米まで恵むというのか!?」
「恵むんじゃない、取引だ!」
聡は義元を真っ直ぐに見据えた。
「条件は二つ。第一に、今川軍の即時・完全な尾張からの撤退。第二に、今後三年間における織田領への不可侵、および尾張と駿河・遠江を結ぶ東海道の関所撤廃と通商自由化だ」
義元が扇を止め、その涼やかな切れ長の瞳に、底知れぬ知性の光を宿した。
「……四万の命の買い戻し料としては、まことに痛いところを突いてくるでおじゃるな。海道の関所を払えと申すか」
「将兵の命と引き換えなら、安い買い物のはずです。手ぶらで帰れば恥辱ですが、『敵の補給遮断を見抜き、大局を見て和睦を結んで全軍を無傷で連れ帰った名将』として駿府へ帰還できる。あなたの面子も立ちます」
義元はしばし聡を値踏みするように見つめ、やがてくすくすと喉を鳴らして笑い出した。
「ふふっ……あははは! 見事、実に見事でおじゃる! 命を握られ、兵を救われ、その上で行く道の恥まで雪いでもらえるとはの」
義元は床几からしなやかに立ち上がると、十二単風の陣羽織を翻し、聡の鼻先まで顔を近づけた。白檀の優雅な香りが、硝煙の匂いを上書きする。
「約条、呑みましょうぞ。織田との戦はこれにて手打ちじゃ……ただしソウ、一つだけ言い添えておくでおじゃる」
「……何でしょうか?」
義元は細い指先を聡の胸元に這わせ、妖しく微笑んだ。
「そなたのような稀代の兵站頭、尾張の田舎に埋もれさせておくには惜しすぎる。……いずれ必ず、わらわの夫(兵站総督)として駿府へ迎え入れてみせるでおじゃるよ」
「な、何を馬鹿なことを――」
「余の男に手を出そうとするな、この古狸がぁぁっ!」
信長が般若のような形相で割り込み、大太刀を二人の間に振り下ろした。
義元はひらりと身をかわし、優雅に扇を翻して天幕の外へと歩み去っていった。
「退き陣じゃ! 全軍、駿河へ引き揚げるでおじゃる!」
義元の号令とともに、今川軍四万の撤退が始まった。
一滴の無駄な血も流さず、尾張の運命を分けた桶狭間の戦いは、織田方の完全なる勝利で静かに幕を引いた。
翌日、清洲城。
初夏の乾いた風が吹き抜ける本丸大広間に、織田家の重臣・武将たちが居並んでいた。
だが、その空気は出陣前とまるで違っていた。
上座には、緋色の小袖を端正に着こなした織田信長。そのすぐ傍らには、泥汚れを落としただけのスーツ姿の黒川聡が座らされている。
「……皆の者、面を上げよ」
信長が静かに声をかけると、林佐渡守をはじめとする家臣たちが、恐る恐る顔を上げた。その誰もが、畏怖に満ちた目で聡を見つめている。
「四万の今川勢が、一兵も失わずに駿河へ撤退した。さらに今川との間に不可侵の約条が結ばれ、東海道の商路が開かれた……すべては、余の軍師たるソウの指図によるものぞ」
広間を揺るがすような溜息と、どよめきが広がった。
出陣前まで聡を「怪しい町人」「得体の知れない調達人」と見下していた家臣たちが、顔を見合わせ、やがて雪崩を打つように平伏した。
「ぐ、軍師殿……! 我らの不明、平にお許しくだされぇぇっ!」
先頭に立つ林佐渡守が、畳に額を擦り付けて震えている。
さらに背後では、勝家が太い腕で涙を拭いながら熱い視線を送ってきた。
「軍師殿……! 兵を一命も落とさず、四万の敵を退散せしめるなど、神仏の業にござる! この勝家、一生そなたについてまいりまする!」
『頼むから重臣総出で土下座するのはやめてくれ……』
居心地の悪さに身を縮める聡の耳元に、ふと甘い吐息が触れた。
信長が横から顔を寄せていた。
「ソウ」
「は、はい!?」
信長は自らの下腹部をぽんと叩き、悪戯っぽい琥珀色の瞳で聡を見つめていた。
「そなたの薬のおかげで、余の腹の痛みは綺麗さっぱり消えた……だがな」
信長は聡のスーツの裾をぎゅっと掴むと、耳元まで真っ赤に染めながら囁いた。
「そなたが余を置いて駿河の義元のもとへ行こうなどとしたら、今度は余の胸が張り裂けそうに痛むのだ。……分かっておるな? そなたは余の傍で、一生余の財布と軍を支えるのじゃ。絶対に逃がさぬぞ」
『それ、雇用契約じゃなくて重すぎる囲い込み宣言じゃないか……!?』
冷や汗を流す聡だったが、信長の瞳に浮かぶ嘘のない安堵と信頼に、口元が微かに緩むのを止められなかった。
だが、平和の余韻に浸る暇は、戦国乱世には残されていなかった。
広間の濡れ縁から、一羽の早鳩が滑り込んできたのだ。足首に結びつけられた竹筒。
信長が不審そうに手紙を開き、目を通した瞬間、その端正な顔立ちが険しく凍りついた。
「……信長様? どうしました?」
「美濃の……帰蝶からじゃ」
『帰蝶――信長の正室にして、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三の娘、濃姫か……!』
聡が息を呑む中、信長が苦々しく書状を握りしめた。
「美濃の斎藤義龍が、尾張への木材、和紙、および塩の商路を完全に封鎖したとある。『尾張のうつけを経済で干殺しにせよ』と下知が出たそうじゃ」
広間に張り詰めた沈黙が走る。
駿河の軍事侵略を退けた途端、今度は北の美濃から、尾張の息の根を止める兵糧攻め――物資の締め上げが仕掛けられたのだ。
だが、聡の胸の奥底で湧き上がったのは、恐怖ではなく商社マンとしての冷徹な計算と闘志だった。
『木材と紙の買い占め、それに塩留めか……いいだろう。兵站と経済の戦争なら、完全にこっちの土俵だ』
「信長様、紙と筆を用意してください」
聡は泥の落ちたスーツの袖をたくし上げ、静かに口角を上げた。
「美濃の経済を、こちらから完全に買い叩いてやりますよ」
【兵站ミニ解説:今川義元の実像】
公家かぶれの無能と描かれがちな今川義元ですが、史実では『今川仮名目録』を制定し、駿河・遠江・三河を治めた屈指の名君でした。本作では経済・軍事ともに一流の気品ある美姫として登場しています。
次回より第2幕開幕!『第5話 濃姫の密書と、美濃紙買い占め作戦』は明日18:00更新です!
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