最終話 最後に選んだもの
突然現れたどピンクの女が、つい先ほどまで辺境伯が愛用していた椅子だった。
そんな荒唐無稽な話を、その場ですぐに信じてもらえるはずもない。
ひとまず客間へ連れていかれた私は、侍女から借りた衣服に着替えることになった。青色のワンピースは少し丈が長かったものの、落ち着いた色味と太腿が隠れているだけで涙が出そうなほどありがたい。
忌まわしきどピンクのミニドレスは証拠品として箱の中へ封印した。できれば二度と見たくない。
着替えを終えるとヴィルフリートの私室へ案内された。侍女が一礼して退室し、扉が静かに閉じられる。
部屋に残ったのはヴィルフリートと私だけだった。
彼は窓辺に立ち、腕を組んでこちらを見ている。
なぜ立ったままなのかは聞くまでもない。
なにしろ彼の救世主だった椅子は今、借り物のワンピースを着て目の前に立っている。
「改めてお尋ねします」
私はヴィルフリートと向かい合い、できる限り真面目な顔を作った。
「お尻は大丈夫ですか?」
「開口一番、それか」
ヴィルフリートの眉間に皺が寄る。いつもどおり隙のない立ち姿に見えるけれど顔色はまだ悪い。先ほど患部を石床へ強打したばかりなのだから、当然だろう。
北方の英雄をここまで打ちのめした床の硬さは相当なものだった。私が人間へ戻る瞬間を選べたなら、せめて寝台の上か厚い絨毯の上にしてあげたかった。
「それで、先ほどのお話ですが」
私は気を取り直し、自分が魔女であることから説明を始めた。
隣国で薬師をしていたこと。魔女の多くは一人につき一つ固有の魔法を持っていること。変身魔法を操るルクレツィアという悪友に、腹立ち紛れの悪戯で椅子へ変えられたこと。
その後、留守だと思った泥棒に盗まれ、何人もの商人の手を経て、ノルディス辺境伯領の家具店へ辿り着いたことも話した。
ヴィルフリートは口を挟まず、黙って聞いていた。
「ルクレツィアの魔法は最長で一か月持続します。今日がちょうど、その一か月目だったようです」
「つまり、あの椅子は最初から存在せず、君が変身させられた姿だったと?」
「はい。ですから、私がジョセフィーヌです」
「……まだ信じ難い」
「では確認しますが、閣下は痔なのですよね。しかも重度の」
ヴィルフリートの顔から、すべての表情が消えた。
「言うなと、先ほど命じたはずだ」
それは、認めたも同然では。
「今は二人きりですから。家具店で私を見つけたとき、座面の穴をずいぶん熱心に見つめていましたね」
「……見ていたのか」
「というか私ですし。意識も五感もありましたから」
ヴィルフリートの顔が引きつる。
「では、俺が座ったときも」
「もちろん、すべてわかっていました」
「背もたれを撫でたときも?」
「はい」
「抱きしめたときも?」
「はい」
「毎晩、話しかけていたことも?」
「一言一句、聞いていました」
ヴィルフリートは片手で顔を覆った。銀髪の隙間から覗く耳が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「忘れろ」
「椅子になっていた間は暇でしたから、よく覚えています」
「頼む」
北方の英雄がこれほど素直に懇願する姿は珍しい。どうしよう、少し面白くなってきた。
「『ずっとそばにいてくれ』」
「やめろ」
「『君がいなくなったらと考えただけで、心が張り裂けそうだ』」
「忘れてくれ!」
ヴィルフリートの悲痛な声が部屋に響く。
あまりからかうのもかわいそうなので、私は笑いそうになるのを堪えて口を閉じた。
ほんの少し沈黙したあと、ヴィルフリートは顔から手を下ろした。耳はまだ赤かったけれど、その淡い青の瞳には真剣な色が浮かんでいる。
「十分に分かった。……知らなかったとはいえ、女性である君に座り、許可なく触れた。申し訳なかった」
まさか謝罪されるとは思わず、今度はこちらが慌てる番だった。
「とんでもありません。あの姿を見て、中身が人間の女性だと気づくほうが無理です」
「しかし――」
「知らなかったのですから仕方ありません。それに、丁寧に扱っていただきました。泥棒の肩に担がれたときと比べれば、天国のような待遇でしたよ」
専属の運搬係までつけられ、毎朝磨かれ、日差しからも守られていた。あの桃色の椅子カバーについては到底許容できないものの、それ以外に不満はない。
「ですから、もう気にしないでください」
そう告げるとヴィルフリートはしばらく私の顔を見つめたあと、ようやく小さく頷いた。
これで一件落着。
あとは故郷へ帰る方法を考えなければならない。
店も長いこと放置してしまったし、魔女頭にも事情を説明する必要がある。ルクレツィアには、とりあえず一時間ほど正座をさせてから、今度こそ絶対に人へ悪戯な魔法を使わないと誓わせよう。
ところが、今後の予定を考え始めた私の耳に、ひどく沈んだ声が届いた。
「しかし、ジョセフィーヌは、もういないのか」
目の前にいますけど。
そう答えかけて、ヴィルフリートが言っているのは、椅子としてのジョセフィーヌなのだと気づく。
「私はもう人間へ戻りましたから、椅子にはなれませんね」
「そうか」
ヴィルフリートは俯いた。魔物が出現したと報告があったときでさえ、これほど絶望した顔はしていなかった気がする。
「これから俺はどうすればいいんだ」
人生そのものを見失ったような言い方だけれど、正確には「これから俺の痔はどうすればいい」だろう。
気持ちはわかる。ジョセフィーヌがなければ、彼は再び普通の椅子へ座れない生活へ逆戻りだ。
――魔女に大切なのは、何が起きても目を逸らさず、人の命と向き合う覚悟だよ。
魔女頭の言葉が蘇った。
王国北部を守る英雄が、誰にも明かせず一人で抱えてきた苦しみ。
私には、強大な魔力も、華々しい魔法もない。
けれど、薬師として積み重ねてきた知識がある。目の前で苦しんでいる人を、決して見捨てないという覚悟もある。
救うと決めた。
この人を苦しめてきた、重度の痔から。
「治しましょう」
「簡単に言うな。薬も使っているが、よくならなかった」
「薬だけに頼って、生活を変えなかったからです」
私は腕を組み、ヴィルフリートの生活を思い返してみた。
連日の騎乗。深夜まで続く座りっぱなしの執務。食事は辛いものや肉料理が多く、水分も十分に摂っていない。患部へ負担をかける生活を続けたまま、薬だけで治そうとしても限界がある。
「私にお任せください」
ヴィルフリートが顔を上げた。
「君に?」
「私は魔女であると同時に、薬師です。痔の患者を診た経験もあります」
「……本当に治せるのか」
「閣下が私の指示に従うなら」
淡い青の瞳に、強い希望の光が戻ってくる。家具店で椅子を見つけたときと同じ目だ。そう、スケベ椅子を。
「わかった。何でも従う」
「では、しばらく馬へ乗るのを控えてください」
「それは無理だ」
即答だった。
「何でも従うと仰ったばかりでは?」
「魔物が出れば、俺が指揮を執る必要がある」
「騎士団に優秀な部下がいるのでしょう。ときには部下を信じて任せることも必要です」
「しかし――」
「治療に従わないなら、私がここへ残る理由はありません。明日にでも故郷へ帰ります」
「わかった。善処する」
こうして私は、故郷へ帰るための旅費と、身分を証明する書状を用意してもらう代わりに、ヴィルフリートの治療が一段落するまでノルディス城へ滞在することになった。
周囲には、長く続いた騎乗任務で体を痛めた当主の治療に当たる薬師だとだけ説明された。どこを痛めたのかについては、ヴィルフリートの名誉のために伏せておいた。
◇
翌日から、私は薬師としてヴィルフリートの生活へ容赦なく介入した。
まず、長時間続けて椅子へ座ることを禁じた。執務中は一定の時間ごとに立ち上がらせ、室内を歩かせる。食事は穀物や豆、野菜を中心に整えて水分を多く摂らせ、香辛料と酒は控えさせた。
「少しくらい葡萄酒を飲んでも」
「いけません」
「今日は魔物の討伐が無事に終わった」
「報告を受けただけでしょう」
「部下を労うために必要だ」
「では、閣下は水で乾杯してください」
ヴィルフリートは不満そうだったけれど、約束どおり私の指示には従った。
薬草から作った軟膏も毎日欠かさず使わせた。ちなみに塗るのはもちろん本人だ。
患部を清潔に保ち、体を冷やさず、十分な睡眠を取ること。どれも特別な治療ではないが、生真面目な彼は一度納得すると、驚くほど忠実に守った。
ただし、辺境伯の仕事をすべて止めるわけにはいかない。重要な書類へ目を通す間だけは椅子へ座る必要があり、最初のうちは顔を顰めて痛みに耐えていた。
そこで私は、己の固有魔法を使うことにした。
「そのまま動かないでください」
ヴィルフリートの後ろへ立ち、体へ意識を集中させる。弱い魔力を慎重に巡らせると、彼の体が椅子からほんの少しだけ浮き上がった。
高さは、指一本分ほど。
けれどそれだけで、患部にかかる体重は大幅に減るはずだ。
「……痛くない」
ヴィルフリートが驚いたように私を振り返った。
「私の固有魔法です。人一人を浮かせるとなると、この高さが精いっぱいですけれど」
「十分だ」
「持続できるのも短い時間だけです。魔女の固有魔法としては、かなり地味でしょう?」
ヴィルフリートは椅子からわずかに浮いたまま、真剣な顔で首を横に振った。
「俺にとっては、どんな強大な魔法よりも価値がある」
痔だからね。
理由は少々情けないけれど、これほど真正面から自分の魔法を認められたのは初めてだった。胸の奥が、ほんの少しくすぐったくなる。
「ただし、頼りすぎてはいけませんよ。これは治療ではなく、一時しのぎです」
「ああ」
「それから、そろそろ一度立って歩いてください」
「……今、浮かせたばかりだが」
「浮いているから休憩しなくていい、という話ではありません」
ヴィルフリートは渋々立ち上がった。
ときに英雄とも呼ばれる辺境伯を、一定の時間ごとに立たせて部屋の中を歩かせる。そんな権限を持つ者は、おそらく私くらいだろう。
治療を始めてから、ヴィルフリートと過ごす時間は自然と増えていった。彼は口数こそ少ないけれど、決して冷たい人ではなかった。私が薬を調合していれば必要な材料を揃え、故郷の店を心配していると知れば、すぐに使者を手配してくれた。
城の者たちが、異国から突然現れた私を不審がらないよう、「信頼できる薬師だ」と自ら保証してくれたのも彼だった。
私も城で暮らすうちに、椅子だった頃には見えなかった彼の一面を知った。
若い騎士の報告に最後まで耳を傾け、怪我をした兵士の家族へ援助を出し、領内で収穫が少なかった村には税の軽減を命じる。口には出さないけれど、彼の判断はいつも領民と部下を守ることを第一に考えたものだった。
だからこそ、自分の体を後回しにしてしまうのだろう。
完璧な辺境伯に見えて、実際は不器用で、生真面目で、誰にも心配をかけまいと一人で無理を重ねている。
椅子だった私だけが知っている、弱音を吐く彼。
人間へ戻った今も、ときおり二人きりになると見せてくれる、少しだけ甘えた表情。
それらを目にするたび、最初は単なる鑑賞対象だった彼の美しい顔が、少しずつ違って見えるようになった。
相変わらず眺めるだけでも十分なほど格好いい。
痔だけれど。
◇
治療を始めて一か月が経つ頃には、ヴィルフリートの症状はほとんど消えていた。
普通の椅子へ座っても痛みはなく、短い時間なら鞍に腰を下ろして乗れるようになった。ちなみに、以前は極力尻を浮かせて乗っていたらしい。
それでも以前のように無理はせず、騎士たちへ任せられる仕事は任せ、執務の途中には自ら休憩を取っている。
体調を崩してまで当主一人で背負い込むより、周囲を信頼して役目を分けるほうが、領地のためにもなる。
ようやく彼も、それを理解してくれたらしい。
こうして、ヴィルフリートの治療は無事に一区切りを迎えた。
けれど、彼の痔が治ったということは、私がこの城へ滞在する理由もなくなったということでもある。
故郷の店については、魔女頭が管理してくれていると使者から返事が届いている。帰りの旅程も決まり、あとは出発の日を待つだけだった。
胸の奥に落ち着かないものを感じていたけれど、その正体をじっくり考える暇はなかった。
出発を三日後に控えた朝、門番から、私を訪ねてきた女性がいると知らせを受けたのだ。この国に知り合いなどいない。いったい誰だろうと首を傾げながら城門へ向かうと、その前には、長旅を終えたばかりらしい一台の馬車が停まっていた。
私が近づくより早く扉が開き、中から金髪の女が飛び出してくる。
「フィオナ!」
その声を聞き間違えるはずがなかった。
私は勢いよく抱きついてきたルクレツィアを、どうにか受け止めた。
「よかった……! 本当に、生きていたのね!」
「なんとかね」
「家へ行ったらいなくなっているし、床には泥棒の足跡が残っているし! 家具商を一軒ずつ訪ねて、国境を越えた商人を追いかけて、どれだけ捜したと思っているのよ!」
いや、ルクレツィアのせいだが。そう言いかけて、やめた。
ずいぶん苦労したらしい。美しく整えられているはずの金髪は乱れ、外套の裾には旅の泥がこびりついている。目元も赤く、ろくに眠っていないことが一目でわかった。
「ごめんなさい」
私の肩に顔を埋めたままルクレツィアが呟く。
「あんなことになるとは、いえ、椅子にはするつもりだったけど、一晩で戻すつもりだったの。まさか、盗まれるなんて……」
「普通は椅子になった友達が、その日のうちに泥棒へ盗まれるとは思わないものね」
「怒ってる?」
「怒ってるわよ」
「そうよね……」
「帰ったら、私の家から盗まれたお金と銀食器を弁償してもらうから」
「もちろん弁償するわ。ほかには?」
「一週間、私の店で無給で働いて」
「一か月でも働く!」
そこまで言うなら、許してあげてもいい。
私が背中を叩くと、ルクレツィアはようやく顔を上げた。
そのとき、背後から低い声が聞こえた。
「その女が、君を椅子にした魔女か」
振り返ると、ヴィルフリートが立っていた。
表情はいつもどおり冷静だけれど、淡い青の瞳は恐ろしく冷たい。私を椅子に変えた張本人だと知り、警戒しているらしい。
ルクレツィアはヴィルフリートを見上げ、何度か瞬きをした。
それから私と彼を交互に見る。
「……何よ、このとんでもない美丈夫」
「ノルディス辺境伯、ヴィルフリート様よ。椅子だった私を買った人」
「あなたを買った?」
「椅子としてね」
「座ったの?」
「毎日」
ルクレツィアはヴィルフリートへ向き直ると、少し怯みながらも丁寧に頭を下げた。
「このたびは、うちのフィオナが大変お世話になりました」
「なんでルクレツィアが保護者のように挨拶するのよ」
「細かいことはいいの」
ルクレツィアは顔を上げ、再び私たちを交互に見た。ヴィルフリートが無意識に私を庇うような位置へ立っていることにも、すぐ気づいたらしい。瞳が楽しげに細められる。
「なるほどね」
嫌な予感がした。
「もしかして、私のおかげで独身を卒業できそうじゃない」
「椅子にしたことはまだ許してないからね」
「でも、あんたがここまで運ばれたのは運命でしょう?」
「運んだのは泥棒と家具商人よ」
「その泥棒がいなければ、この方とは出会えなかったじゃない」
「だからといって、泥棒へ感謝する気にはならないわ」
「なら私に感謝なさい」
「どうしてそうなるのよ」
反省していたのは、ほんのわずかな時間だったらしい。
ヴィルフリートは私たちのやり取りを黙って聞いていたものの、やがて小さく息を吐いた。呆れているのかと思ったけれど、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
ルクレツィアは翌日には一足先に故郷へ戻ることになった。
私が三日後には帰郷すると知り、ようやく安心したらしい。それに、長く故郷を空けていた彼女にも、魔女頭への報告や放り出してきた仕事も山ほど残っているという。
「あんたが帰るまでに、店もきちんと元どおりにしておくわ」
私の店を荒らしたのは泥棒だけれど、そもそもの原因を作ったのはルクレツィアである。せいぜい働いてもらおう。
別れ際、彼女は今度こそ真面目な顔で私の手を握った。
「本当に、無事でよかった」
「うん。捜してくれてありがとう」
「フィオナ」
「何?」
ルクレツィアは少し離れた場所に立つヴィルフリートへ一度目を向け、それから私だけに聞こえる声で囁いた。
「あの方と一緒にいるときのあんた、今までで一番楽しそうよ」
否定しようとしたけれど、すぐには言葉が出てこなかった。
「お幸せに」
「まだ何も決まっていないわよ」
「それなら早く決めなさい」
悪戯っぽく笑うと、私の返事を待たずに馬車へ乗り込んだ。
◇
ルクレツィアが城を発った日の夕暮れ。
ヴィルフリートに呼び出された私は、城の中庭へ向かった。
沈みかけた夕日が、植え込みや噴水を柔らかな金色に染めている。花壇には小さな白い花が咲き、どこかから甘い香りが漂っていた。
庭の中央で待っていたヴィルフリートは、正装用の濃紺の上着をまとっていた。夕日に輝く銀髪。私をまっすぐ見つめる、淡い青の瞳。
やはり、今日もとんでもなく格好いい。
けれど今はもう、遠くから眺める美しい絵画と同じではなかった。
彼がどれほど不器用で、どれほど真面目で、誰にも見えないところで無理を重ねてきたのか知っている。眉間へ皺を寄せながら薬を飲み、葡萄酒を取り上げられて不満そうな顔をし、私の魔法でほんの少し浮いただけで心から感動してくれた人だと知っている。
「フィオナ」
ヴィルフリートが私の名を呼ぶ。ジョセフィーヌではない。最初から私のものだった、本当の名前を。
「明後日、故郷へ帰るそうだな」
「はい。店もありますし、魔女頭にも事情を説明しなければなりませんから」
「そのあと、ここへ戻るつもりはあるか」
尋ねる声はいつもどおり落ち着いているけれど、彼の片手はわずかに強く握りしめられている。
「ヴィルフリート様は、私に戻ってきてほしいのですか?」
「ほしい」
迷いのない返事だった。
「ジョセフィーヌが必要だから?」
ほんの少し意地悪な質問をすると、ヴィルフリートは真剣な顔で首を横に振った。
「あの椅子を失った後は、確かにしばらく絶望していた」
あ、やっぱり未練あったのか。
「だが、今は違う。俺のそばにいてほしいのは、ジョセフィーヌという椅子ではない」
ヴィルフリートは私の前へ進み、そっと手を取った。
「何が起きても動じず、逆境さえ楽しみ、自分の知識で人を助けようとする君だ。俺の無茶を叱り、俺よりも俺の体を案じてくれるフィオナに、そばにいてほしい」
大きな手から伝わる温もりに、胸が高鳴った。
椅子だった頃にも彼の温もりは知っていたはずなのに、今はまるで違う。触れられた指先から熱が広がり、心臓が落ち着きなく脈打っている。
「君を愛している」
低く、けれどはっきりと告げられた。
椅子だった頃、彼からは何度も甘い言葉を聞いた。「君しかいない」「ずっとそばにいてくれ」と毎晩のように囁かれた。
けれど、そのどれとも違う。
今の言葉は、ジョセフィーヌではなく、フィオナへ向けられている。
「俺と共に、この地で生きてほしい」
私は彼を見つめた。
銀髪も、淡い青の瞳も、初めて見たときと変わらず美しい。けれど私が好きになったのは、その外見だけではない。
完璧な辺境伯であろうとして誰にも弱みを見せられず、椅子にだけは本音を打ち明けてしまう、不器用で生真面目な青年だった。
「はい」
自然と笑みがこぼれる。
「故郷へ戻り、店のことや魔女頭候補としての今後を、きちんと話し合ってきます。すべて整理できたら、必ずここへ戻ってきます」
ヴィルフリートの目元が、安堵したように和らいだ。
次の瞬間、長い腕が私の背へ回される。力強く、それでいて壊れ物を扱うように優しく抱きしめられた。
椅子だった頃にも、何度も抱きしめられた。
あのときは硬い木の体で、されるがまま受け止めることしかできなかった。
けれど今は、人間の腕がある。私は少しだけ躊躇したあと、彼の背へ両腕を回した。
初めて男性を抱きしめる。
生まれて二十八年、恋愛小説と他人の体験談で得た知識ばかりを蓄え、ルクレツィアから耳年増と笑われてきた私が、ようやく自分自身の恋を知った。
ヴィルフリートの胸へ頬を寄せると、規則正しい心臓の音が聞こえる。
この人と出会えてよかった。
スケベ椅子にされたことを感謝するつもりはないけれど、結果としてここへ辿り着いたことだけは、少しくらい運命だと思ってもいいのかもしれない。
やがてヴィルフリートは腕を緩めると、改めて私の両手を取った。淡い青の瞳が、真剣にこちらを見つめる。
「フィオナ」
「はい」
「これからも一生、俺のそばで――」
夕暮れの美しい庭園。
正装した眉目秀麗な辺境伯。
両手を包み込む大きな手と、愛する女性だけに向けられた熱い眼差し。
完璧だ。
椅子になる前に読んでいた恋愛小説の挿絵にしてもよいほど、何もかもが完璧だった。
だから私は、その先に続く言葉を疑いもしなかった。
「俺の尻を守ってくれ」
風が花壇を通り抜け、白い花を揺らす。
ヴィルフリートは、どこまでも真剣だった。
私は彼に預けていた手を振り払い、大きく息を吸った。
「やり直し!!」




