第四話 ジョセフィーヌ消失事件
スケベ椅子――ではなく、ジョセフィーヌ――でもなく、私ことフィオナは、変わらずヴィルフリートの寵愛を一身に受けていた。
朝食の前には私の木肌を柔らかな布で磨かせ、執務中に日差しが強くなれば布地が傷まないよう、使用人へ命じて窓掛けを閉めさせる。夜になると、誰もいない執務室で背もたれを優しく撫でながら、今日一日の出来事を低い声で聞かせてくれた。
最近では私を運ぶことも使用人たちの仕事の一つとして、すっかり定着している。
私が食堂へ運ばれれば朝食の時間。会議室へ運ばれれば重臣たちとの話し合い。私室の暖炉前へ運ばれれば、ヴィルフリートがその日の仕事をすべて終えた合図だった。
専属の運搬係まで二人も決められ、どこへ行くにも傷一つつけないよう丁重に扱われる。
恵まれた深窓の椅子としての生活を、優雅に楽しんでいた。
先日あつらえられた椅子カバーを除いて。
目が痛くなるほど鮮やかな桃色の布に、これでもかと重ねられたフリル。背もたれには大きなリボンが飾られ、肘掛けには小ぶりな薔薇がいくつも咲いている。しかも座面の穴を塞がないよう、中央部分だけはきれいに開けられていた。
人間の衣服にたとえるなら、胸元や腰回りは大量のフリルや大ぶりなリボンで飾りつけておきながら、肝心なところだけ堂々と穴を開けた、とんでもなく破廉恥なミニドレスである。
いい年をした私がこんなものを着せられた日には羞恥で死ねる。間違いない。
これを「君に似合う」と迷いなく選んだヴィルフリートの美的感覚については、一度じっくり話し合う必要がありそうだ。
とはいえ、そんな彼を眺める時間そのものは悪くなかった。
艶やかな髪が窓から差し込む光を受けるたび、細い銀糸のような煌めきを放つ。淡い青の瞳も、伏せているときと正面を見据えているときでは印象が変わり、何時間眺めていても飽きない。
格好いい男性は、それだけで目の保養になる。
今日も銀髪が輝いているわね。痔だけれど。
◇
そんな椅子生活にもすっかり慣れた、ある日の夕刻。
私はいつものように大食堂へ運ばれ、ヴィルフリートの指定席へ置かれた。
この日の晩餐には、彼のほかに騎士団の幹部や家令たちも同席していた。森の西側で行われた魔物討伐が無事に終わり、その報告を兼ねたささやかな慰労の席らしい。
食堂へ入ってきたヴィルフリートは、まっすぐ私のもとへやってきた。
今日も一日森へ出ていたはずだ。騎士服は着替えているものの、目元には隠しきれない疲れが滲んでいる。
それでも私を見ると彼の表情はほんのわずかに和らいだ。
ヴィルフリートは上着の裾を整え、慎重に私へ腰を下ろす。深紅の布越しに重みと温もりが伝わり、慣れた位置へ落ち着いた彼は、誰にも気づかれないほど微かに安堵の息を吐いた。
食前の祈りが捧げられ、晩餐が始まる。
騎士たちは無事に討伐を終えた解放感からか、普段よりも口数が多かった。ヴィルフリートは彼らの報告や雑談へ短く相槌を打ちながら、ときおり静かに杯を傾けている。
長い食卓には香草を詰めて焼いた鶏や、根菜をたっぷり使った煮込み料理が並んでいる。焼きたてのパンから立ち昇る香ばしい匂いに空腹を覚えかけて、自分にはもう胃がないことを思い出す。
椅子になって以来食事を必要としなくなったのは便利だけれど、目の前で美味しそうな料理を眺めるだけというのは、なかなかの苦行だった。人間に戻ったら最初に何を食べようかな。
そのときふと、すっかり忘れていた疑問が浮かんだ。
椅子になってから、どれくらい経ったっけ?
他国の商人たちの間を転々としていた頃は朝と夜を数えていた。けれどノルディス城へ来てからは毎日さまざまな部屋へ運ばれ、ヴィルフリートの仕事を眺めているうちに、日付の感覚がすっかり曖昧になっている。
ルクレツィアの変身魔法が持続するのは最長で一か月。一か月が経てば術者が解かなくても自然に元の姿へ戻る。
たしか、椅子にされたのは――。
私が記憶を辿ろうとした、そのときだった。
体の奥深くで何かが弾ける。
あ。
今日で一か月だ。
思い出した瞬間、私の全身から眩い光が溢れた。椅子になって以来沈黙していた魔力が急激に巡り始める。
「何事だ!」
騎士の鋭い声が響き、食器のぶつかる音とともに何人もの男たちが一斉に立ち上がる。
私に座っていたヴィルフリートの体が、膨れ上がった魔力の光に押し出された。
支えを失った彼の体が一瞬宙に浮き、次の瞬間。
ヴィルフリートは石造りの床へ、尻から落ちた。
「――――ッ!」
声にならない叫びを上げ、彼はその場に崩れ落ちる。
生きてるかな、と一瞬思ったが、それ以上気にかける余裕は私にもなかった。
視界がぐにゃりと歪み、視点が急速に高くなる。四本あった脚の感覚が消え、代わりに二本の足と二本の腕が現れる。硬い木だった体に血が巡り、長らく忘れていた心臓が胸の中で勢いよく脈打ち始めた。
光が収まったとき、椅子は消えていた。
その場所に立っていたのは、一人の女だった。
私である。
一か月ぶりに人間の姿へ戻った私は、懐かしい自分の手を見下ろした。
指が動く。足も動く。鏡がないので確認はできないけれど、肩の下まで伸びた少し癖のある赤い髪も、薬草を刻み続けて少し荒れた指先も、以前と同じようだ。
無事に戻れた。
その事実に安堵したのも束の間、周囲から向けられる視線に気づく。大食堂にいた全員が私を見つめている。変身魔法が解けた影響なのか、椅子へ被せられていたカバーは、どういうわけか私の衣服へと変化していた。
鮮やかなどピンク。胸元と腰を埋め尽くす大量のフリル。肩と太腿は大胆に露出し、腰の後ろには巨大なリボン。(二十八歳)
――いっそコロセ。
人間へ戻ったら最初に何を食べるかなど、もはやどうでもいい。今すぐもう一度椅子に戻り、どこか暗い倉庫の奥へしまわれたい。
騎士たちは剣の柄へ手をかけたまま動かない。家令も使用人たちも声を失っている。私も両手でスカートの裾を可能な限り引き下げたまま何も言えない。
永遠にも感じられる沈黙が大食堂を支配した。
そこに、きゅるるる、と、静寂の中に場違いな音が響く。一か月ぶりに人間へ戻った私の胃が、目の前の料理を前に盛大な歓声を上げたのである。
騎士たちの視線が、私の顔から腹部へ下がる。
「……」
「……動くな!」
ようやく我に返った騎士たちが、気まずさを振り払うように剣を抜いた。
さっきの嘘です。やっぱりコロさないで。
「何者だ。どこから侵入した!」
「侵入はしていません!」
一か月ぶりに出した声は、ありがたいことに掠れてはいなかった。
「私は怪しい者ではありません」
「晩餐の最中、光とともに突然現れた女のどこが怪しくない!」
ごもっとも。
騎士たちは剣を構えたまま、鋭く私を睨んでいる。
「辺境伯閣下に何をした。まさか、暗殺を企てた間者か!」
「違います! それに、閣下が床に倒れているのは、私が何かしたからではなく――」
正確には、彼の尻にできた厄介なモノのせいである。あ、でも私が椅子でなくなったせいか。あれ、やっぱり私のせい?
「ヴィルフリート様!」
老執事が慌てて駆け寄り、床へ膝をつく。
「お気を確かに! どこかお怪我をなさいましたか!」
ヴィルフリートは尻を床へ打ちつけた姿勢のまま、青ざめた顔で微動だにしない。
さすがに心配になってきた。
もしかして、死んでいる?
気付け薬を作るには、月光草と火蜥蜴の心臓が必要だったかしら。いいえ、そもそも完全に死んだ人間を生き返らせる薬など存在しない。
私が薬師として絶望的な判断を下しかけたとき、ヴィルフリートの指先が微かに動いた。
「ヴィルフリート様!」
「……無事だ」
生きてた。
だが地の底から響くような声だった。
無事という言葉が、これほど信用できなかったことはない。
それでもヴィルフリートは老執事の手を借り、ゆっくりと上体を起こした。美しい顔は苦痛で歪み、額には脂汗が浮かんでいる。
なんとか蘇生したヴィルフリートは、騎士たちが取り囲む私へ目を向けた。その顔に浮かんでいるのは、警戒でも羞恥でもない。
「俺のジョセフィーヌは!」
第一声が、それだった。
え、ジョセフィーヌって??騎士たちが困惑したように顔を見合わせる。しかし、ヴィルフリートはそれどころではないらしい。
一同の混乱する空気を感じつつも、私もそれどころではなかった。
「ジョセフィーヌはどこだ!あの女が何かしたのか」
「私がジョセフィーヌです」
再び、大食堂が静まり返った。騎士たちの間から、「あの閣下から女性の名前が」「しかも実在してるっぽいぞ」とひそひそ声が聞こえてくる。
ヴィルフリートは苦痛さえ忘れたような顔で私を凝視した。
「貴様。何を言っている」
「ですから、私があなたの椅子だったジョセフィーヌです。本当の名前はフィオナと申します」
「信じられると思うか」
「思いません」
私だって、立場が逆なら信じない。
騎士たちの警戒は解けず、剣先も下がらない。ひとまずこの場で首を刎ねられないためには、私があの椅子だったと証明する必要がある。
「閣下は、領都の家具店で私を見つけました。座面の穴を見たあと、店主に強度を確認し、試しに座ってすぐ購入を決めました」
「その程度、店主や従者から聞ける」
たしかに。
「城へ運び込まれた翌日、あなたは誰もいない執務室で、ようやく座って仕事ができたと仰いました」
ヴィルフリートの眉が、わずかに動く。
「その後、誰にも知られたくない秘密を私へ打ち明けました」
「待て」
彼の声が低くなった。
効いている。
「私に聞いてほしいと仰っていましたね」
「それ以上言うな」
「私の潔白を証明しないと。でも、ここでお話ししてもよろしいのですか?皆さんの前で、あなたが何を話したか」
ヴィルフリートの顔が引きつった。
彼を案じていた騎士や使用人たちが、今度は怪訝そうに主君を見つめる。
私は畳みかけた。
「それから、あなたが私をジョセフィーヌと名づけたのは、かつての愛馬と同じ名前だからです。二人きりになると、毎日のように背もたれを撫でながら――」
「やめろ」
その声には明らかな殺気が籠もっていた。
しかし、こちらも命がかかっている。ヴィルフリートには悪いが、引き下がるわけにはいかない。
「ほかにも『君がいなくなったらと考えただけで、心が』――」
「わかった!」
ヴィルフリートの声が大食堂に響き渡った。
両膝と片手を床につき、尻だけを不自然に浮かせた格好のまま、私を睨みつける。
「貴様……」
「信じていただくためです」
私はスカートの裾を両手で引っ張りながら、できる限り堂々と背筋を伸ばした。
「これ以上疑うのであれば、あなたが私へ打ち明けた秘密を最初から詳しくお話しします。皆さんにも聞いていただけば、私があの椅子だったとご理解いただけるでしょう」
「ぐっ……!」
ヴィルフリートが奥歯を噛み締める。
「なんと卑怯な……!」
北方の英雄から卑怯者と罵られ、ちょっぴりへこむ。けれど私は多分悪くない。人を間者扱いしたそちらが悪い。
しばらく私を睨んだ末、ヴィルフリートは騎士たちへ命じた。
「……剣を収めろ」
「しかし、閣下」
「ひとまず、この女の身柄は俺が預かる」
渋々ながら、騎士たちが剣を鞘へ戻していく。
ひとまず首の皮は繋がったようだ。




