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辺境伯様に愛されていますが、何かがおかしい―訳あり魔女は、誰にも言えない彼の秘密を知っている  作者: 橙華


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第三話 辺境伯、運命の出会い


店へ入ってきた銀髪の男性は入口で店内を見渡すと、迷うことなく私のほうへ歩いてきた。


近づくにつれて、先ほど窓越しに見たときよりも、さらに整った容貌がはっきりと見えてくる。年齢は三十歳より少し手前だろうか。黒を基調とした騎士服の上から濃紺の外套を羽織り、腰には装飾を抑えた長剣を佩いている。


艶やかな銀髪に、冬の朝空を思わせる淡い青の瞳。すっと通った鼻梁と凛々しく引き締まった唇。背は高く、厚い外套の上からでも均整の取れた逞しい体つきがわかった。


まあ、本当に美しい人。

私が呑気に見惚れていると、男性は目の前まで来て足を止めた。

淡い青の瞳が私の背もたれから肘掛けへ、肘掛けから四本の脚へと動いていく。やがて彼の視線が、座面の中央に開いた穴へ向けられた。


その瞬間、男性は目を見開いた。


端正な顔に隠しきれないほどの衝撃が走る。


あら。もしかして、この椅子が何に使われるものなのか知っているの?見かけのわりに意外とむっつりなのかな?


余計な知識を思い返し私は少しばかり身構えた。相変わらず、体は少しも動かないけれど。


しかしこれほど熱心に見つめられると、椅子とはいえなんとなく落ち着かない。ところが男性の目に浮かんでいるのは好奇心でも、下世話な興奮でもなかった。

驚愕と戸惑い。そして、暗闇の中でようやく一筋の光を見つけたような、切実な希望。


なんだ?どうかした?


私を見つめたまま動かなくなった彼に気づき、店の主人が慌てて駆け寄ってきた。


「いらっしゃいませ。そちらの椅子がお気に召しましたか?」


「ああ」


店主は嬉しそうに笑い、揉み手をしながら私の隣へ並ぶ。


「つい先日、他国の商人から仕入れたばかりの品でございます。これほど見事な木材と細工は、この辺りではまずお目にかかれません。おそらく、異国の高貴な方のために作られた特注品かと」


違います。

悪友の腹立ち紛れに作られたスケベ椅子です。


「この穴は」


男性が低い声で尋ねる。


「は、はい?」


「座面の中央に開けられた、この穴だ。何のためにある」


「それが、私どもにもわかりかねまして……。異国に伝わる意匠、あるいは何か宗教的な意味を持つものではないかと」


ありません。

どこまでも実用本位の穴です。


「強度に問題はないのか」


「もちろんでございます。入荷後、職人にも確認させました。座面にも脚にも歪みはなく、大柄な男性がお座りになっても十分に耐えられる造りでございます」


その言葉を聞いた途端、嫌な予感がした。男性は私の正面へ立ったまま、穴の位置と大きさを真剣に見比べている。

やがて覚悟を決めたように息を吸った。


「座ってみてもいいか」


「どうぞどうぞ。ぜひお試しください!」


待って。私にも心の準備というものがあるのだけれど。


店主が満面の笑みで勧めると、男性は外套の裾を払い、ゆっくりと私へ背を向けた。


私は椅子だ。どんな椅子であろうと椅子である以上、誰かに座られる可能性は当然考えていた。けれど、実際にその瞬間が訪れるとなると話は別だ。

二十八年間、男性と手を繋いだ経験すらない私の上へ、いきなり殿方のお尻が下りてこようとしている。


順序がおかしくない?せめてレディに対して、自己紹介くらいしてからにしてほしい――


声にならない抗議もむなしく、男性は過剰なほど慎重な動きで、とうとう腰を下ろした。重みと温もりが深紅の布を通して座面全体へ伝わる。思っていたより乱暴な感覚ではなかった。いや、それどころか彼は用心深く体重を預け、こちらの具合を確かめるように、少しずつ座る位置を調整していく。

穴を利用していると考えると大変複雑だけれど、驚くほど丁寧な使われ方だった。


だから大丈夫。

たぶん。


私は一体、何に対して自分を納得させようとしているのだろう。


やがて男性は完全に私へ体を預けた。

その瞬間。


「……っ」


彼の唇から、押し殺した息が漏れた。

淡い青の瞳が大きく見開かれ、しばらくの間瞬きすらしない。


え、どうしたの?何か問題でもあった?座面が思いのほか固かったとか?


椅子としての誇りが一瞬崩れかけたが、彼の表情に苦痛は見当たらなかった。むしろ、長い苦しみからようやく解放された人のように、目元から少しずつ力が抜けていく。


「……なんてことだ」


男性が呟き、店主が首を傾げる。


「はい?」


「いや、なんでもない」


彼はすぐに冷静さを取り戻したものの、心なしか頬には血色が戻っている。背もたれへ寄りかかると深く長い息を吐き出した。


「あの……座り心地はいかがでしょう?」


「素晴らしい」


男性は迷うことなく答えた。


「これをもらおう」


「ありがとうございます!」


即決だった。値札すら見ていない。店主が提示した価格は、一般的な椅子の数倍はするものだった。それでも男性は表情一つ変えず、同行していた従者へ代金を支払うよう命じる。

こんな怪しげな椅子を高額で買うなんて、ずいぶん思い切りがいい。それとも、この人にとっては大した金額ではないのだろうか。


私が考えている間に二人の従者が店内へ呼ばれた。彼らは私を見て一瞬だけ困惑したものの、主人の命令に異議を唱えることなく、丁寧に持ち上げる。

またしても行き先を知らされないまま運ばれることになってしまった。ただ、泥棒の肩に担がれたときとは違い、今回は厚手の布で傷がつかないよう包まれ、立派な馬車へ慎重に載せられた。


どうやら待遇は格段によくなりそうだわ。


そう考えながら揺られること、しばらく。

辿り着いた先は街の北側に建つ巨大な城だった。

高い城壁と堅牢な塔を備えたその城は華美というより重厚で、国境を守る砦としての役目も持っているらしい。門をくぐった途端、騎士や使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、ヴィルフリート様」


そこで私は初めて、私を購入した男性の名前を知った。


ヴィルフリート。

使用人たちの態度からして、ただの騎士ではないと思っていたけれど、出迎えた老執事は彼を「旦那様」と呼び、続けて領内から届いた報告を口にした。


つまり、この人がノルディス辺境伯。

城へ帰る道すがら、偶然立ち寄った家具店で用途不明の穴が開いた椅子を衝動買いするとは、ずいぶん謎めいた領主様である。


私はまずヴィルフリートの執務室へ運び込まれた。

部屋にあった椅子と入れ替えるよう命じられると、使用人たちは多少不思議そうな顔をしながらもすぐに従った。深紅の布張りに優美な彫刻を施された私の姿は、重厚な執務室の調度にも思いのほか馴染んでいる。

座面の穴を除けば。


その翌日から、ヴィルフリートは帰城を待ち構えていた家令や騎士たちに囲まれ、溜まっていた仕事へ取りかかった。


報告を聞く間も書類へ署名する間も、彼はずっと私に座っていた。何時間が経っても眉一つ動かさず、疲れを訴えることもない。ただ、ときおり誰にも気づかれないよう、安堵した息を吐いている。


ほかの者たちが退室したあと、ヴィルフリートは背もたれへ深く体を預けた。


「ようやく、座って仕事ができた」


座って仕事をする。

それ自体はさほど大げさに喜ぶようなことではない。

けれど彼の声には、長い戦いを終えた者のような深い感慨が籠もっていた。


いったいあなたに何があったの?



◇



それからというもの、ヴィルフリートは私を、持ち運べる場所ならどこへでも運ばせた。


食事のときは食堂へ。執務のときは執務室へ。暖炉の前で本を読むときは私室へ。時には会議室にまで連れていかれ、重臣たちが並ぶ前で堂々と腰を下ろした。


当然行く先々で座面の穴に視線が集まった。

しかし、当主の私物だ。誰も理由を尋ねようとはしない。


それどころか、ヴィルフリートがあまりにも堂々と使っているものだから、「異国で作られた姿勢矯正用の椅子らしい」「魔力の循環を高める特別な家具だ」「長時間の執務にも耐えられるよう、中央を空洞にした最新式の椅子だ」と、もっともらしい憶測まで広まり始めた。




ヴィルフリートのさらなる奇行は、ある日の朝食で明らかになった。


その日も食堂へ運ばれた私は、当然のようにヴィルフリートの指定席へ置かれた。向かい側では数人の騎士がすでに席に着き、その奥には使用人たちが控えている。


ヴィルフリートはまだ来ていないが、彼の席に椅子(私)が置かれているのを見た騎士の一人が、なんとなくといった様子で呟いた。


「旦那様は、そちらの椅子をお使いになるようになってから、食事中に小刻みに震えていらっしゃることがなくなりましたね」


もう一人の騎士が真顔で答える。


「あれは腰を下ろしているように見せながら、実際には両脚だけで体重を支えておられたのだ。あれほどの鍛錬を食事中まで続けるとは、さすがヴィルフリート様だ」


「なんと!どうりで最近、以前にも増して太腿が逞しくなられたと……」


二人は感心したように頷き合った。


まさかの空気椅子。ヴィルフリートは毎食、涼しい顔で空気椅子を続けていたらしい。

何をしているの、あの人。


やがて食堂へ入ってきたヴィルフリートは、使用人たちが私を指定席へ置いているのを見ると、明らかに表情を和らげる。そして何事もなかったように私へ腰を下ろした。

鍛錬(空気椅子)はもういいの?



◇



その理由は、ある夜、本人の口から突然語られることになった。


「君が来てから、世界が変わった」


そんなに?というか、この人、椅子を相手に独り言を言うんだ。


「俺の話を聞いてくれるか」


あ、はい。暇ですしどうぞ。


また一つ、この人の奇行を見つけてしまった。

そう思っていると、ヴィルフリートは誰もいないことを確かめるように扉へ目を向けた。


やがて覚悟を決め、低い声で告げる。


「俺は、痔だ」


……痔。


「それも、かなり重い」


……重度の痔。


辺境伯の完璧なご尊顔と、今しがた告げられた病名が、私の中でどうしても一つに結びつかなかった。


けれど思い返してみれば、家具店へ入ってきたときから、ヴィルフリートの足取りはわずかに不自然だった。私へ腰を下ろす際も、剣傷を庇っているのかと思うほど慎重だったではないか。


「ここしばらく魔物の出現が続き、馬で森を駆ける日が増えた。そのうえ、帰城すれば溜まった書類を片づけなければならない」


連日の騎乗と長時間の座り仕事。

二つの負担が、彼のお尻へ集中したらしい。


「ついに先日、普通の椅子へ座ることができなくなった」


それは大変ね。


痔は命に関わる病ではないことが多いけれど、悪化すれば歩くことも眠ることもつらくなり、出血を伴う場合もある。

患者本人にとっては深刻な問題だ。

周囲が笑うようなことではない。


眉目秀麗、文武両道。王国北部を守る英雄が、これほど悲壮な面持ちで椅子に痔を告白している。


さすがに、少し面白かった。


「使用人たちには知られたくない。余計な心配をかけるうえ、当主が座れないと知れれば、騎士たちの士気にも関わる」


それは考えすぎでは。

しかし、なるほど。家具店で私の座面を熱く見つめていた理由が、ようやくわかった。


中央に穴が開いているため、座っても患部が座面に触れない。スケベ椅子が本来とはまったく異なる方向で、彼の悩みを見事に解決したのだ。

人生、いや椅子生、何が役に立つかわからないものである。



◇



ある晩、ヴィルフリートは執務を終えると、私の背もたれへ指先を滑らせた。


「君を椅子と呼ぶのも味気ないな。名前が必要だ」


椅子に?


「気品があり、華やかで、それでいて俺に安らぎを与えてくれる」


ヴィルフリートはしばらく考えたあと、淡い青の瞳を静かに細めた。


「ジョセフィーヌ。君には、この名が似合う」


ずいぶん華やかな名前ね。


「かつての愛馬の名だ」


馬。


そもそも、椅子に名前を付けるという感性が理解できない。

しかし尋ねることも訂正することもできず、私はその日から、ジョセフィーヌとして扱われることになった。


人前では相変わらず冷静沈着なヴィルフリートだったけれど、二人きりになると、彼は驚くほど甘い言葉を口にするようになった。


「君しかいない」


労るように背もたれを撫でながら、彼は囁く。


「君だけが、俺の苦しみを理解してくれる」


まあ、痔の治療に携わった経験はあるから、理解はできるわ。


「ずっとそばにいてくれ」


魔法が解けるまではね。


「君がいなくなったらと考えただけで、心が張り裂けそうだ」


彼は切実な声で告げ、私を強く抱きしめる。

愛の告白にしか聞こえないけれど、実際のところは、君がいなくなれば尻が裂けそうだという悲痛な訴えでもあった。


私は椅子。そして彼は、重度の痔に苦しむ辺境伯。そんな奇妙な関係ながら、私たちはそれなりに穏やかな日々を送っていた。

ところが、ヴィルフリートのジョセフィーヌに対する愛情はそれだけでは終わらなかった。


数日後、彼は仕立屋を城へ呼び寄せた。

何を作らせるのかと見ていると、仕立屋は私の背もたれや座面を測り、何種類もの布見本を広げ始める。なぜ私に?


「肌が冷えてはかわいそうだ」


私は椅子なので、冷えても風邪は引かないわよ。


「美しい君にはこれが似合う」


ヴィルフリートが選んだのは、目が痛くなるほど鮮やかな桃色の布だった。

それだけではない。

艶のある生地には何段も重ねられたフリルと大きなリボン。


仕立屋まで呼び寄せて作らせたものは、椅子カバーだった。

完成したカバーを着せられた私は、鏡の中の自分を見て絶句した。


「思ったとおりだ。よく似合っている」


満足そうに私を見つめるヴィルフリートへ、私は心の中で声の限りに叫んだ。


趣味が悪いわ!


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