第二話 災難は突然に
意味がわからないって?
大丈夫。私も自分で意味がわからない。
なぜ辺境伯家の立派な城で、見目麗しい当主からジョセフィーヌと呼ばれ、毎晩のように愛を囁かれているのか。そもそも、なぜ私が椅子に――しかも、よりによってスケベ椅子になっているのか。
その経緯を説明するためには、話を十数日前まで遡らなければならない。
私の本当の名前は、フィオナ。
ここノルディス辺境伯領と国境を接する隣国で、薬師を生業としていた魔女である。
この世界における魔女とは、おとぎ話に登場するような、邪悪な魔法で人々を苦しめる存在ではない。薬草や鉱石、魔物の素材などを用いて薬を作る女性たちの総称だ。
傷を治す軟膏や毒を消す薬をはじめ、寝つきをよくする香油、飲みすぎた翌朝の頭痛を和らげる丸薬まで、魔女たちが扱う品は多岐にわたる。
また、多くの魔女は一人につき一つ、生まれつき固有の魔法を持っていた。
火を灯す、植物を急速に育てる、動物の言葉を聞き取る。珍しいところでは、触れた相手を別の姿へ変える魔法を使う者もいる。
もっとも、すべての魔女が強大な魔力に恵まれているわけではない。
ちなみに私の固有魔法は、物を少しだけ浮かせることだった。
どのくらい少しかというと、本や林檎などの軽いものなら、部屋の端から端まで運べる。人一人なら、少し頑張ってその場で指一本分ほど。中身の詰まった薬棚ともなると、顔を真っ赤にして唸ったところで一寸たりとも持ち上がらない。
実にしょぼい。
魔力そのものが弱いため、それ以上はどう頑張っても無理だった。
薬草の束を棚の上へ移すときや、床へ落とした匙を拾うときには便利だけれど、魔法の実力だけなら、魔女たちの中でも下から数えたほうが早い。
その代わり、薬作りには自信があった。
私は幼い頃から薬草の名前と効能を覚えるのが好きで、十歳を迎える頃には、大人の魔女でも見分けに迷うほどよく似た毒草を嗅ぎ分けられた。
決して華やかではないけれど、誰かの病や怪我を治すために必要なのは、派手な魔法よりも正しい知識だ。
そう信じて、真面目に働いてきた。
「強い魔力は、魔女を優れた薬師にする条件の一つにすぎない。大切なのは、知識と判断力、そして何が起きても目を逸らさず、人の命と向き合う覚悟だよ」
以前、魔女たちを束ねる魔女頭はそう言った。
そのうえで彼女は、私を次代の魔女頭候補の一人に選んだのである。
驚きはしたものの、推薦されたからには期待に応えられるよう努力してきた。足りない魔力は知識で補い、それでも足りない部分は周囲の力を借りればいいのだ。
ところが、私が魔女頭候補に選ばれたことを、素直に喜ばなかった者が一人だけいた。
「納得いかないわ」
そう言って私の仕事場へ乗り込んできたのが、ルクレツィアだった。彼女は同世代の魔女の中でも頭一つ抜けた実力者だ。豊富な魔力に加え、触れた人間や物を別の姿へ変える固有魔法を持っている。本人が正確に思い描けるものであれば、大きさや形が大幅に異なっていても変身させられるという、極めて珍しい魔法だった。しかも、その効果は最長で一か月も持続する。私とはえらい違いだ。
実力だけで比べるなら、私より彼女のほうが次代の魔女頭にふさわしい。だからこそ、魔女頭が私を候補に選び、自分を選ばなかったことが面白くなかったのだろう。
「フィオナは私より魔力が少ないくせに」
「そうね」
「固有魔法だって、少し浮かせるくらいしかできないくせに」
「なんと、今日は林檎を同時に二つ浮かせられたわ」
「成長の報告はいらないのよ!」
ルクレツィアは紫色の瞳を吊り上げると、つかつかと私の前まで歩いてきた。
彼女には気性の激しいところがあり、悪戯となると少々やりすぎるきらいがある。もっとも、本気で私を憎んでいるわけではないことも知っていた。
口では文句を言いながら忙しいときには薬草を刻むのを手伝ってくれるし、私が熱を出したときには頼んでもいないのに三日間泊まり込んで看病してくれた。私が魔力の弱さを理由にほかの魔女から侮られれば、本人以上の勢いで怒り出す。
そのため私は、このときもいつものことだ、と大して警戒していなかった。
「だいたい、あんたは昔から面白みがなさすぎるのよ。朝から晩まで薬草とにらめっこして、たまの休みに読むのも薬学書ばかり。このまま薬草に囲まれて老いていくつもり?」
「失礼ね。恋愛小説だって読むわよ。それに魔女頭のことだって、候補の一人になっただけで、まだ決まったわけではないでしょう。そんなに納得できないなら、あなたも推薦してもらえるよう働けばいいじゃない」
「んもう! フィオナの、正論ばかり言うところが気に入らないのよ!」
「ありがとう」
「褒めてない!」
ルクレツィアは机を両手でばんっと叩いた。しまった。少しからかいすぎたかもしれない。
「二十八年間、男の手も握ったことがない耳年増なあんたは、スケベ椅子にでもなってなさい!」
「なんで私が耳年増だって知ってるのよ!」
反論した瞬間、ルクレツィアの掌から眩い光が溢れた。
あ、まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
視界がぐにゃりと歪み天井が急速に遠ざかっていく。手足の感覚が消え代わりに全身が硬くなって、体のあちこちがこれまであり得なかった方向へ伸びていく。
けれど痛みはなく、ほんの数秒でその感覚は収まった
いつの間にか、ルクレツィアを見上げるほど視点が低くなっている。
声が出ない。
立ち上がろうとしても、手足が動かない。そもそも、どこからどこまでが手で、どこからが足なのかさえわからなかった。
かろうじて働く五感で周囲の様子を確かめる。
壁に掛けてある鏡の中に、見覚えのない家具が映っていた。
艶やかな赤褐色の木で作られた、見るからに上等な一人掛け椅子。背もたれと座面には深紅の布が張られ、脚や肘掛けには蔓草を模した優美な彫刻が施されている。
そこまではいい。
問題は、座面の中央に堂々と開けられた大きな穴だった。
スケベ椅子。
そう認識した途端、どこからともなく得たらしい、余計な知識が使用方法として頭へ流れ込んできた。
なるほど、こうやって使うのね。
……本当に余計な知識だわ。
生まれて二十八年、男性とまともに触れ合った経験すらないというのに、どうしてよりによってスケベ椅子にならなければならないのだろう。せめて普通の椅子にしてほしかった。
もっとも普通の椅子に変えられていたとしても、迷惑であることに変わりはないけれど。
「あ……やりすぎたかしら」
目の前でルクレツィアが気まずそうに頬を掻いた。
どうやら私の姿を確認し、少しは反省したらしい。ならすぐに戻せ。
「……ふ、ふん!ちょっと反省したらいいのよ!明日になったら様子を見に来るから」
待ちなさいよ、この意地っ張り!
無情にも扉が閉まり部屋の中がしんと静まり返る。
こうして私は、椅子になった。しかもスケベ椅子に。
魔力は残っているのに固有魔法は使えず、声も出せなければ指一本動かすこともできない。意識も五感もはっきりしているせいで、自分が椅子として部屋の隅に置かれている状況だけは、嫌というほど理解できた。
私は、しばらく考えた末、途方に――暮れなかった。
これもめったにできない経験だ。椅子の体がどのような感覚を持つのか。睡眠や食事は必要なのか。記録を取れないのが残念なくらい、興味深いことばかりだった。
どうせ明日にはなんだかんだで反省したルクレツィアが戻しに来る。それまでの辛抱だ。たまには一日くらい椅子になってみるのもいいかもしれない。
そう楽観していた私は、その夜、自宅兼仕事場の扉に鍵がかかっていないことに気がついた。
ルクレツィアはもちろん私の家の鍵など持っていない。だから扉を閉めただけで帰った。そして一人暮らしの家は夜になっても明かりが灯らず、外から見れば完全な無人である。
嫌な予感がした。
その予感が的中したのは、深夜を回った頃だった。
窓の外から微かな物音が聞こえ、ほどなくして扉がゆっくりと開く。知らない男が一人、音もなく忍び込んできた。顔の下半分を布で覆い大きな袋を背負っている。
どこからどう見ても泥棒だった。
男は周囲を窺いながら室内を物色し、引き出しの中の硬貨や小さな銀食器を袋へ放り込んでいった。私のおやつ代!
やがて部屋の隅まで来ると、私を見て足を止める。
「なんだ、この椅子……?」
家主よ。今は椅子だけど。
「見たことのない形だな。細工も悪くない」
泥棒は私の周囲を一周し、背もたれや肘掛けを確かめるように触った。
触らないで。
特に座面を覗き込むのはやめて。
「珍しい家具だ。他国の収集家に高く売れるかもしれない」
泥棒は嬉しそうに呟いた。
まさか、と思った次の瞬間、私の体が持ち上げられる。
やめて!私は売り物じゃないわ!それ以前に、どうやってこの形を収集家へ説明するつもりなの!
抵抗しようにも、椅子の脚はぴくりとも動かなかった。
そのまま私は家から運び出され、荷車へ積み込まれた。
泥棒は翌朝には私を別の商人へ売り渡した。その商人は珍しい異国風の家具として値をつけ、ちょうど国境を越える予定だった行商人の荷馬車へ私を載せた。
昼は荷馬車に揺られ、夜は倉庫の片隅で過ごす。行く先々で「珍しい椅子だ」「何で穴が開いているんだ」と首を傾げられ、そのたびに心の中で、知らなくていいと答えた。
そうして何人もの商人の手を渡り歩いた末、私は生まれて初めて国境を越え、隣国のノルディス辺境伯領へたどり着いた。
最後に私を買い取った家具店の主人は、木材と細工をひどく気に入ったらしい。丁寧に磨き上げると、店内でもっとも目立つ場所へ私を飾った。
問題の穴には最後まで首を傾げていたけれど、異国の職人が作った特別な意匠かな?と勝手に納得したようだった。
いいえ。
その穴に、芸術的な意味は一切ないわ。
真っ赤な値札をつけられた私は、通りに面した窓際で今度こそ途方に暮れ――なかった。
こうなったらとことん楽しんでやろうではないか。幸い店先を行き交う人々を眺めていれば退屈はしない。私はすっかり異国見物をするつもりになり、窓の外へ意識を向けた。
願わくば、下卑た笑いを浮かべる変態にだけは買われませんように。
だから、その日の夕暮れ。
店の扉を開けて入ってきた銀髪の美丈夫が、まっすぐこちらへ近づいてきたときも、私は呑気に考えていた。
まあ。
今日もまた、ずいぶんと目の保養になりそうなお客が来たわね、と。




