第一話 私はとっても溺愛されている
私は、とっても溺愛されている。
毎日のように「君しかいない」と囁かれ、「ずっとそばにいてくれ」と懇願され、ときには「君がいなくなったらと考えただけで、心が張り裂けそうだ」と、こちらが恥ずかしくなるほど切実な声で訴えられる。鍛え上げられた逞しい胸が触れ、長い腕に強く包み込まれるたび、私はどうしていいかわからず、身を固くしてしまう。
普段の彼を知る者が聞けば、耳を疑うに違いない。
彼――ヴィルフリート・ノルディス辺境伯は、滅多なことでは感情を表に出さない男だった。
王国北部に広大な領地を有するノルディス家の若き当主にして、国境を守る騎士団の総指揮官。領内には、〈灰霧の森〉と呼ばれる広大な魔境がある。そこには凶暴な魔物が生息し、時折人里まで下りてくる。その脅威を何代にもわたって食い止めてきたノルディス辺境伯家は、王家からも国民からも絶大な信頼を寄せられていた。
なかでも現当主であるヴィルフリートは、歴代屈指の名君と評判だ。剣を取れば並ぶ者はなく、馬術にも弓術にも秀でている。それでいて領地経営の手腕にも優れ、就任から数年で街道を整備し、交易を盛んにし、領民の暮らしを豊かにした。
文武両道とは、きっと彼のためにある言葉なのだろう。
しかも――と、これは私の極めて個人的な感想だけれど――とんでもなく顔がいい。
艶やかな銀髪に淡い青の瞳。見上げるほど高い背は、騎士として立派に鍛えられている。黙って窓辺に立っているだけで、一幅の絵画が完成してしまうほどの眉目秀麗ぶりだった。
まったく、今日も素晴らしい眺めね。
毎日欠かさず鑑賞しているけれど、何度見ても飽きない。もし鑑賞料を求められたとしても、世の女性は喜んで支払うだろう。
そんな完璧な男性が、二人きりのときに限って惜しみなく甘い言葉を囁いてくるのだから、人生とはわからない。
しかし、ここ最近は灰霧の森から現れる魔物の数が増え、休む暇もないようだった。悪路を馬で疾走するなど日常茶飯事。何時間も剣を振るって帰ってきたあと、今度は机に向かい、深夜まで書類を片づけている。
当然、疲れているはずだ。それでも部下や使用人の前では決して背を丸めず、弱音一つこぼさない。領主が不安そうな顔をすれば、領民まで不安になる。自分が揺らいではならないと考えているのだろう。真面目というか、責任感が強いというか。
少しくらい誰かを頼ればいいのに、と思わないでもない。
けれど幸いなことに、彼にも心を許せる相手が一人だけいるらしい。
それが私だ。
今夜もヴィルフリートは執務を終えると、最後まで残っていた老執事を下がらせた。
「お休みになられますか、旦那様」
「ああ。お前も休め」
「かしこまりました。どうぞよい夜を」
老執事が一礼して退室し、重厚な扉が音もなく閉ざされる。
広い部屋に残されたのは、ヴィルフリートと私だけ。
廊下を遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、彼は張り詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
疲労を滲ませた横顔さえ美しいとは、恐ろしい男である。
外した剣帯を机の脇へ置くと、ヴィルフリートは迷わず私のもとへ歩いてきた。
「……ジョセフィーヌ」
淡い青の瞳が、愛おしそうに細められる。
「今日も、こうして君に触れることだけを考えていた」
そう言って、ヴィルフリートは私の前に膝をついた。外では決して見せない、安堵しきった表情だった。
その大きな手が、確かめるように私の背を撫でる。節の目立つ指は剣を握る者のものなのに、触れ方は驚くほど優しい。
「森の東で魔物の痕跡が見つかった。明朝には、また城を発たなければならない」
明日も討伐なのね。
今日戻ってきたばかりでしょうに。
「心配しなくていい。必ず帰る」
心を読まれたような言葉に少し驚く。
ヴィルフリートはこちらを見つめたまま、ほんのわずかに眉尻を下げた。
「外では、皆が俺を頼る。俺はノルディス辺境伯として、彼らの期待に応えなければならない。だが君の前でだけは……強がらなくてもよい気がする」
彼の端正な顔が近づき、額がそっと触れる。
この距離で眺めても、毛穴一つ見当たらない。いったいどういう肌をしているのだろう。辺境伯家に伝わる秘伝の化粧水でもあるなら、ぜひ製法を教えてほしい。
私が呑気にそんなことを考えている間にも、ヴィルフリートの表情は切なげに曇っていく。
「君に会えて、本当によかった」
彼は囁くと、堪えきれなくなったように私を抱きしめた。逞しい腕に包まれ、私は反射的に身を固くする。
「今の俺を受け止めてくれるのは、君だけだ」
ずいぶん情熱的ね。
「ジョセフィーヌ……ずっとそばにいてくれ」
それは、まあ、私としてもできればそうしたいけれど。
「君がいなくなったらと考えただけで、心が張り裂けそうだ」
まあ。そんなことを言われたら、こちらまで照れてしまう。
これほどまでに必要とされ、熱い腕に抱きしめられ、誰にも聞かせない甘い言葉を毎晩囁かれる。
これを溺愛と呼ばずして、なんと呼ぶのだろう。
ちなみに――。
私の名前は、ジョセフィーヌではない。
なんなら私は人間ではない。
正確に言えば、今は人間ではない。
もう一つ付け加えるなら、ヴィルフリートが愛おしそうに撫でていたのは私の背中ではない。背もたれである。
逞しい腕に抱かれても、胸が高鳴ることはない。そもそも胸がなく、抱き返すための腕もないうえ、脚なら四本ある。
彼が甘い声で「君しかいない」と囁いている相手は、座り心地のよい――
ちょっぴり上等なスケベ椅子であった。




