第100話 新しいオファーは、帰る場所から遠い役だった
その話が来たのは、しらいさんが「少し自分で帰ってこられるようになった」と言った翌々日だった。
春日悠真は、いつものように昼休みの休憩スペースで弁当を開けていた。
向かいでは三崎が唐揚げ弁当を食べながら、白瀬アカリの過去インタビューを読んでいる。
もう完全に日課だった。
「三崎」
「何」
「昼飯中くらい、別のものを読んだらどうだ」
「読んでる」
「何を」
「白瀬アカリの昔の映画評」
「別じゃないだろ」
「別ジャンルだ」
「同じ沼だ」
三崎は悪びれもせず、唐揚げを一つ口に入れた。
「でも面白いぞ。昔は『透明感のある若手女優』って言われてたのに、今は『沈黙に温度がある女優』とか書かれてる」
「沈黙に温度」
「いい表現だろ」
「そうだな」
「最近の白瀬アカリ、言葉より黙ってるときのほうが残る感じあるよな」
悠真は箸を止めた。
三崎は今日も何も知らずに核心へ近いところを歩いている。
青灰色のノート。
言わなかった言葉。
沈黙の置き場所。
それらを知らないまま、白瀬アカリの沈黙に温度があると言う。
「また外側の番人だな」
「その呼び名、もう俺の知らないところで定着してないか?」
「少なくとも俺の中では」
「怖いな」
三崎は笑いながら、スマホを伏せた。
「でも、次の仕事どうなるんだろうな」
「次の仕事?」
「年末番組であれだけ評価されたら、ドラマとか映画とか、オファー増えるだろ」
「そうだな」
「次に何をやるか、結構大事じゃないか」
その言葉に、悠真は小さく頷いた。
白瀬アカリは、今まさに見つかり始めている。
次の役で、さらに遠くへ行くかもしれない。
あるいは、求められるものが増えすぎて苦しくなるかもしれない。
三崎は軽く言った。
「個人的には、帰る場所がある人をもう一回やるより、逆の役も見たいけどな」
「逆?」
「帰れない人」
悠真は、返事を忘れた。
三崎は気づかず続ける。
「白瀬アカリって、戻れる場所を知ってる顔ができるだろ。だったら、逆に戻れない人も深くできそうじゃん」
その瞬間、悠真のスマホが震えた。
しらいさんからだった。
『大きい話が来た』
短い一文。
続けて、
『でも少し怖い』
悠真は、三崎の言葉とスマホの文字を交互に見た。
嫌な予感ではない。
けれど、何かが動き出した気配がした。
『どんな話ですか』
送る。
既読。
少し間が空いて、返事が来た。
『新しいドラマの打診』
『役は』
『帰る場所を失った女性』
悠真は、しばらく画面を見つめた。
◇
夕方、しらいさんは理沙さんと事務所の会議室にいた。
テーブルの上には、まだ正式な台本ではない資料が置かれている。
企画書。
登場人物案。
簡単なあらすじ。
タイトルは仮のものだった。
物語は、地方から都会へ出てきた女性が、仕事、家族、人間関係のすべてを少しずつ失い、自分の居場所を探しながら歩いていく話。
恋愛が主軸ではない。
派手な事件も少ない。
でも、じわじわと胸を削るような物語だった。
白瀬アカリに打診された役は、主人公の友人であり、もう一人の主人公に近い女性。
明るく振る舞うが、本当は帰る場所を失っている人。
家に帰っても、自分の居場所がない。
職場にいても、必要とされている気がしない。
誰かと一緒にいても、心が帰れない。
資料を読み終えたしらいさんは、しばらく何も言えなかった。
「どう思う?」
理沙さんが聞く。
しらいさんは、紙の端を指で軽く押さえた。
「怖いです」
「そうね」
「かなり」
「ええ」
理沙さんは否定しなかった。
こういうとき、理沙さんは簡単に「できるわ」とは言わない。
怖いものは怖いと認めた上で、次を見る。
「今の白瀬アカリに来るのは、自然な流れだと思うわ」
「自然、ですか」
「年末番組で、あなたは“戻れる場所を知った人の顔”を見せた」
「はい」
「だから次に、戻れない人を見たいと思う作り手がいてもおかしくない」
「……はい」
「ただ、簡単な役ではない」
しらいさんは頷いた。
簡単ではない。
それは資料を読んだだけで分かった。
帰る場所を失った女性。
今の自分とは、逆の人だと思った。
自分には、春日くんの部屋がある。
河川敷がある。
青灰色のノートがある。
蜂蜜の日がある。
スプーン右がある。
ことんの音がある。
理沙さんの線引きがある。
三崎さんの外側の感想もある。
少し前より、帰り道は増えた。
だからこそ、思ってしまった。
そんな自分が、帰れない人を演じていいのだろうか。
「理沙さん」
「何?」
「帰る場所がある私が、帰れない人を演じていいんでしょうか」
理沙さんは、すぐには答えなかった。
少しだけ椅子にもたれ、しらいさんを見た。
「逆よ」
「逆?」
「帰る場所を少しずつ知った今のあなただから、帰れない痛みを想像できる可能性がある」
「……」
「最初から何も持っていなかった人より、持っているものを失う怖さを知っている人のほうが、見えるものもある」
その言葉は、胸にすっと入ってきた。
でも、同時に怖かった。
「近すぎませんか」
「近いわ」
「役に引っ張られませんか」
「可能性はある」
「……」
「だから、やるなら線引きが必要。帰れない人を演じることと、あなた自身が帰れなくなることは違う」
理沙さんの声は、いつもより少し強かった。
「役作りのために、自分の帰る場所を壊す必要はない」
しらいさんは、資料の文字を見つめた。
帰る場所を壊さずに、帰れない人を演じる。
それができるのだろうか。
「春日さんには相談するのでしょう」
理沙さんが言った。
「……はい」
「相談しなさい。ただし、彼に決めてもらわないこと」
「はい」
「彼はあなたの帰る場所の一つだけれど、仕事を選ぶのはあなた」
「分かっています」
「本当に?」
「……少し」
「正直でよろしい」
理沙さんは資料を一度閉じた。
「今日は結論を出さなくていいわ。まず読んで、怖いと思って、なぜ怖いのかを整理しなさい」
「はい」
「青灰色のノートに書いてもいい」
「はい」
「ただし、役に入るために帰らない練習をしよう、などとは考えないこと」
しらいさんは、少しだけ視線を逸らした。
考えなかったと言えば、嘘になる。
理沙さんはそれを見逃さなかった。
「考えたわね」
「少し」
「禁止」
「はい」
「帰れない人を演じるために、自分を帰れなくする必要はない」
「はい」
その言葉を、しらいさんは胸の中で何度も繰り返した。
◇
夜、しらいさんは部屋へ来た。
いつもより少し遅い時間だったが、理沙さんから許可が出たらしい。
玄関を開けると、彼女は小さく「来た」と言った。
声に少し重さがあった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
その返事は、少しだけ弱い。
部屋に入ると、彼女はコートを脱ぎ、ローテーブルの前へ座った。
鞄から青灰色のノートを取り出す。
その上に、今日の資料を重ねようとして、途中で止めた。
「資料、見ても大丈夫なものですか」
悠真が聞くと、彼女は首を横に振った。
「詳しいのはだめ」
「では置かなくていいです」
「うん」
資料は鞄に戻した。
代わりに、青灰色のノートだけがテーブルに置かれる。
悠真はミルクティーを作った。
蜂蜜は、少し多め。
カップを渡すと、しらいさんは両手で受け取り、コースターへ置いた。
ことん。
その音を聞いた瞬間、彼女はほんの少し息を吐いた。
「今日は、この音が必要だった」
「はい」
「帰れない人の役の話が来た」
「読みました」
「うん」
「怖いですか」
「怖い」
「はい」
「かなり」
「はい」
しらいさんはミルクティーを見つめた。
「私、帰る場所を作ってきたのに」
「はい」
「帰れない人を演じるんだって」
「はい」
「変な感じ」
「そうですね」
「春日くん」
「はい」
「帰る場所がある私が、帰れない人を演じていいのかな」
昼に理沙さんへ言ったのと同じ言葉だったのだろう。
でも、今は少し違う響きだった。
仕事の相談ではなく、もっと内側の不安として。
悠真はすぐには答えなかった。
簡単に「いいと思います」と言ってしまえば、彼女はたぶん受け取る。
けれど、これはそんなに軽い問いではない。
「しらいさん」
「うん」
「帰る場所を知ったから、帰れない人の痛みが前より分かるのかもしれません」
彼女は顔を上げた。
「理沙さんにも、似たこと言われた」
「そうですか」
「うん」
「なら、たぶん本当にそうなんだと思います」
「春日くん、理沙さんを信頼しすぎ」
「信頼しています」
「うん。私も」
少しだけ笑いが戻る。
けれど、すぐに彼女の表情は真面目になった。
「でも、役に引っ張られるのが怖い」
「はい」
「帰れない人を演じようとして、本当に帰り方が分からなくなったらどうしようって」
「はい」
「今、せっかく少し自分で帰ってこられるようになったのに」
「はい」
「また分からなくなったら、怖い」
悠真は、ローテーブルの青灰色のノートを見た。
「帰り方を壊す必要はないと思います」
「うん」
「帰れない人を演じるために、しらいさんが帰れなくなる必要はありません」
「それも理沙さんに言われた」
「理沙さんは本当に正しいですね」
「春日くん」
「はい」
「今日、理沙さん側が強い」
「彼氏側もです」
「強い」
いつもの言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「でも」
悠真は続けた。
「役の人が帰れなくても、しらいさんは帰ってきてください」
しらいさんは、静かに息を止めた。
「それ」
「はい」
「今日、かなりほしかった」
「言えてよかったです」
「出た」
「出ます」
彼女は目元を少し赤くしながら笑った。
◇
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
「今日、書いていい?」
「もちろんです」
「読ませるかは、まだ分からない」
「分かりました」
彼女はペンを持ち、しばらくページを見つめた。
その間、悠真は何も言わなかった。
ペン先が紙に触れる。
ゆっくりと、一文を書いている。
書き終えたあと、しらいさんはしばらくその文字を見つめていた。
そして、少し迷ってからノートを悠真のほうへ回した。
「読んでいい」
悠真は頷いて、ページを見る。
『帰る場所があるから、帰れない人の怖さを少しだけ想像できるのかもしれない。』
静かな一文だった。
悠真は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「読みました」
「うん」
「すごくいいと思います」
「本当?」
「はい」
「でも、これだけだと綺麗すぎる気がする」
「そうですか」
「うん。だからもう一つ書く」
彼女はノートを戻し、次の行に書いた。
今度は少し早かった。
書き終えると、また見せてくれた。
『でも、怖いものは怖い。』
悠真は、その一文を見て少しだけ笑った。
「何で笑うの」
「すみません。しらいさんらしくて」
「怖いのに」
「はい。でも、その一文があるから、前の一文も生きる気がします」
しらいさんは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
「はい」
「綺麗にまとめすぎないほうがいい?」
「たぶん」
「三崎さんも言いそう」
「言いそうですね」
「外側の番人」
「はい」
しらいさんはノートを閉じた。
「今日は二つ置いた」
「はい」
「帰る場所があるから想像できるかもしれない」
「はい」
「でも怖いものは怖い」
「はい」
「この二つ」
「どちらも大事です」
「うん」
◇
そのあと、二人は新しい役について、話せる範囲で話した。
詳しい内容は言えない。
けれど、しらいさんが怖いと感じている部分は話せた。
「帰れない人って、どんな人なんだろう」
「はい」
「家がないわけじゃないかもしれない」
「はい」
「誰かがいないわけでもないかもしれない」
「はい」
「でも、心が帰れない」
「……」
「そういう人、たぶんいるよね」
「いると思います」
「私も、前はそうだったのかな」
悠真は、すぐには答えなかった。
河川敷で缶チューハイを飲んでいた地味なお姉さん。
本人ではないと言い張っていた人。
白瀬アカリでいるのが少ししんどくて、でもしらいさんとして帰る場所もなかった人。
「少し、そうだったのかもしれません」
悠真は正直に言った。
しらいさんは小さく頷いた。
「だよね」
「はい」
「だから怖いのかな」
「はい」
「戻ってしまいそうで」
「……」
「でも、今は違う?」
「違います」
悠真ははっきり言った。
「今は、帰る場所があります」
「うん」
「帰り方も増えました」
「うん」
「スプーン右がなくても帰れる日もあります」
「うん」
「ことんの音が必要な日もあります」
「うん」
「ノートもあります」
「うん」
「俺もいます」
最後の言葉を言うとき、少しだけ照れた。
でも、言わないほうが違う気がした。
しらいさんは、カップを両手で包んだまま、じっとこちらを見ていた。
「春日くん」
「はい」
「それ、言ってくれるの待ってた」
「そうですか」
「うん」
「なら、言えてよかったです」
「出た」
「出ます」
彼女は少し笑った。
でも、目元は赤くなっていた。
「私は帰ってくる」
「はい」
「役の人が帰れなくても」
「はい」
「私は帰る」
「はい」
「その練習を、先にしておきたい」
「何の練習ですか」
「役を置いて帰ってくる練習」
悠真は静かに頷いた。
「いいと思います」
「撮影が始まったら、必要になるかも」
「はい」
「今日みたいに、怖くなったらノートに置く」
「はい」
「部屋に来られる日は来る」
「はい」
「来られない日は、蜂蜜の日とか」
「はい」
「でも、合図に頼りすぎない」
「はい」
「自分でも歩く」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「今、先生みたい」
「すみません」
「謝らないで」
二人で少し笑った。
◇
帰る時間になるころ、しらいさんは少し落ち着いていた。
怖さがなくなったわけではない。
でも、怖さが形を持った。
それだけで、人は少し息がしやすくなるのかもしれない。
マグカップを洗い、棚に戻す。
ことん。
その音を聞いて、しらいさんは小さく言った。
「今日は、帰れる音」
「はい」
「でも、役の人にはまだ聞こえない音」
「はい」
「いつか、その人にも聞こえるように演じられたらいいな」
「はい」
「まだ受けるって決めてないけど」
「はい」
「でも、考える」
「それでいいと思います」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「役の人が帰れなくても、私は帰ってくる」
「はい」
「忘れそうになったら、言って」
「言います」
「何度でも?」
「何度でも」
「知ってる」
彼女は少しだけ笑った。
「また行ってくる」
「はい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「うん」
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻った。
ローテーブルには、青灰色のコースターと、少しだけ甘いミルクティーの匂いが残っている。
帰る場所を失った女性。
その役は、きっと簡単ではない。
でも、しらいさんはもう、ただ怖がるだけではなかった。
怖いものは怖い。
それでも、帰ってくる。
悠真は、棚に戻したマグカップを見た。
彼女が次にどんな役へ向かうとしても、この部屋で言う言葉は変わらない。
おかえりなさい。




