第101話 帰れない人を演じるために、帰れる場所を確かめる
資料を受け取ってから、しらいさんの中で小さな違和感が続いていた。
仕事の違和感ではない。
むしろ、仕事としては魅力がある。
帰る場所を失った女性。
資料に書かれた人物は、派手に泣き叫ぶ人ではなかった。
誰かに見捨てられたと大声で訴えるわけでもない。
ただ毎日を普通に過ごし、笑い、働き、誰かに気を遣いながら、心だけがどこにも帰れなくなっている。
それが怖かった。
あまりにも静かで。
あまりにも身近で。
そして、少し前の自分に近かった。
白瀬アカリは、控室の鏡の前で台本資料を閉じた。
まだ正式決定ではない。
打診段階だ。
けれど、もう役の影はそばに来ている。
帰れない人。
その人を演じるには、どこまで近づけばいいのだろう。
帰る場所を知ったばかりの自分が、帰れない人を演じる。
それは矛盾なのか。
それとも、だからこそできるのか。
理沙さんは言った。
帰る場所を知った今のあなたなら、帰れない痛みを想像できる可能性がある。
春日くんも言った。
役の人が帰れなくても、しらいさんは帰ってきてください。
どちらも分かる。
分かるのに、心のどこかがまだ納得しきれていなかった。
帰れない人を演じるなら、自分も少し帰れないところに近づかなければいけないのではないか。
そんな考えが、一度浮かぶと消えなかった。
◇
その日の昼過ぎ、春日悠真のスマホが震えた。
会社のデスクで資料を整理していた悠真は、画面を見て少しだけ手を止めた。
『今日、部屋に行かないほうがいいかもしれない』
しらいさんからだった。
悠真は眉を寄せた。
忙しいから来られない、ではない。
体調のために休む、でもない。
行かないほうがいいかもしれない。
その言い方が、少し引っかかった。
『何かありましたか』
送る。
すぐ既読がつく。
『役のこと考えてた』
『帰れない人を演じるなら』
『少し、帰らない感じを掴んだほうがいいのかなって』
悠真は、スマホを持つ手に力が入るのを感じた。
嫌な方向だった。
彼女が真面目なのは知っている。
役へ向かうときに、自分の内側を使おうとするのも分かる。
でも、それは危ない。
『それは、理沙さんに相談しましたか』
既読。
少し間。
『まだ』
悠真は小さく息を吐いた。
『先に相談してください』
送る。
既読。
『春日くん、止める?』
『止めます』
今度は迷わず送った。
『役作りと、しらいさんが帰れなくなることは違います』
既読。
長い沈黙。
その数分が、いつもよりずっと長く感じた。
やがて返事が来る。
『理沙さんにも言われそう』
『たぶん言われます』
『うん』
『でも、怖い』
『帰れる場所があるまま、帰れない人を演じられるのか分からない』
悠真は、すぐには返さなかった。
彼女の不安を軽く扱いたくなかった。
帰れる場所がある。
それは今のしらいさんを支えている。
けれど、役は帰れない人。
その距離をどう取ればいいのか、彼女は本気で悩んでいる。
『帰れる場所があるから、帰れない人の怖さを想像できるのだと思います』
送る。
『でも、その場所を壊して確かめる必要はありません』
既読。
しばらくして、
『仕事中にそれはだめ』
と返ってきた。
いつもの言葉なのに、今日は少し弱い。
『すみません』
『謝るところではある』
少し間。
『でも、ありがとう』
◇
夕方、しらいさんは理沙さんに呼び出された。
事務所の小さな会議室。
窓の外はすでに暗くなりかけている。
テーブルの上には、新しいドラマの資料が置かれていた。
その横に、理沙さんのタブレット。
理沙さんは、椅子に座ったまましらいさんを見た。
「春日さんから何か言われた?」
最初の一言がそれだった。
しらいさんは少しだけ目を伏せた。
「言われました」
「何を?」
「役作りと、私が帰れなくなることは違うって」
「正しいわね」
「はい」
「あなた、部屋へ行かない練習をしようとしたでしょう」
しらいさんは、返事に詰まった。
それでも、嘘はつけない。
「少し、考えました」
「禁止」
即答だった。
「はい」
「帰れない人を演じるために、自分の帰る場所を遠ざける必要はない」
「はい」
「むしろ逆よ」
理沙さんは、資料の表紙を軽く叩いた。
「この役は、静かに削れていく人。帰れないことに慣れてしまった人。そこへ近づくには、あなた自身の帰る場所を壊すのではなく、帰れる感覚をきちんと持っていないと危ない」
「帰れる感覚を」
「ええ。戻る場所を持ったまま、役の中では戻れない人になる。演じ終えたら、必ず戻る」
「はい」
「これができないなら、この役は受けるべきではないわ」
厳しい言葉だった。
けれど、冷たくはなかった。
理沙さんは、しらいさんを見ている。
白瀬アカリという商品だけではなく、役に近づきすぎる一人の人間として。
「怖いです」
しらいさんは小さく言った。
「知っているわ」
「帰れない感じを想像すると、少し前の自分に戻りそうで」
「ええ」
「でも、役から逃げたいわけじゃないです」
「分かっている」
「じゃあ、どうすればいいんでしょう」
理沙さんは、すぐには答えなかった。
少しだけ考え、それから言った。
「まず、帰れることを確認しなさい」
「帰れること?」
「ええ。今日、春日さんの部屋へ行きなさい」
しらいさんは顔を上げた。
「行っていいんですか」
「行きなさい、と言っているの」
「でも、役作りとしては」
「役作りの前に、安全確認」
理沙さんはきっぱり言った。
「帰れない人を演じるなら、あなたは帰れることを確認してから始めるべきよ」
「……」
「青灰色のノートにも書いておきなさい。役の人は帰れなくても、私は帰る、と」
「春日くんにも似たことを言われました」
「でしょうね」
理沙さんは少しだけ息を吐いた。
「彼は近い。だから止める。私は仕事として止める。理由は違っても、結論は同じ」
「はい」
「今日は部屋へ行って、帰る音を聞きなさい」
「ことん、ですか」
「そう」
「理沙さんが、ことんって言った」
「言っていないわ。あなたが言ったの」
「でも、意味は」
「分かっているわよ」
理沙さんは少しだけ口元を緩めた。
「必要なら、聞いてきなさい。ただし、泣きすぎないこと。明日も仕事がある」
「はい」
「それと、彼に全部決めてもらわないこと」
「はい」
「この役を受けるかどうかは、あなたが決める」
「分かっています」
「本当に?」
「……少し」
「正直でよろしい」
◇
夜、しらいさんは部屋へ来た。
玄関を開けると、彼女はいつものように立っていた。
黒いキャップ。
薄いマスク。
ベージュのコート。
鞄は少し小さめ。
資料は持ってきていないようだった。
「来た」
「おかえりなさい」
悠真が言うと、しらいさんは一瞬だけ目を伏せた。
「ただいま」
声が少し揺れていた。
部屋に入ると、彼女はローテーブルを見た。
青灰色のコースター。
マグカップ。
蜂蜜。
スプーンは今日は右側ではなく、少し離れた場所に置いてある。
青灰色のノートを置けるスペースも空いていた。
「今日は、帰る確認に来ました」
しらいさんが言った。
「はい」
「理沙さんに、行きなさいって言われた」
「そうですか」
「春日くんには止められた」
「はい」
「二人とも、違う場所から同じこと言った」
「そうですね」
悠真はキッチンへ行き、ミルクティーを作った。
蜂蜜は多めにするか迷ったが、今日は少しだけにした。
甘さで不安を隠す日ではなく、帰れることを確かめる日だと思ったからだ。
カップを差し出す。
しらいさんは両手で受け取った。
いつものように、コースターへ置く。
ことん。
音が落ちた。
それだけで、彼女の肩が少し下がった。
「聞こえた」
「はい」
「帰る音」
「はい」
「今日は、この音がないとだめだった」
「来てよかったです」
「うん」
彼女はミルクティーを一口飲んだ。
「蜂蜜、少なめ」
「はい」
「どうして?」
「今日は、甘さより音の日かなと思って」
しらいさんは、少しだけ目を丸くした。
「春日くん」
「はい」
「そういうところ」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、合ってる」
彼女はもう一度カップを置いた。
ことん。
今度は、自分で確かめるように。
◇
しらいさんは、青灰色のノートを取り出した。
「今日、書いていい?」
「もちろんです」
「読ませるかは、書いてから決める」
「はい」
彼女はページを開く。
しばらく何も書かなかった。
ペンを持ったまま、部屋の中を見回す。
マグカップ。
コースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
悠真。
窓の外の夜。
それらを確認してから、ようやくペン先を下ろした。
紙をこする音が静かに続く。
書き終えると、しらいさんはノートをしばらく見つめた。
「読んでいい」
悠真は頷き、ページを見た。
『帰れない人を演じるために、私は帰れる場所を確かめに来た。』
胸の奥が静かに鳴った。
その一文は、彼女が今夜ここへ来た理由そのものだった。
「読みました」
「うん」
「とても大事な一文だと思います」
「本当?」
「はい」
「綺麗すぎない?」
「今日は大丈夫です」
「じゃあ、もう一つ書く」
彼女は次の行に、少し小さく書いた。
『でも、怖い。帰れる場所があるのに、帰れない人になるのが怖い。』
悠真は、その一文も読んだ。
「これも大事です」
「うん」
「怖さも、置いておいたほうがいいと思います」
「うん」
しらいさんはノートを閉じず、開いたままにしていた。
まるで、言葉を乾かしているみたいだった。
「春日くん」
「はい」
「私、役作りって、もっと近づくことだと思ってた」
「はい」
「役に近づくために、自分の中を削ることも必要なのかなって」
「はい」
「でも、理沙さんに、自分を壊すこととは違うって言われた」
「はい」
「春日くんも、同じようなこと言った」
「はい」
「まだ、ちゃんとは分かってない」
「はい」
「でも、今日ここに来たら、少し分かった気がする」
「何がですか」
「帰る場所を持ったままでも、怖さには近づける」
悠真は、黙ってその言葉を受け取った。
しらいさんは続ける。
「帰る場所を捨てなくても、帰れない人のことを考えられる」
「はい」
「むしろ、捨てたら戻れなくなる」
「はい」
「それは、役じゃなくて事故」
「……そうですね」
「怖い言い方だけど」
「大事な言い方です」
しらいさんは少しだけ息を吐いた。
「ノートに書こうかな」
「いいと思います」
彼女は本当に書いた。
『帰る場所を捨てるのは、役作りではなく事故。』
書いたあと、二人で少し黙った。
そして、しらいさんが小さく笑った。
「ちょっと強い」
「でも、理沙さんが言いそうです」
「言いそう」
「三崎も、表現は違っても近いことを言いそうです」
「外側の番人」
「はい」
少しだけ空気が軽くなる。
◇
そのあと、しらいさんは新しい役のことを、話せる範囲で少しだけ話した。
帰る場所を失った女性。
でも、誰かに見捨てられた悲劇の人ではない。
周りから見れば、普通に暮らしている。
笑い、働き、気を遣う。
けれど、どこにも「ただいま」と言えない。
「それが、怖い」
しらいさんは言った。
「家に帰っても、ただいまって言えない感じ」
「はい」
「誰かといても、帰ってきた感じがしない」
「はい」
「私、前にそうだったかもしれない」
「はい」
「河川敷にいたころ」
「そうかもしれません」
「だから、分かる気もする」
「はい」
「でも、もう戻りたくない」
「戻らなくていいです」
悠真は、はっきり言った。
「役の人の場所へ行っても、しらいさんは戻ってきてください」
「うん」
「戻る練習をしながら演じればいいと思います」
「戻る練習」
「はい」
「撮影が始まったら、役へ行く日と、役から戻る日があるかもしれません」
「はい」
「そのたびに、ここに来られれば来てください」
「うん」
「来られなければ、ノートでも、蜂蜜でも、短い言葉でも」
「うん」
「でも、一番大事なのは、しらいさんが自分で『戻る』と決めることだと思います」
しらいさんは、じっと悠真を見た。
「春日くん」
「はい」
「今日、先生みたい」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、効く」
「ならよかったです」
「出た」
「出ます」
いつもの会話に戻る。
それだけで、彼女が少し帰ってきたのが分かった。
◇
ミルクティーが半分ほど減ったころ、しらいさんはふいに言った。
「今日、来なかったら危なかったかも」
悠真は彼女を見る。
「部屋に?」
「うん」
「どうしてですか」
「たぶん、帰らない練習を正当化してた」
「……」
「役のためだからって」
「はい」
「でも、本当は怖くて、どうしたらいいか分からなくて、変なほうへ行こうとしてた」
「はい」
「春日くんに止められて、理沙さんに禁止されて、ここに来て」
「はい」
「ようやく、あ、私は帰っていいんだって思った」
悠真は静かに聞いていた。
「しらいさん」
「うん」
「これからも、危ないと思ったら止めます」
「うん」
「理沙さんも止めると思います」
「うん」
「でも、最初に気づけるのは、しらいさん自身かもしれません」
「私?」
「はい。今日も、行かないほうがいいかもしれない、と自分で言いました」
「うん」
「それは、危ない場所へ行く前に助けを呼んだのと同じだと思います」
しらいさんは、少しだけ目を伏せた。
「助けを呼べた?」
「はい」
「そっか」
彼女は小さく息を吐いた。
「それ、ちょっと嬉しい」
「はい」
「前なら、黙ってやってたかも」
「そうかもしれません」
「うん」
「今日は、言えました」
「うん」
彼女は、青灰色のノートにまた一文書いた。
今度は見せてくれた。
『危ない方向へ行きそうなとき、行く前に言えた。』
悠真はその文字を読んで、深く頷いた。
「百点です」
「出た」
「今日は本当に百点です」
「何もしなかった日以来の?」
「はい」
「じゃあ、百点」
しらいさんは少し照れたように笑った。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
その音に、彼女は少しだけ目を閉じた。
「今日は、戻る練習の音」
「はい」
「帰れる場所を確かめる音」
「はい」
「この音を聞いてから、役のこと考える」
「いいと思います」
「うん」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今日は、帰れない人を演じるために帰ってきた」
「はい」
「ちょっと変だけど」
「変ではないと思います」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、これでいい」
彼女は少しだけ笑った。
「役の人が帰れなくても」
「しらいさんは帰ってくる」
「うん」
「忘れそうになったら?」
「言います」
「何度でも?」
「何度でも」
「知ってる」
その言葉は、いつもより少し強かった。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻る。
悠真はローテーブルへ戻った。
青灰色のノートは、今日は彼女が持って帰った。
マグカップは棚の中。
コースターだけが残っている。
帰れない人を演じるために、帰れる場所を確かめる。
その矛盾のような行動が、今日の彼女には必要だった。
悠真は、コースターを見つめながら思った。
役へ行くための道と、役から戻るための道。
これからは、両方が必要になる。
そして、自分の役目はたぶん、戻る道を消さずにいることだ。
彼女がどれだけ帰れない人を演じても。
しらいさんが帰ってきたら、言う。
おかえりなさい。




