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第102話 帰れない役と、帰ってくる私

 その役を受けるかどうか、しらいさんは三日間考えた。


 三日という時間は、長いようで短い。


 白瀬アカリのスケジュールには、相変わらず細かく仕事が詰まっていた。

 取材。

 撮影。

 衣装合わせ。

 コメント確認。

 次の企画の打ち合わせ。


 その合間に、彼女は新しいドラマの資料を何度も開いた。


 帰る場所を失った女性。


 その役名は、まだ仮のものだった。

 台本も完成稿ではない。

 けれど、資料の中にある彼女は、もうぼんやりとした輪郭を持っていた。


 明るく振る舞う。

 きちんと働く。

 誰かに優しい。

 けれど、どこにも心が帰れない。


 読めば読むほど、怖かった。


 でも、逃げたいだけではなかった。


 怖いのに、気になる。

 遠ざけたいのに、目を離せない。


 たぶん、そこに自分が一度いたからだ。


 河川敷で缶チューハイを飲みながら、本人じゃないと言い張っていたころ。

 白瀬アカリとしてきちんと立っているのに、しらいさんとして帰る場所がなかったころ。


 あのころの自分は、たぶんこの役に近い場所にいた。


 でも、今は違う。


 春日くんの部屋がある。

 青灰色のコースターがある。

 マグカップの音がある。

 蜂蜜の日がある。

 スプーン右がある。

 青灰色のノートがある。

 理沙さんの線引きがある。

 三崎さんの外側の言葉がある。


 帰り方は、少しずつ増えた。


 だからこそ、この役が怖い。


 でも、だからこそ、この役から逃げるのも違う気がした。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合って弁当を食べていた。


 三崎は今日は珍しく、白瀬アカリの記事ではなくドラマ業界の記事を読んでいた。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、次にドラマ来るなら重めの役がいいと思うんだよな」


 悠真は箸を止めた。


「また急だな」


「いや、最近ずっと考えてる」


「昼休みに何を考えてるんだ」


「外側の番人として」


「自分で言うようになったな」


「もう諦めた」


 三崎は唐揚げを一つ口に入れてから、少し真面目な顔になった。


「白瀬アカリって、今“戻れる場所”のイメージがついてるだろ」


「ああ」


「だから、そのまま似た役を続けると、たぶん分かりやすい。でも、少し型に入る」


「型」


「うん。戻れる場所を知ってる人、癒やし、蜂蜜、温かい飲み物、みたいな」


「蜂蜜を混ぜるな」


「混ざるだろ、世間的には」


「……まあ」


「でも、今の白瀬アカリなら、その逆もいけると思う」


 悠真は、少しだけ息を飲んだ。


「逆?」


「帰れない人」


 その言葉は、前にも聞いた。


 三崎は何も知らない。

 それでも、そこへ来る。


「どうしてそう思う」


 悠真が聞くと、三崎はスマホを伏せた。


「戻れる場所を知ってる演技ができる人って、たぶん戻れない痛みも分かるんじゃないかって」


「……」


「いや、演技のことは分からないけどさ。でも、年末番組のあの表情って、ただ安心してるだけじゃなかっただろ。安心する前に、ちゃんと遠くへ行ってた顔だった」


 悠真は箸を持ったまま黙った。


 三崎は続ける。


「だから、帰れない役をやったら、ただ暗いだけじゃなくて、帰りたいのに帰れない感じが出る気がする」


 その言葉は、しらいさんにそのまま届けたいと思った。


 けれど同時に、少し怖かった。


 外側から見ても、そう思われる。

 白瀬アカリなら、帰れない人も演じられるかもしれない、と。


 それは評価であり、期待であり、少しだけ重いものでもある。


「三崎」


「何」


「今日もかなり鋭い」


「最近そればっかりだな」


「本当にそうだから仕方ない」


「じゃあ唐揚げ一個くれ」


「それは違う」


「けち」


 三崎は笑った。


 その軽さに救われながら、悠真は思った。


 これは持って帰る。


 ただし、急がずに。


    ◇


 夕方、しらいさんは理沙さんと最終確認をしていた。


 会議室のテーブルには、ドラマの資料。

 青灰色のノート。

 紙コップの温かいお茶。


 今日は蜂蜜は入っていない。


 何となく、入れない日だった。


「結論は急がなくていいと言ったけれど」


 理沙さんが言う。


「制作側には、そろそろ前向きかどうかだけでも返す必要があるわ」


「はい」


「どうしたい?」


 しらいさんは資料を見つめた。


 帰る場所を失った女性。

 その文字を何度見ても、まだ胸の奥が少しざわつく。


「怖いです」


「ええ」


「たぶん、撮影が始まったら何度も揺れると思います」


「そうね」


「帰れない人に近づきすぎそうになるかもしれない」


「可能性はある」


「でも」


 しらいさんは、青灰色のノートに手を置いた。


「やってみたいです」


 理沙さんは、黙ってしらいさんを見た。


「理由は?」


「帰れる場所ができたからです」


 それは、言ってから自分でも少し驚く答えだった。


 でも、嘘ではなかった。


「帰れる場所があるから、帰れない人を演じても戻ってこられるかもしれない」


「ええ」


「帰れる場所があるから、帰れない人の怖さを想像できるかもしれない」


「ええ」


「それに、帰れない人を演じるために、私は自分の帰る場所を壊さなくていいって、少し分かりました」


 理沙さんは小さく頷いた。


「そこが分かっているなら、前向きに検討していいと思うわ」


「はい」


「ただし条件がある」


「はい」


「役に入る時間と、役から戻る時間を必ず分ける」


「はい」


「撮影期間中は、青灰色のノートを使いすぎない。書く日と書かない日を作る」


「はい」


「春日さんの部屋に全部を持ち込まない」


「はい」


「でも、本当に危ないときは行く」


「はい」


「私にも必ず言う」


「はい」


「一人で役作りと称して沈まない」


「……はい」


「返事が少し遅い」


「刺さりました」


「ならよろしい」


 理沙さんは資料を閉じた。


「この役は、今のあなたにとって大事になる可能性がある。でも、あなたを削ってまでやる価値はない」


「はい」


「白瀬アカリの仕事は大事。でも、しらいさんが帰ってこられなくなるなら本末転倒よ」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


 理沙さんが「しらいさん」と呼ぶとき。


 それは、白瀬アカリを守るためではなく、自分自身を守るための線のように聞こえる。


「理沙さん」


「何?」


「私、受けたいです」


「分かったわ」


「でも、怖いです」


「それも分かったわ」


「ノートに書いていいですか」


「書きなさい」


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 ペンを持つ手は、少しだけ震えていた。


 でも、書いた。


『帰れない人を演じる。でも私は、帰ってくる。』


 書き終えた瞬間、胸の中で何かが決まった気がした。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開けると、彼女はいつものように立っていた。


 けれど今日は、少しだけ表情が違った。


 疲れもある。

 不安もある。

 でも、その中に静かな覚悟があった。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その声は、昨日よりも少し強かった。


 部屋へ入ると、ローテーブルにはいつものものがあった。


 青灰色のコースター。

 マグカップ。

 蜂蜜。

 今日はスプーンは右側ではなく、少し離れた場所。


 そして、青灰色のノートを置くための空白。


「空いてる」


「はい」


「今日は置くことがある」


「はい」


 悠真はミルクティーを作った。


 蜂蜜は少しだけ。

 昨日と同じく、甘さで包むより、言葉を置く日のように思えた。


 しらいさんはカップを受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音を聞いてから、彼女は青灰色のノートを取り出した。


「読んで」


「はい」


 ノートを開き、こちらへ向ける。


 そこには一文だけ。


『帰れない人を演じる。でも私は、帰ってくる。』


 悠真は、しばらくその文字を見つめた。


 短い。


 けれど、今の彼女に必要なものが全部入っている。


「読みました」


「うん」


「すごくいい一文です」


「本当?」


「はい」


「綺麗すぎない?」


「怖さを知った上で書いているので、綺麗なだけではないと思います」


 しらいさんは少しだけ息を吐いた。


「春日くん、今日もちゃんと読んでくれる」


「読みたいページなので」


「読ませたいページ」


「はい」


「読ませたくないページもある」


「もちろんです」


「でも、これは読ませたかった」


 彼女はノートを閉じずに、指先で文字の横を軽くなぞった。


「受けたいって、理沙さんに言った」


「はい」


「まだ正式決定ではないけど、前向きに進める」


「はい」


「怖い」


「はい」


「でも、やってみたい」


「はい」


「帰れない人を演じるために、私は帰ってくる」


 その言葉を、今度は声で言った。


 ノートの文字よりも少し震えていた。


 でも、確かに彼女自身の声だった。


「しらいさん」


「うん」


「その答えなら、俺は応援できます」


 彼女は顔を上げた。


「本当?」


「はい」


「心配じゃない?」


「心配です」


「かなり?」


「かなり」


「でも?」


「帰ってくると言ってくれたので」


 しらいさんは、少しだけ目元を赤くした。


「春日くん」


「はい」


「それ、今日かなり効く」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取り。


 それだけで、重くなりすぎていた空気が少しほどけた。


    ◇


 しらいさんはミルクティーを飲みながら、今日の理沙さんとの話をできる範囲で伝えた。


 役に入る時間と戻る時間を分けること。

 ノートを使いすぎないこと。

 部屋に全部を持ち込まないこと。

 でも本当に危ないときは来ること。

 一人で沈まないこと。


 悠真は、一つずつ頷いた。


「理沙さんは本当に的確ですね」


「うん」


「そして厳しいですね」


「うん」


「でも、ありがたいです」


「うん」


 しらいさんは少し笑った。


「春日くんにも条件ある?」


「俺ですか」


「うん。役を受けるなら、春日くん側の条件」


 悠真は少し考えた。


 条件というほどのものを、自分が出していいのか。

 でも、しらいさんは本気で聞いている。


「では」


「うん」


「無理に明るく帰ってこようとしないでください」


 しらいさんは少し目を開いた。


「明るく?」


「はい。役が重い日もあると思います」


「うん」


「その日に、心配させないように明るくただいまを言わなくていいです」


「……」


「弱くても、疲れていても、言葉が少なくても、帰ってきたら帰ってきたでいいです」


 しらいさんは、マグカップを持つ手を止めた。


「それ」


「はい」


「かなり条件」


「重いですか」


「ううん」


 彼女は首を横に振った。


「優しい条件」


「そうですか」


「うん」


「それならよかったです」


「出た」


「出ます」


 しらいさんは少し笑い、それから小さく頷いた。


「分かった」


「はい」


「明るく帰れない日も、帰ってくる」


「はい」


「ただいまが小さい日もある」


「はい」


「その日も、おかえりって言って」


「言います」


「何度でも?」


「何度でも」


「知ってる」


 彼女の声は、少しだけ湿っていた。


    ◇


 少しして、しらいさんは青灰色のノートをもう一度開いた。


「今の、書いていい?」


「もちろんです」


「春日くんの条件」


 ペンを持ち、彼女は丁寧に書いた。


『明るく帰れない日も、帰ってきていい。』


 悠真は、その文を見て胸の奥が熱くなった。


「読んでいい?」


「もう見えてます」


「見えてた」


「はい」


「じゃあ読んでいい」


「読みました」


「どう?」


「今日、一番大事かもしれません」


「そう?」


「はい」


「じゃあ、これも持っていく」


「はい」


「役の人が帰れない日にも」


「はい」


「私は、明るくなくても帰っていい」


「はい」


 しらいさんは、ページを見つめたまま言った。


「春日くん」


「はい」


「このノート、たぶん撮影期間中にすごく大事になる」


「はい」


「でも、使いすぎない」


「はい」


「書かない日も作る」


「はい」


「読ませないページも作る」


「はい」


「読ませたい日は読む」


「はい」


「春日くん、勝手に読まない」


「読みません」


「信用してる」


「ありがとうございます」


「硬い」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女は少し笑った。


「でも、そこがいい」


「硬いところが?」


「うん。ノートを勝手に読まなさそうな硬さ」


「それは褒めていますか」


「かなり」


「なら受け取ります」


    ◇


 帰る時間は、いつもより少しだけ早かった。


 明日も朝から仕事がある。


 理沙さんからも、今日は遅くならないようにと言われているらしい。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚に戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 その音に、彼女は小さく笑った。


「今日は、行ってくる前の音」


「はい」


「新しい役に行く前」


「はい」


「でも、戻る音でもある」


「はい」


「両方」


「両方ですね」


 彼女は青灰色のノートを鞄にしまった。


 今日は持って帰る日。


「春日くん」


「はい」


「私、帰れない人を演じる」


「はい」


「でも私は、帰ってくる」


「はい」


「明るく帰れない日もある」


「はい」


「その日も、帰ってくる」


「はい」


「春日くんは?」


「おかえりって言います」


「面倒くさい顔で?」


「たぶん」


「よし」


 彼女は少し笑った。


 その笑いには、まだ不安が残っている。

 でも、不安だけではなかった。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 悠真が言うと、しらいさんは少しだけ目を丸くした。


「今、行ってらっしゃいって言った」


「はい」


「おかえりだけじゃなくて?」


「行く前なので」


 彼女は目元を赤くしながら笑った。


「それも、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、行ってくる」


「はい」


「帰ってくる」


「待っています」


「知ってる」


 ドアが閉まった。


 部屋に静けさが戻る。


    ◇


 ローテーブルには、青灰色のコースターが残っている。


 スプーンは右側ではない。

 蜂蜜も今日は少ししか減っていない。


 でも、部屋の中には確かに新しい区切りがあった。


 帰れない人を演じる。

 でも私は、帰ってくる。


 その一文が、しらいさんを次の場所へ連れていく。


 悠真は棚に戻したマグカップを見る。


 これから、彼女はまた遠くへ行く。

 前よりも難しい場所へ。

 役の中で、帰れない人になるために。


 でも、それは彼女自身が帰れなくなることではない。


 自分はここで待つ。


 ただ待つのではない。

 戻る場所を消さずに、必要なときには「行ってらっしゃい」と言い、帰ってきたら「おかえりなさい」と言う。


 それが、次の章の始まりなのだと思った。

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