第103話 新しい台本の最初のページに、帰り道を一つ挟む
正式な連絡は、思っていたより静かに届いた。
もっと大げさなものを想像していたわけではない。
それでも、何かが決まる瞬間には、もう少し分かりやすい音がするものだと思っていた。
けれど実際には、理沙さんがタブレットを見て、
「正式に進めることになったわ」
と言っただけだった。
白瀬アカリは、その一言を控室の椅子に座ったまま聞いた。
窓の外では車が走っている。
廊下ではスタッフが小さく誰かの名前を呼んでいる。
テーブルには温かいお茶がある。蜂蜜は入っていない。
普通の午後だった。
その普通の午後に、白瀬アカリは新しい役へ行くことになった。
「分かりました」
答えた声は、思ったより落ち着いていた。
理沙さんはタブレットを閉じる。
「怖い?」
「怖いです」
「よろしい」
「よろしいんですか」
「怖いと分かっているほうが安全よ」
理沙さんはそう言って、封筒を一つ差し出した。
中には、まだ仮の台本が入っている。
第一話の準備稿。
表紙にはドラマの仮題と、彼女が演じる人物の名前が書かれていた。
岸谷紗季。
帰る場所を失った女性。
その名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ沈んだ。
白瀬アカリは封筒を受け取る。
重い。
紙の重さとしては、たいしたことはない。
けれど、手に乗せた瞬間、いつもの取材資料とは違うものだと分かった。
「今日、全部読まないこと」
理沙さんが言った。
しらいさんは顔を上げる。
「読まないんですか」
「全部は読まない」
「でも、早めに把握したほうが」
「一度に全部入れようとしない」
先回りされていた。
「今日は、表紙と最初の数ページだけ。あとは明日以降に分ける」
「……はい」
「読み終えたら、必ず戻ること」
「戻る」
「ええ。台本を閉じて、自分の名前を思い出す」
理沙さんは、いつもの事務的な声で続けた。
「白瀬アカリでも、しらいさんでもいい。岸谷紗季ではない場所へ戻る」
「はい」
「春日さんの部屋へ行くかどうかは、体調と時間次第。でも、台本を読んだあとに一人で沈みっぱなしにはならないこと」
「はい」
「青灰色のノートは?」
「持っています」
「書きすぎないこと」
「はい」
「書くなら一文まで」
「一文まで」
「今日は始まりの日だから。始まりの日に、全部を書こうとしない」
しらいさんは、封筒を抱えたまま小さく頷いた。
始まりの日。
そう言われると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
終わりまで見なくていい。
全部を背負わなくていい。
今日は、始まりだけ。
◇
春日悠真がその連絡を受け取ったのは、昼休みが終わる少し前だった。
休憩スペースで弁当の包みを片づけていると、スマホが震えた。
『正式に決まった』
しらいさんからだった。
悠真は画面を見たまま、数秒だけ動けなかった。
決まった。
帰れない人を演じる役。
怖いと言いながら、やってみたいと言った役。
『おめでとうございます』
まず、そう送った。
少し迷ってから、続ける。
『行ってらっしゃい』
既読。
しばらく返事は来なかった。
昼休み終了のチャイム代わりに、社内の空気が少し動く。
三崎がペットボトルを片手に戻ってきた。
「春日、何かあった顔」
「顔を見るな」
「今日は“嬉しいけど心配してるファン”の上位版」
「上位版って何だ」
「嬉しいけどかなり心配してるファン」
「雑だな」
「でも当たってるだろ」
悠真はスマホを伏せた。
「少し」
「白瀬アカリ関連?」
「まあ」
三崎はそれ以上は深く聞かず、椅子に座った。
「次の仕事、何か決まったらいいな」
何も知らない顔で、そう言う。
悠真は少しだけ笑った。
「そうだな」
「重めの役、来てほしい」
「まだ言うのか」
「言う。白瀬アカリは、たぶん逃げ場のない人を演じたら強い」
悠真は、内心で苦笑するしかなかった。
外側の番人は、今日も何も知らずに近い。
「でも」
三崎は続ける。
「本人にはちゃんと逃げ場あってほしいけどな」
その言葉に、悠真は顔を上げた。
「役として逃げ場がない人を見たい。でも、本人は逃げ場を持っててほしい。ファンはわがままだな」
三崎は自分でそう言って、少し笑った。
悠真は、その言葉を胸の中にしまった。
持って帰る言葉が、また一つ増えた。
◇
その日の夜、しらいさんは部屋には来られなかった。
理沙さんの判断だった。
正式決定の日に無理に移動を増やすより、自宅で台本を少しだけ読み、早めに休む。
それが今日の条件らしい。
悠真としても、それがいいと思った。
けれど、何もしないわけではない。
ローテーブルの上に、いつものマグカップを置いた。
青灰色のコースター。
蜂蜜の瓶。
スプーンは今日は右側ではなく、カップから少し離したところ。
そして、マグカップの隣に小さな余白を作る。
青灰色のノートがそこにあるつもりで。
写真を撮る。
『正式決定の日用です』
『今日もあります』
送信。
しばらくして既読がついた。
写真が返ってくる。
白いテーブル。
閉じた台本の封筒。
青灰色のノート。
温かい飲み物。
スプーンは右側ではなく、少し離れた場所。
『今日はスプーン右なし』
続けて、
『でも、ある』
悠真は静かに返信した。
『はい』
『合図なしでも、あります』
既読。
『これから読む』
『最初の数ページだけ』
『理沙さんとの約束』
『いい約束ですね』
既読。
『怖い』
短い一文。
悠真は、少し考えてから送った。
『怖いままで大丈夫です』
『読み終えたら、戻ってきてください』
既読。
少し間。
『どうやって?』
悠真はローテーブルのマグカップを見た。
『台本を閉じる』
『一口飲む』
『青灰色のノートを見る』
『それで足りなければ、メッセージをください』
既読。
『ことんは?』
『必要なら鳴らします』
少し間が空いた。
『今日は、まだ大丈夫かも』
『分かりました』
『行ってきます』
その言葉に、悠真は小さく息を吸った。
『行ってらっしゃい』
◇
しらいさんは、自宅のテーブルで台本の封筒を開けた。
紙の匂いがした。
新しい役の匂い。
表紙には、仮題。
第一話。
そして、出演者名の欄に白瀬アカリの名前。
その下に、役名。
岸谷紗季。
まだ出会ったばかりなのに、その名前はもうこちらを見ている気がした。
しらいさんは、理沙さんの言葉を思い出す。
全部読まない。
最初の数ページだけ。
始まりの日に、全部を書こうとしない。
深呼吸して、ページを開く。
最初の場面は、朝だった。
岸谷紗季は、誰もいない部屋で目を覚ます。
小さな部屋。
片づいている。
生活はちゃんとしている。
けれど、台詞の前に書かれたト書きに、しらいさんの指が止まった。
『部屋は整っているのに、帰ってきた感じがしない。』
そこだけで、胸が少し痛んだ。
分かる。
分かってしまう。
整った部屋。
誰にも怒られない生活。
きちんとした朝。
でも、心が帰っていない。
河川敷にいたころの自分が、少しだけ目を開けた気がした。
しらいさんは、思わずページを閉じかけた。
でも、閉じなかった。
今はまだ、最初の数ページだけ。
ゆっくり読む。
紗季は朝食を作らない。
コンビニで買ったパンを少しかじる。
スマホに来たメッセージを見て、返事をする。
明るい絵文字をつける。
けれど、ト書きにはこうある。
『送信したあと、少しだけ表情が消える。』
しらいさんは、息を止めた。
これも、分かる。
外へ明るい言葉を送ったあと、自分だけの場所で表情が消える感じ。
昔の白瀬アカリのインタビュー。
完璧な答えを出したあと、どこにも戻れなかったころ。
胸が苦しくなる。
でも、同時に思った。
今の自分は、この感じを知っている。
そして、そこから少しだけ戻ってこられるようになった。
だから、ただ飲まれるだけではない。
しらいさんは、決めていたページ数まで読んだところで、台本を閉じた。
まだ先は読まない。
閉じる。
温かい飲み物を一口飲む。
青灰色のノートを見る。
それから、自分の名前を心の中で言う。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
まだ、自分に戻れる。
◇
メッセージが届いたのは、悠真がマグカップを棚へ戻そうとしていたときだった。
『読んだ』
悠真はすぐにスマホを取る。
『戻ってこられましたか』
既読。
少し間。
『たぶん』
『でも、少し胸が痛い』
『どこが?』
送ってから、内容に触れすぎたかと思った。
しかし、しらいさんは話せる範囲で返してきた。
『整った部屋なのに、帰ってきた感じがしない人だった』
悠真は、その一文を読んで少しだけ胸が詰まった。
『それは、痛いですね』
既読。
『うん』
『でも、分かると思った』
『分かるのが怖い』
『はい』
『でも、分かるからできるかもしれないとも思った』
悠真は、静かに頷いた。
『三崎が今日、言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『役として逃げ場がない人を見たい』
『でも、本人にはちゃんと逃げ場があってほしい、と』
既読。
長い沈黙。
やがて、
『三崎さん』
いつもの一文。
そして、
『それ、今日すごくほしかった』
と続いた。
『本人には逃げ場があってほしい』
『うん』
『外側からも、そう思ってくれる人がいるんだ』
悠真は返信した。
『います』
『少なくとも三崎は』
『俺もです』
既読。
『春日くんは外側じゃない』
『はい』
『近すぎる人』
『面倒くさい顔の人』
『はい』
『でも、今日必要』
悠真は少し笑った。
『では、面倒くさい顔で待っています』
既読。
『見えないけど、見えた』
◇
しばらくして、しらいさんから青灰色のノートの写真が届いた。
ページには一文だけ写っている。
『逃げ場のない人を演じる。でも、私には逃げ場がある。だから戻ってこられる。』
悠真は、その文字をしばらく見た。
逃げ場。
帰る場所とは少し違う言葉。
けれど、今日の彼女には必要だったのだろう。
返信する。
『読みました』
『とても大事な一文です』
既読。
『綺麗すぎる?』
悠真は少し考える。
『少し綺麗です』
送る。
既読。
『やっぱり』
『でも、今は最初の日なので、それでもいいと思います』
『これから、怖いものは怖い、も隣に書けばいいです』
既読。
少し間。
『書いた』
写真がもう一枚届く。
さっきの一文の下に、短く追加されていた。
『でも、逃げ場を持ったまま演じるのは、まだ怖い。』
悠真は小さく息を吐いた。
『そちらも大事です』
既読。
『うん』
◇
通話は五分だけと決めた。
理沙さんとの約束もある。
始まりの日に、長く話しすぎない。
電話がつながると、しらいさんの声は思ったより落ち着いていた。
「もしもし」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「読めましたか」
「読めた」
「戻れましたか」
「うん。たぶん」
「たぶんでも十分です」
「今日は最初だから?」
「はい」
「理沙さんみたい」
「今日はそうかもしれません」
「彼氏側は?」
「心配しています」
「うん」
「かなり」
「うん」
しらいさんは小さく笑った。
「それも、ちょっと安心する」
「そうですか」
「うん。春日くんが平気そうじゃないほうが、今日は安心する」
「では、平気ではありません」
「知ってる」
いつもの言葉が出た。
それだけで、悠真の中の緊張も少しほどけた。
「台本、痛かった」
「はい」
「でも、嫌じゃなかった」
「はい」
「この人のこと、見たいと思った」
「はい」
「帰れない人なのに」
「はい」
「たぶん、帰りたい人だから」
悠真は静かに聞いていた。
「紗季さんは、帰りたい人なんですね」
「うん。まだ最初しか読んでないけど、そう思った」
「はい」
「帰れない人って、帰りたくない人じゃない」
「……はい」
「帰りたいのに、帰れない人」
その言葉は、今までより少し役に近かった。
でも、飲まれている声ではなかった。
しらいさんが、役の輪郭を遠くから見つめている声だった。
「しらいさん」
「うん」
「その距離でいいと思います」
「距離?」
「近づきすぎず、でも見失わない距離」
「それ、難しい」
「難しいですね」
「でも、今日はそれくらいがいいのかも」
「はい」
しらいさんは、少しだけ息を吐いた。
「春日くん」
「はい」
「今日はことんの音、聞かなくていい」
「そうですか」
「うん」
「戻れたから?」
「うん。台本閉じて、飲み物飲んで、ノート見て、春日くんにメッセージして」
「はい」
「それで戻れた」
「すごいです」
「本当?」
「本当に」
「じゃあ今日は、音なし」
「はい」
「でも、明日ほしくなるかも」
「そのときは言ってください」
「うん」
「必要な日に」
「必要な日に」
二人で同じ言葉を繰り返した。
短い通話の最後に、しらいさんは言った。
「春日くん」
「はい」
「正式に行ってくる」
「はい」
「帰れない人のところへ」
「行ってらっしゃい」
「うん」
「帰ってきてください」
「帰る」
「おかえりって言います」
「知ってる」
電話が切れた。
◇
悠真はスマホを置き、ローテーブルのマグカップを見た。
今日はことんの音を鳴らさなかった。
それでも彼女は戻ってきた。
台本を閉じて、温かい飲み物を飲み、ノートに一文を書き、短いメッセージを送る。
それもまた、戻る練習だった。
帰れない人を演じるために、彼女は帰り道を一つずつ確認している。
その姿は、危なっかしくもあり、以前よりずっと強くもあった。
悠真は、マグカップを棚へ戻した。
音を立てずに。
今日は、それでよかった。
彼女が自分で戻れた日だから。




