第104話 岸谷紗季はまだ遠くにいて、しらいさんはその距離を測っている
台本の二回目を開く日は、最初の日より少しだけ静かだった。
怖くなくなったわけではない。
けれど、一度ページを開いて、閉じて、戻ってこられた。
それが分かっているだけで、紙の重さは昨日よりほんの少し違っていた。
白瀬アカリは、自宅のテーブルに台本を置いた。
隣には、温かいお茶。
蜂蜜は入れていない。
スプーンも右側ではない。
今日は、合図を増やさない日。
青灰色のノートは、台本の少し奥に置いた。
近すぎず、遠すぎず。
理沙さんから言われたことを思い出す。
一度に全部入れない。
岸谷紗季に近づく前に、戻る場所を確認する。
役に入ることと、自分を沈めることを混同しない。
春日くんから言われたことも思い出す。
役の人が帰れなくても、しらいさんは帰ってきてください。
その言葉を思い出すと、少しだけ呼吸が整う。
しらいさんは台本を開いた。
今日は、昨日の続きから少しだけ読む。
岸谷紗季は職場にいる。
同僚と普通に会話をしている。
頼まれた仕事を引き受ける。
笑顔で「大丈夫です」と言う。
誰かのフォローもする。
それは一見、ただの働く女性の場面だった。
でも、ト書きにこうある。
『紗季は、誰かに必要とされることでしか、そこにいていい理由を確認できない。』
しらいさんは、指先を止めた。
分かる。
また、分かってしまった。
誰かの役に立っている間は、そこにいていい気がする。
頼られている間は、自分の場所があるように思える。
でも、それが終わった瞬間、自分がどこに立っているのか分からなくなる。
昔の自分が、少しだけそこにいた。
取材で正解を出していたころ。
現場で「大丈夫です」と笑っていたころ。
前向きなコメントで白瀬アカリを保っていたころ。
あのころ、誰かに求められる白瀬アカリではいられた。
でも、しらいさんはどこに帰ればいいのか分からなかった。
ページの上の岸谷紗季は、まだ泣いていない。
崩れてもいない。
ただ、少しずつ帰れなくなっている。
そこが怖い。
しらいさんは、決めていたところまで読んで、台本を閉じた。
閉じる。
お茶を一口飲む。
青灰色のノートを見る。
自分の名前を思い出す。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
それから、春日くんへ短く送った。
『読んだ』
すぐに既読がついた。
『戻ってこられましたか』
しらいさんは、少し考えた。
『戻ってる途中』
そう返した。
◇
春日悠真は、会社の休憩スペースでそのメッセージを読んでいた。
昼休みではない。
午後の短い休憩時間だった。
戻ってる途中。
その言い方に、胸の奥が少しだけ引っかかった。
戻ってきた、ではない。
戻れない、でもない。
途中。
たぶん今の彼女には、それが正直なのだろう。
『途中なら、そこで止まっても大丈夫です』
悠真は送った。
『急いで戻らなくても、道が分かっているなら大丈夫です』
既読。
少しして、
『春日くん』
『はい』
『仕事中にそれはだめ』
悠真は少し笑った。
『すみません』
『謝るところではある』
『でも、ありがとう』
いつもの返事が来る。
それだけで、少し安心した。
完全に戻っていなくても、いつもの言葉は出る。
そこには、ちゃんとしらいさんがいる。
向かいの席では、三崎が自販機で買ったカフェラテを開けていた。
「春日」
「何だ」
「また白瀬アカリ関連?」
「何でそうなる」
「顔」
「顔を見るな」
「今日のは、待ってる顔」
悠真はスマホを伏せた。
「分類が曖昧になってきたな」
「いや、分かる。誰かが戻ってくるのを待ってる顔」
心臓に悪い。
本当にこの男は、知らないまま近いことを言う。
「……お前、白瀬アカリの次の仕事の話、何か見たか?」
話題をずらすように聞くと、三崎は首を振った。
「まだ公式には何もないな。でも、業界記事で“次のドラマ候補に注目”みたいなのは出てた」
「そうか」
「もし重めの役が来るなら、ファンとしては見たい。でも、本人は大変だろうな」
三崎はカフェラテを飲んだ。
「帰れない役ってさ、演じる側も帰り道を持ってないと危ない気がする」
悠真は、思わず黙った。
「……どうしてそう思う」
「いや、何となく。帰れない人の演技って、暗くすればいいわけじゃないだろ」
「うん」
「戻りたい場所があるとか、戻りたい気持ちがあるとか、そういうのを知ってるからできる痛さもあるんじゃないかって」
「……」
「でも、それを演じたあと、本人がちゃんと戻れないとしんどそうじゃん」
外側の番人は、今日も外側から正しい場所を見ていた。
悠真は小さく息を吐く。
「三崎」
「何」
「今日もかなり外側の番人だ」
「もうツッコまないぞ」
「諦めたか」
「諦めた。外側の番人、カフェラテ代くらいはほしい」
「出ない」
「やっぱりブラックだな」
くだらないやり取りに少し救われた。
悠真は、三崎の言葉を心の中にしまった。
帰れない役を演じる側にも、帰り道が必要。
しらいさんに、たぶん必要な言葉だった。
◇
夕方、しらいさんは理沙さんと本読み前の準備確認をしていた。
正式な本読みは数日後。
今日はその前の、事務所内での確認だ。
会議室のテーブルには台本がある。
青灰色のノートもある。
理沙さんは、しらいさんの顔を見てすぐに言った。
「今日は少し近いわね」
「岸谷紗季に、ですか」
「ええ」
「……はい」
「どこを読んだ?」
しらいさんは、話せる範囲で説明した。
職場の場面。
頼まれることで居場所を確認していること。
「大丈夫です」と笑う場面。
理沙さんは黙って聞いていた。
「刺さった?」
「刺さりました」
「でしょうね」
「分かってしまいました」
「分かること自体は悪くないわ」
「はい」
「ただし、分かることと、その人になることは違う」
「はい」
「今日のあなたは、少し“なりそう”になっている」
しらいさんは、指先を止めた。
理沙さんは容赦なく見ている。
「顔に出ていますか」
「顔より、沈黙に出ている」
「沈黙」
「返事の前の間が、あなたのものではなく紗季のものに少し寄っている」
そこまで分かるのかと思った。
けれど、理沙さんなら分かるのだろう。
白瀬アカリの言葉の間。
しらいさんの沈黙。
役の人物の沈黙。
それらを、理沙さんはきっと見分けている。
「どうすればいいですか」
「今日は、もう読まない」
「はい」
「ノートに書くなら一文だけ」
「はい」
「春日さんに連絡するなら、感想を長く送らない」
「はい」
「長く話すなら、部屋に行くこと。メッセージだけで沈まない」
「……はい」
「行けるの?」
「今日は、たぶん」
「では行きなさい」
しらいさんは少し驚いた。
「今日もですか」
「今日“は”よ」
「はい」
「紗季に近づいた日は、戻るところまでセットにしなさい」
「戻るところまでセット」
「そう。読んで終わりにしない。閉じて、戻る」
しらいさんは、青灰色のノートに目を落とした。
閉じて、戻る。
その言葉は、今日の一文にしたいと思った。
「理沙さん」
「何?」
「ノートに書いていいですか」
「一文だけなら」
しらいさんはペンを取った。
『読んで終わりにしない。閉じて、戻る。』
書き終えると、理沙さんが少しだけ頷いた。
「よろしい」
「はい」
「今日は、それを実行する日」
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関を開けた瞬間、彼女はいつもより小さく見えた。
疲れているわけではない。
いや、疲れてはいるのだろう。
けれどそれ以上に、どこかから戻る途中の人に見えた。
「来た」
声も少しだけ低い。
「おかえりなさい」
悠真が言うと、しらいさんは目元を揺らした。
「ただいま……途中」
「途中でも、おかえりなさい」
その言葉に、彼女は少しだけ笑った。
「春日くん」
「はい」
「今日は最初からずるい」
「すみません」
「謝らないで」
いつものやり取りができた。
それだけで、部屋の空気が少しだけ戻る。
ローテーブルの上には、マグカップと青灰色のコースター。
蜂蜜。
スプーンは今日は右側ではない。
青灰色のノートを置くスペース。
しらいさんは鞄からノートを取り出し、そこへ置いた。
悠真はミルクティーを作った。
今日は蜂蜜多めにした。
カップを渡すと、しらいさんは両手で包み、少しだけ目を閉じる。
「蜂蜜、多め」
「今日はそうかなと」
「合ってる」
そして、コースターへ置く。
ことん。
音がした瞬間、彼女の肩が小さく落ちた。
「戻ってきた感じがする」
「はい」
「まだ途中だけど」
「途中でいいです」
「途中でいい?」
「はい。無理に一気に戻らなくても」
しらいさんはマグカップを見たまま、小さく頷いた。
◇
しばらく、彼女は何も話さなかった。
ミルクティーを飲み、カップを置く。
ことん。
また飲む。
また置く。
ことん。
今日は、音が少し多い。
でも、悠真は止めなかった。
必要なのだと思った。
何度も確かめている。
自分は岸谷紗季ではなく、ここへ帰ってきたしらいさんなのだと。
「春日くん」
「はい」
「今日、少し近づきすぎた」
「役に?」
「うん」
「はい」
「分かる場面があった」
「はい」
「誰かに必要とされることで、そこにいていい理由を確認する人」
悠真は黙って聞いた。
「それ、昔の私に少し近かった」
「はい」
「白瀬アカリとして必要とされている間は、大丈夫だった」
「はい」
「でも、そのあと、どこに帰ればいいか分からないことがあった」
「はい」
「だから読んでいて、苦しかった」
「はい」
しらいさんは、カップを両手で包んだ。
「でも、苦しいって分かったあとに、閉じた」
「はい」
「理沙さんに、読んで終わりにしない、閉じて戻るって言われた」
「はい」
「だから来た」
「来てくれてよかったです」
「うん」
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
「今日の一文」
悠真のほうへ向ける。
『読んで終わりにしない。閉じて、戻る。』
悠真は静かに読んだ。
「いい一文ですね」
「理沙さんの言葉だけど」
「しらいさんが書いたので、しらいさんの一文です」
「春日くん」
「はい」
「そういうところ」
「すみません」
「謝らないで」
彼女は少しだけ笑った。
「これ、撮影中ずっと必要かも」
「はい」
「台本を読む。役に近づく。終わったら閉じる。戻る」
「はい」
「閉じるところを忘れたら危ない」
「そうですね」
「春日くん、忘れたら言って」
「言います」
「理沙さんも言う」
「はい」
「ノートにも書く」
「はい」
「三崎さんなら何て言うかな」
悠真は少し考えた。
「たぶん、演じる人にも帰り道が必要だと言うと思います」
しらいさんが顔を上げる。
「それ、三崎さんが言った?」
「今日、近いことを言っていました」
「何て?」
「帰れない役を演じる側にも、帰り道が必要だと」
しらいさんは、じっとこちらを見た。
「外側の番人」
「はい」
「今日もすごい」
「はい」
「何も知らないのに」
「本当に」
しらいさんはノートの端を軽く撫でた。
「書いていい?」
「もちろんです」
彼女は次の行に書いた。
『演じる人にも、帰り道が必要。』
書き終えると、少しだけ笑った。
「三崎さんの言葉、また置いた」
「はい」
「心の中でお礼」
「本人には言えませんからね」
「調子に乗るから」
「かなり」
軽い会話が戻る。
そのことに、悠真は少し安心した。
◇
ミルクティーが半分ほど減るころ、しらいさんの表情はだいぶ戻っていた。
完全に軽いわけではない。
でも、最初に来たときの「途中」の感じは薄くなっている。
「今は?」
悠真が聞く。
「何が?」
「戻ってきていますか」
しらいさんは少し考えた。
「八割」
「かなり戻りましたね」
「うん」
「残り二割は?」
「紗季さんの部屋にいる」
「迎えに行きますか」
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「今日は、そこに置いてくる」
「置いてくる?」
「うん。全部持って帰らない」
悠真は少しだけ驚いた。
しらいさんは続ける。
「紗季さんの痛みを、全部この部屋に持って帰ったら重い」
「はい」
「でも、全部置いてくると私が戻れない」
「はい」
「だから、二割くらいは向こうに置いてくる」
「……」
「また次に読むとき、そこから会いに行く」
悠真は、その言葉をゆっくり受け止めた。
役を全部持ち帰らない。
でも、完全に切り捨てもしない。
距離を置く。
それは、今のしらいさんにとって大きな成長なのかもしれない。
「すごくいいと思います」
「本当?」
「はい」
「ノートに書く?」
「書いてもいいですが、今日はもう二文書いています」
「あ」
「理沙さんとの約束は一文でした」
「破った」
「かなり」
「……今日はここで止める」
「それがいいと思います」
しらいさんは素直にノートを閉じた。
「書かない練習」
「はい」
「休む仕事みたい」
「似ていますね」
「難しい」
「でも、できました」
「うん」
◇
帰る前、しらいさんはマグカップを洗った。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音だった。
「九割戻った」
しらいさんが言った。
「あと一割は?」
「帰り道で戻る」
「大丈夫ですか」
「うん」
「必要ならメッセージをください」
「うん」
「ことんの音が必要なら」
「今日はたぶん大丈夫」
「分かりました」
玄関で靴を履く前、彼女は振り返った。
「春日くん」
「はい」
「途中でも、おかえりって言ってくれてありがとう」
「何度でも言います」
「途中でも?」
「途中でも」
「弱くても?」
「弱くても」
「明るくなくても?」
「もちろん」
しらいさんは、少しだけ目元を赤くした。
「じゃあ、帰れる」
「はい」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まった。
◇
悠真はローテーブルの前に戻った。
青灰色のノートは、今日は彼女が持って帰った。
カップも棚の中。
スプーンは右側ではなく、少し離れた場所にある。
部屋には、蜂蜜多めのミルクティーの甘い匂いが残っていた。
読んで終わりにしない。
閉じて、戻る。
演じる人にも、帰り道が必要。
しらいさんは今日、その二つを覚えた。
まだ始まったばかりだ。
岸谷紗季は、台本の中で静かに待っている。
白瀬アカリは、これからその人に会いに行く。
でも、しらいさんは帰り道を持っている。
悠真は、ローテーブルの上のコースターを少しだけ整えた。
彼女がまた戻ってくる場所を、いつもの位置に。




