第105話 役名を呼ぶ前に、君は自分の名前を確かめる
台本を読む時間は、少しずつ短く区切られるようになった。
一気に読まない。
苦しくなったら閉じる。
読み終えたら、温かいものを飲む。
青灰色のノートを見る。
必要なら一文だけ書く。
そして、自分の名前を思い出す。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
その手順は、理沙さんが決めたものでもあり、春日くんが少しずつ言葉にしてくれたものでもあり、しらいさん自身が必要だと感じたものでもあった。
最初は大げさに感じた。
台本を読むだけなのに、なぜそこまでしなければならないのか。
役に近づくのは役者の仕事なのだから、怖がっている場合ではないのではないか。
そう思う自分も、まだどこかにいた。
けれど、岸谷紗季のページを読むたびに分かってくる。
この役は、派手に胸を刺してくるのではない。
静かに、日常のふりをして近づいてくる。
朝の整った部屋。
職場での「大丈夫です」。
明るいメッセージ。
誰かに必要とされている間だけ、そこにいていい気がする感覚。
一つ一つが、しらいさんの昔の記憶に薄く触れる。
だからこそ、戻る手順が必要だった。
その日も、しらいさんは台本を閉じた。
決めていたページまで読んだ。
今日は、岸谷紗季が職場から帰る場面だった。
誰も待っていない部屋へ帰る。
鍵を開ける。
明かりをつける。
部屋は整っている。
冷蔵庫には飲み物もある。
洗濯物も畳まれている。
でも、彼女は「ただいま」と言わない。
ト書きには、こうあった。
『声に出す相手がいないのではなく、声に出した自分を受け止める場所がない。』
しらいさんは、そこでページを閉じた。
今日はここまで。
続きは読まない。
温かいお茶を飲む。
青灰色のノートを見る。
そして、心の中で言った。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、岸谷紗季を置いていくわけではない。
今日は、ここまで一緒に歩いた。
ここから先は、また今度。
しらいさんは、青灰色のノートを開いた。
一文だけ。
『紗季さんは「ただいま」を言わない。でも私は、言える場所を知っている。』
書いてから、少しだけ迷った。
綺麗すぎるかもしれない。
だから、その下にもう一文を書き足した。
『だから余計に、痛い。』
そこでペンを置いた。
一文だけの約束は、二文になった。
でも、今日はこれで止めた。
止められた。
それだけで、少しだけ前に進んだ気がした。
◇
昼休み、春日悠真は三崎といつもの席にいた。
三崎は唐揚げ弁当を食べながら、スマホを伏せている。
最近の三崎がスマホを伏せているときは、逆に何かを考えていることが多い。
「春日」
「何だ」
「白瀬アカリってさ」
「うん」
「今まで、ただいまって言える役、やったことあるのかな」
悠真は箸を止めた。
今日も、近い。
近すぎる。
「急にどうした」
「いや、昔の出演作を少し見返してたんだけど」
「少し?」
「まあ、結構」
「沼だな」
「沼だ」
三崎はそこは認めた。
「で、思ったんだよ。白瀬アカリって、居場所があるように見えてない役が多い」
「そうなのか」
「全部見たわけじゃないけどな。透明感とか、孤独とか、何かを抱えてるとか、そういう役が多い気がする」
「……」
「でも最近は、帰る場所を知った人の顔ができるようになった」
悠真は、黙って聞いた。
「だから今、もし“ただいまって言えない人”をやったら、昔とは違うんじゃないかって」
「どう違う?」
三崎は少し考えた。
「昔なら、ただ孤独な人になったかもしれない」
「うん」
「でも今なら、ただいまって言いたいのに言えない人になる気がする」
悠真は、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。
岸谷紗季。
声に出す相手がいないのではなく、声に出した自分を受け止める場所がない人。
しらいさんが今朝ノートに書いたことと、三崎の言葉がどこかで重なる。
「三崎」
「何」
「今日も外側の番人だな」
「もうそれ、俺の役職みたいになってるな」
「無給だけど」
「ブラックだな、やっぱり」
三崎は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、白瀬アカリには無理してほしくないな」
「急に?」
「いや、重い役って、見てる側は簡単に“見たい”って言えるけど、やる側は大変だろ」
「……そうだな」
「ファンは勝手だからな。いいもの見たいって思う。でも、本人が削れてまで見たいわけじゃない」
悠真はその言葉を、心の中へそっとしまった。
また、持って帰る言葉が増えた。
「それもいい感想だな」
「今日は感想じゃなくて祈り」
「祈り」
「そう。外側の番人の祈り」
「自分で言うな」
「もう諦めたから使う」
三崎はそう言って唐揚げを口に入れた。
◇
午後、しらいさんからメッセージが届いた。
『今日、少し読んだ』
悠真はデスクで画面を開く。
『戻ってこられましたか』
既読。
『戻ってきた』
『でも、少し痛い』
『ノートに書いた』
悠真は少しだけ迷い、聞いた。
『読んでいいものですか』
既読。
『うん』
写真が届いた。
青灰色のノート。
開かれたページ。
そこに二文。
『紗季さんは「ただいま」を言わない。でも私は、言える場所を知っている。
だから余計に、痛い。』
悠真は、しばらくその文字を見つめた。
綺麗な一文と、痛みを残す一文。
その二つが並んでいることで、言葉がちゃんと立っていた。
『読みました』
『二文とも大事です』
既読。
『一文の約束、破った』
『でも、止められました』
『二文で止められたなら、今日はそれでいいと思います』
既読。
『春日くん、甘い』
『彼氏側なので』
『便利に使ってる』
『はい』
少しだけ軽さが戻る。
悠真は、三崎の言葉も送ることにした。
『三崎が今日、言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『白瀬アカリが今「ただいまって言えない人」をやったら』
『ただ孤独な人ではなく、ただいまって言いたいのに言えない人になりそうだと』
既読。
長い沈黙。
仕事の通知が画面上部に出る。
悠真はそれを確認しながらも、意識はしらいさんの返信に向いていた。
数分後。
『三崎さん』
いつもの一文。
続けて、
『それ、紗季さんに近い』
と届いた。
『はい』
『俺もそう思いました』
既読。
『外側から、それが見えるんだ』
『はい』
『怖いけど、少し安心した』
『それと、もう一つ』
悠真は続けた。
『重い役を見たいと思うけれど、本人が削れてまで見たいわけではないとも言っていました』
既読。
今度の沈黙は、少し短かった。
『外側の番人、優しい』
『はい』
『心の中で唐揚げあげたい』
悠真は思わず笑った。
『本人は実際に欲しがっていました』
『やっぱり』
『でもあげませんでした』
『けち』
しらいさんの返事に、少し笑いが混じっているのが分かった。
戻ってきている。
少なくとも今、彼女は岸谷紗季だけではない。
◇
その夜、しらいさんは部屋へ来られなかった。
翌日に本読み前の衣装確認と打ち合わせがあるため、理沙さんから直帰を言い渡されたらしい。
けれど、短い通話はできた。
悠真はローテーブルの前に座り、マグカップを置いていた。
今日は蜂蜜入りのハーブティー。
スプーンは右側ではない。
少し離した場所。
合図は必要なときだけ。
電話がつながる。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「今日は来られませんでしたね」
「うん」
「残念です」
素直に言うと、電話の向こうで少し沈黙があった。
「春日くん」
「はい」
「最近、そういうのちゃんと言う」
「言ったほうがいいかと思って」
「効く」
「ならよかったです」
「出た」
いつもの言葉が戻る。
「今日、ただいまって言わない場面を読んだ」
「はい」
「台詞じゃなくて、言わないことが台詞みたいだった」
「はい」
「紗季さんは、部屋に帰ってもただいまって言わない」
「はい」
「でも、言いたくないわけじゃない気がした」
「はい」
「言っても受け止める場所がないから、言わない」
「……」
「それが痛かった」
悠真は静かに聞いた。
「しらいさんは、今は言えます」
「うん」
「俺にも、理沙さんにも、ノートにも」
「うん」
「言える場所が増えました」
「うん」
「だから、痛いんですね」
電話の向こうで、彼女が小さく息を吐いた。
「そうかも」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「今、ことんの音、聞きたいような、聞かなくてもいいような」
「どちらにしますか」
「今日は、聞かない」
「分かりました」
「ただいまって言わない人のことを考えた日だから」
「はい」
「私は、音なしでただいまって言ってみる」
悠真は、マグカップを見た。
「はい」
「聞いてくれる?」
「もちろんです」
電話の向こうで、少し間があった。
それから、小さな声。
「ただいま」
音はない。
ことんもない。
スプーン右もない。
写真もない。
でも、確かに帰ってきた。
悠真は、ゆっくり返した。
「おかえりなさい」
しらいさんは、少しだけ笑ったようだった。
「音なしでも帰った」
「はい」
「また一個増えた」
「帰り道が?」
「うん」
「いいですね」
「うん」
彼女の声は、少し眠そうだった。
「春日くん」
「はい」
「本読み、少し怖い」
「はい」
「人前で紗季さんの言葉を読む」
「はい」
「その前に、自分の名前を確かめたい」
「いいと思います」
「白瀬アカリ」
「はい」
「しらいさん」
「はい」
「岸谷紗季ではない」
「はい」
「でも、紗季さんに会いに行く」
「はい」
「これ、変?」
「変ではありません」
「じゃあ、明日そうする」
しらいさんは、少しだけ落ち着いた声で言った。
「役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる」
「はい」
「それもノートに書きますか」
「書く」
紙を開く音がした。
たぶん青灰色のノート。
ペン先の音が少しだけ聞こえる。
「書いた」
「読んでいいですか」
「今日は言葉で言う」
「はい」
「役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる」
悠真はその言葉を受け止めた。
「大事な一文ですね」
「うん」
「本読み前に、使いましょう」
「うん」
「怖くなったら、思い出してください」
「うん」
「行ってらっしゃいも言います」
「本読みの日に?」
「はい」
「おかえりも?」
「もちろん」
「なら、大丈夫かも」
大丈夫、と言い切らないところが、今の彼女らしかった。
でも、大丈夫かも。
そのくらいで十分だった。
◇
通話が終わったあと、悠真はしばらくマグカップを見ていた。
今日は音を鳴らさなかった。
しらいさんが、音なしで「ただいま」を言ったから。
それを、そのまま受け取りたかった。
岸谷紗季は、台本の中で「ただいま」を言わない。
でも、しらいさんは言った。
音がなくても。
部屋に来られなくても。
短い通話だけでも。
ただいま。
帰り道が、また一つ増えた。
悠真は、カップを静かに棚へ戻した。
音を立てずに。
今日の部屋には、音なしのただいまが残っていた。




