第106話 岸谷紗季の第一声を読む前に、君は小さく自分へ帰る
控室の鏡は、いつもより少し冷たく見えた。
白瀬アカリは、椅子に座ったまま膝の上に台本を置いていた。
まだ開いていない。
表紙だけが見えている。
仮題。
第一話。
準備稿。
そして、出演者欄に並ぶ名前。
白瀬アカリ。
岸谷紗季役。
その二つが同じ紙の上にあるだけで、胸の奥が少しざわつく。
今日は本読みの日だった。
撮影前に、監督、脚本家、主要キャストが集まり、台本を声に出して読む。
まだ衣装もセットもない。カメラも回っていない。
けれど、役の声が初めて人前に出る日。
白瀬アカリとして現場へ来て、岸谷紗季として最初の一言を読む。
それが、少し怖かった。
しらいさんは、台本の端を指で押さえた。
昨日、青灰色のノートに書いた言葉を思い出す。
役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる。
今日はそれを使う日だ。
鏡の中の自分を見る。
白瀬アカリ。
大丈夫。
今日は白瀬アカリとして来ている。
その奥に、しらいさんがいる。
岸谷紗季ではない。
でも、これから岸谷紗季に会いに行く。
深く息を吸って、吐く。
控室のドアが軽くノックされた。
「アカリ、入るわよ」
「はい」
理沙さんが入ってきた。
手にはタブレット。
いつものように無駄のない動きで、しらいさんの顔を見る。
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割一分」
「少し低いですね」
「今日は声を使うから、慎重に見ているだけよ」
「はい」
「睡眠は?」
「いつもよりは眠れました」
「ならよし」
理沙さんはテーブルの上に水を置いた。
「始まる前に、もう一度確認するわ」
「はい」
「今日は、全部を掴みに行かない」
「はい」
「第一声を出すこと。共演者の声を聞くこと。監督の方向性を知ること。目的はその三つ」
「はい」
「岸谷紗季になりきる日ではない」
「はい」
「近づきすぎたら?」
「閉じて、戻ります」
「戻る手順は?」
しらいさんは少しだけ背筋を伸ばした。
「台本を閉じる。飲み物を飲む。自分の名前を思い出す。必要ならノートに一文だけ書く。もっと必要なら、春日くんに連絡する」
「よろしい」
「はい」
「それと」
理沙さんは、少しだけ声を柔らかくした。
「役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめるんでしょう」
しらいさんは、目を上げた。
「覚えていたんですか」
「あなたが昨日、やたら真剣な顔で言っていたから」
「そんな顔でしたか」
「ええ。少し面倒くさい顔だったわ」
「それ、春日くんみたいです」
「移ったのかしらね」
理沙さんがわずかに口元を緩めた。
その小さな笑いで、しらいさんの肩から少しだけ力が抜ける。
「その儀式は悪くないわ」
「儀式」
「ええ。大げさに聞こえるけれど、役に入る前の安全確認としては十分に意味がある」
「はい」
「ただし、儀式に頼りすぎないこと」
「はい」
「できなかった日があっても、崩れない。思い出せたら使う。使えないときは、あとから戻る」
「合図にも休みが必要」
「そう」
理沙さんは頷いた。
「分かっているならいいわ」
◇
春日悠真がメッセージを受け取ったのは、始業して少し経ったころだった。
『今日、本読み』
短い文。
悠真はデスクの上でスマホを見つめた。
もちろん覚えていた。
けれど、本人から文字で来ると、少しだけ空気が変わる。
『行ってらっしゃい』
送る。
すぐ既読がつく。
『役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる』
『はい』
『白瀬アカリ』
『しらいさん』
『岸谷紗季ではない』
『でも、会いに行く』
悠真は、その文を何度も読んだ。
『いい距離だと思います』
『帰ってきたら、おかえりって言います』
既読。
少し間。
『今それは効く』
『本読み前に泣くと困るので、泣かないでください』
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
『強い』
その返事を見て、少しだけ安心する。
いつもの言葉がある。
なら、彼女はまだちゃんと戻れる位置にいる。
「春日」
隣から三崎が声をかけてきた。
「何だ」
「今、完全に応援してる顔だった」
「仕事しろ」
「してる。今ちょうどファイル開いたところ」
「開いただけだろ」
「これからする」
三崎はそう言いながら、ちらっと悠真のスマホを見た。
もちろん画面は伏せている。
「白瀬アカリ?」
「何でそうなる」
「お前の顔の九割は最近それ」
「そんなことはない」
「ある」
三崎はカフェラテを飲み、少しだけ真面目な顔になった。
「次の仕事が何かは分からないけどさ」
「ああ」
「もし重い役なら、本読みとか緊張するだろうな」
悠真は、少しだけ指を止めた。
「……本読みって分かるのか」
「ドラマの制作記事とか読んでたら出てくるだろ」
「沼が深いな」
「深い。俺もびっくりしてる」
三崎は苦笑する。
「でも、最初に声に出す日って大事そうだよな。役が紙から外に出る感じがする」
悠真は、スマホを伏せたまま黙った。
役が紙から外に出る。
本当にその通りだと思った。
今日、岸谷紗季は白瀬アカリの声で初めて外に出る。
「白瀬アカリなら、ちゃんと距離取りながらやりそうだけどな」
三崎は何気なく言った。
悠真は顔を上げる。
「距離?」
「うん。最近のインタビュー見てると、近づきすぎない強さも出てきた気がする」
「……」
「前は、ちゃんとしようとして近づきすぎそうな危うさもあったけど、今は戻る場所を確かめながら進んでる感じがする」
外側の番人は、今日も唐突に核心を踏んでいく。
「三崎」
「何」
「今日もかなりいい」
「もう褒められ慣れてきた」
「慣れるな」
「慣れた。でも慣れないで」
「それは俺の台詞じゃない」
三崎は楽しそうに笑った。
悠真は、その言葉もまた持ち帰ることにした。
近づきすぎない強さ。
今日のしらいさんに、きっと必要な言葉だ。
◇
本読みの部屋は、思っていたより明るかった。
大きな会議室に、長い机が並べられている。
席には名札と台本。
監督、脚本家、プロデューサー、主要キャスト。
初めて顔を合わせる人もいる。
何度か別現場で挨拶したことがある人もいる。
白瀬アカリは、いつもの仕事の顔で挨拶をした。
「白瀬アカリです。本日はよろしくお願いいたします」
声は出た。
ちゃんと白瀬アカリの声だった。
隣に座った俳優が柔らかく挨拶を返す。
向かい側の女優が会釈する。
監督が全体へ向かって、今日の流れを説明し始める。
しらいさんは台本を開いた。
心臓が少し速い。
でも、手は震えていない。
名札を見る。
白瀬アカリ。
台本を見る。
岸谷紗季。
その間に、自分の中で小さく言う。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、会いに行く。
監督が言った。
「では、冒頭からお願いします」
ページがめくられる音が、部屋に広がる。
最初の場面は主人公から始まった。
別の俳優が台詞を読む。
まだ芝居は軽い。
本読みなので、全員が探りながら声を出している。
それでも、紙の中にあった物語が少しずつ空気を持ち始める。
しらいさんは、自分の出番を待った。
岸谷紗季の最初の台詞は、とても短かった。
「大丈夫です、私がやっておきます」
ただ、それだけ。
職場で誰かの仕事を引き受ける台詞。
普通なら、何でもない一言だ。
でも、しらいさんには分かっていた。
この「大丈夫です」は、本当の大丈夫ではない。
自分がそこにいる理由を、仕事で作っている人の声だ。
監督が少し頷く。
順番が来る。
白瀬アカリは、息を吸った。
役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、会いに行く。
そして、声を出した。
「大丈夫です。私がやっておきます」
部屋の中に、岸谷紗季の第一声が落ちた。
大きな芝居ではない。
感情を足しすぎない。
ただ、普通に言う。
普通に言うから、少し痛い。
白瀬アカリは、台本から目を離さなかった。
読み進める。
会話が続く。
周りの人が笑う。
紗季も少し笑う。
そして、ト書きにある。
『紗季は、笑ったあと少しだけ目を伏せる。』
本読みでは、表情までは求められていない。
でも、ほんの少しだけ目が動いた。
自分でも分かった。
近づきすぎたわけではない。
ただ、紗季の影が一瞬そこに来た。
読み終えたところで、監督が声をかけた。
「白瀬さん、今の一言、すごくいいです」
心臓が跳ねた。
「ありがとうございます」
白瀬アカリとして答える。
監督は続けた。
「紗季は、頑張っている人なんです。でも、頑張っていることを自分で認められない。今の“普通に引き受ける感じ”、かなり近いと思います」
近い。
その言葉に、少し怖さが来た。
けれど、理沙さんの視線が部屋の端から届いた。
大丈夫。
今は本読み。
近づきすぎない。
しらいさんは、心の中で一度だけ言った。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、会いに行く。
◇
本読みは、二時間ほど続いた。
台本のすべてを読むわけではない。
主要な場面を確認し、監督が意図を説明し、脚本家が細かいニュアンスを補足する。
岸谷紗季の場面は、まだ多くない。
けれど、一つ一つが静かに重かった。
誰かに仕事を譲られて「大丈夫です」と言う場面。
友人からの誘いに「また今度」と返す場面。
帰宅して、玄関で少し立ち止まる場面。
台詞より、間が多い。
沈黙に温度がある。
三崎が言っていた言葉が、ふと浮かんだ。
しらいさんは、少しだけ怖くなる。
これは、自分がやらなければならない沈黙だ。
白瀬アカリとして。
でも、岸谷紗季に飲まれすぎずに。
休憩に入ったとき、理沙さんが近くに来た。
「どう?」
「怖いです」
「よろしい」
「今日それ二回目です」
「怖さを見失うよりいい」
「はい」
「第一声は悪くなかったわ」
「近すぎませんでしたか」
「少し近い。でも戻れている」
「戻れてますか」
「ええ。今のあなたは、まだ白瀬アカリ」
その言葉で、少し息がしやすくなる。
「本読みが終わったら、長居しないこと」
「はい」
「挨拶は丁寧に。でも感想を現場で抱え込みすぎない」
「はい」
「帰ったら?」
「台本を閉じる。飲み物を飲む。自分の名前を思い出す。必要ならノートに一文だけ」
「よろしい」
「春日くんには?」
「必要なら。今日は電話くらいがいいわね。部屋へ行くには遅くなる」
「はい」
「声が欲しいなら、短く」
理沙さんは、少しだけ表情を緩めた。
「ことんの音が必要なら、頼みなさい」
しらいさんは、思わず目を丸くした。
「理沙さん」
「何?」
「普通に言いましたね」
「言ってほしそうな顔をしていたから」
「……はい」
「必要なものを必要な日に使う。頼りすぎなければいい」
「はい」
◇
夜、悠真のスマホにメッセージが届いた。
『終わった』
短い。
けれど、そこには疲れと、少しだけ達成感があった。
『おつかれさまでした』
『戻ってこられましたか』
既読。
少し間。
『七割』
悠真はローテーブルの前に座っていた。
マグカップはコースターの上。
蜂蜜入りのハーブティー。
スプーンは右側ではなく、少し離した場所。
『七割なら、かなり戻っています』
送る。
既読。
『残り三割、紗季さんの第一声のところにいる』
『どんな一声でしたか』
少し迷ったが、聞いた。
答えられなければそれでいい。
既読。
『大丈夫です、私がやっておきます』
悠真は、その文を見て胸が少し痛んだ。
ただの一言なのに、しらいさんがそれをどう受け取ったのか分かる気がした。
『痛い台詞ですね』
送る。
既読。
『うん』
『普通なのに痛い』
『監督に、今の感じいいって言われた』
『嬉しかった』
『でも怖かった』
悠真はゆっくり返信する。
『嬉しくて怖いのは、近づけた証拠かもしれません』
『でも、戻るところまでが今日の仕事です』
既読。
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
少し間。
『強い』
いつもの言葉。
戻ってきている。
『三崎が今日、言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『白瀬アカリは、近づきすぎない強さも出てきた気がすると』
既読。
長い沈黙。
しらいさんは、きっと画面の向こうでその言葉を受け取っている。
『それ、今日ほしかった』
やがて届いた。
『近づきすぎない強さ』
『はい』
『今日の私は、少し近かった』
『でも戻った』
『戻っています』
既読。
『ことん、聞いていい?』
悠真は、すぐにマグカップを見た。
『もちろんです』
カップを持ち上げる。
青灰色のコースターへ、そっと置く。
ことん。
小さな音が部屋に落ちる。
通話ではない。
メッセージ越しには聞こえない。
だから、録音ではなく短い音声メッセージを送った。
ことん。
それだけの音。
しばらくして、既読がつく。
『聞いた』
少し間。
『戻った』
悠真は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『おかえりなさい』
既読。
『ただいま』
◇
短い通話がつながったのは、そのあとだった。
しらいさんの声は少し疲れていたが、崩れてはいなかった。
「もしもし」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「本読み、どうでしたか」
「怖かった」
「はい」
「でも、嫌じゃなかった」
「はい」
「紗季さんの声、少し出た」
「はい」
「出たら、怖かった」
「はい」
「でも、役が紙から出てきた感じがした」
昼間、三崎が言っていたことと同じだった。
「三崎も、似たことを言っていました」
「外側の番人」
「はい」
「役が紙から外に出る感じがする日だと」
電話の向こうで、しらいさんが少し笑った。
「三崎さん、本当に何も知らない?」
「知りません」
「すごい」
「本当に」
少し沈黙があった。
しらいさんがゆっくり言う。
「今日、第一声の前に自分の名前を確かめた」
「はい」
「白瀬アカリ。しらいさん。岸谷紗季ではない。でも、会いに行く」
「はい」
「それで読めた」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「うん」
声が少し柔らかくなる。
「これ、これから毎回やるかも」
「はい」
「でも、できない日もある」
「その日は、あとから戻ればいいと思います」
「理沙さんと同じこと言う」
「今日の俺は理沙さん側が強めです」
「彼氏側は?」
「かなり心配しています」
「うん」
「でも、応援しています」
しらいさんは、しばらく黙った。
そして、小さく言う。
「それが一番効く」
「はい」
「心配してるけど、応援してる」
「はい」
「怖いけど、行っていいって言われてる感じ」
「行っていいです」
「うん」
「帰ってきてくれるなら」
「帰る」
「はい」
「今日も帰った」
「はい」
「ただいま」
「おかえりなさい」
通話越しのそのやり取りは、いつもより少しだけ静かだった。
でも、確かに届いた。
◇
電話を切ったあと、悠真はローテーブルの前でしばらく動かなかった。
今日は、岸谷紗季の第一声が外に出た日。
白瀬アカリは、人前でその声を読んだ。
しらいさんは、役名を呼ぶ前に自分の名前を確かめた。
そして、本読みのあとに戻ってきた。
七割。
そこから、ことんの音で戻った。
それは完璧ではない。
でも、完璧でなくていい。
帰り道を使えたことが大事だった。
悠真はマグカップを棚へ戻した。
ことん。
今日二度目の音。
それは、遠くの彼女には聞こえない。
でも、この部屋には残った。
次に彼女が帰ってくる場所として。




