第107話 第一声を褒められたあと、君はその声を置く場所を探した
朝、しらいさんは自分の声で目を覚ました気がした。
夢の中で、誰かに言っていた。
大丈夫です。
私がやっておきます。
岸谷紗季の第一声。
本読みの部屋で、昨日初めて人前に出した言葉。
目を開けると、自分の部屋だった。
白い天井。
カーテンの隙間から入る朝の光。
枕元のスマホ。
テーブルの上には、閉じた台本と青灰色のノート。
岸谷紗季の部屋ではない。
白瀬アカリの朝であり、しらいさんの朝だった。
それを確認してから、彼女はベッドの中で小さく息を吐いた。
昨夜は眠れた。
深く眠れたかと聞かれれば分からない。
けれど、ずっと役の中に沈んでいたわけではない。
ことんの音を聞いた。
春日くんに「おかえりなさい」と言われた。
それから、自分の名前を思い出して眠った。
白瀬アカリ。
しらいさん。
岸谷紗季ではない。
でも、岸谷紗季に会いに行く。
その距離を、今朝ももう一度確かめる。
スマホを手に取ると、春日くんから朝の写真が届いていた。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜の瓶。
スプーンは右側ではなく、少し離れた場所。
『今日もあります』
いつもの一文。
その下に、もう一文。
『昨日の声も、置けます』
しらいさんは、その文字をしばらく見つめた。
昨日の声。
岸谷紗季の第一声。
褒められて嬉しかった。
近いと言われて怖かった。
自分の声で、自分ではない人が少しだけ出てきた。
その声を、どこへ置けばいいのか分からなかった。
台本の中へ戻すのか。
青灰色のノートへ書くのか。
春日くんの部屋へ持っていくのか。
自分の中で抱えておくのか。
でも、春日くんは「置けます」と言った。
持ち続けなくてもいい。
消さなくてもいい。
置く場所がある。
しらいさんは、ゆっくり返信した。
『見た』
『声、まだ少し残ってる』
すぐ既読。
『残っていても大丈夫です』
『今日の仕事へ全部持っていかなくていいです』
しらいさんは、画面を見ながら少し笑った。
『理沙さん側』
送る。
すぐ返る。
『彼氏側もです』
いつもの返事。
それでようやく、朝が少し始まった気がした。
◇
事務所に着くと、理沙さんはすぐにしらいさんの顔を見た。
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割二分」
「一致しました」
「昨日の使い方としては悪くないわ」
「はい」
「睡眠は?」
「眠れました」
「夢は?」
しらいさんは少しだけ目を瞬かせた。
「夢?」
「役の夢を見た?」
「……少し」
「どの程度?」
「第一声を言っていた気がします」
「声だけ?」
「はい。場面ははっきりしません」
理沙さんはタブレットに何かを入力した。
「許容範囲ね」
「許容範囲」
「役の声が少し残るのは自然。ただし、日常の判断に混ざり始めたら止める」
「はい」
「昨日、監督に褒められたことは?」
「嬉しかったです」
「怖かった?」
「はい」
「それも自然」
理沙さんは、淡々と言った。
「褒められると、そこへもっと近づきたくなる。特にあなたはそう」
「……はい」
「でも、褒められた場所に住んではいけない」
しらいさんは、胸の奥が少し鳴った。
「住んではいけない」
「ええ。昨日の第一声は、良かった。それで終わり。そこに毎日戻って、同じ感覚を再現しようとしすぎないこと」
「はい」
「次は次の本読み、次は次の撮影。昨日の声は、昨日の声」
「はい」
「青灰色のノートには?」
「まだ書いていません」
「書くなら一文」
「はい」
「ただし、褒められたことを保存しすぎない」
「保存しすぎない?」
「ええ。褒め言葉も、頼りすぎると合図と同じで縛りになる」
しらいさんは頷いた。
合図にも休みが必要。
褒め言葉にも、たぶん休みが必要。
「春日さんには?」
「朝、声を置けるって言われました」
「彼らしいわね」
「はい」
「置くのはいい。飾らないこと」
理沙さんの言葉に、しらいさんは少しだけ笑ってしまった。
「飾らない」
「昨日の第一声を、部屋の真ん中に額装して飾るようなことをしない」
「しません」
「気持ちの話よ」
「分かっています」
「ならいいわ」
理沙さんはタブレットを閉じた。
「今日は通常の取材と衣装確認。岸谷紗季を持ち込みすぎないこと」
「はい」
「白瀬アカリとして行く」
「はい」
「しらいさんとして帰る」
その言葉に、少しだけ背中を押された気がした。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は今日、いつもより少し機嫌がよさそうだった。
「春日」
「何だ」
「まだ公式発表は出てないけど、白瀬アカリの次のドラマ、近々動きある気がする」
「どうしてそう思う」
「各媒体の感じ」
「完全に業界ウォッチャーだな」
「外側の番人だからな」
「自分で言うと急に軽いな」
三崎は笑ってから、唐揚げを箸でつまんだ。
「でもさ、もし白瀬アカリが重めの役をやるなら、最初の声が大事だと思うんだよ」
悠真は、内心で少しだけ固まった。
「最初の声?」
「うん。第一声で、その人がどういう痛さを持ってるか分かる役ってあるじゃん」
「……あるかもな」
「白瀬アカリは、たぶん大きく泣くより、普通の一言が痛いタイプだろ」
昨日、監督に褒められた一言。
大丈夫です。
私がやっておきます。
普通なのに痛い。
しらいさんがそう言っていた。
「三崎」
「何」
「お前、今日も近いな」
「何に?」
「いろいろ」
「雑だな」
「雑でいい」
三崎は少し不満そうにしたが、すぐに真面目な顔に戻った。
「でも、普通の一言が痛いって、役者としてかなり強いと思うんだよな」
「うん」
「ただ、それって本人もしんどいんじゃないかって思う」
「どうして」
「普通の言葉に痛みを乗せるには、たぶんその痛みをどこかで知ってないといけないだろ」
悠真は黙った。
三崎は続ける。
「でも、その痛みをずっと持ってたら、しんどい。だから、演じ終わったあとに置ける場所が必要だと思う」
外側の番人は、今日も何も知らないまま、青灰色のノートの近くまで歩いてきた。
「置ける場所」
悠真が繰り返すと、三崎は頷いた。
「うん。役を外せる場所っていうか。まあ、俺は演技のこと全然分からないけど」
「いや」
悠真は少しだけ笑った。
「かなり分かってると思う」
「また褒めた」
「今日は特に」
「唐揚げ一個?」
「やらない」
「けち」
いつものやり取り。
その軽さの中に、大事な言葉が混じっている。
普通の一言が痛い。
その痛みを置ける場所が必要。
持って帰る。
今日もまた。
◇
午後、しらいさんから写真が届いた。
青灰色のノート。
開かれてはいない。
その上にペンが一本置かれている。
『まだ書いてない』
悠真は返信する。
『書かない日でもいいと思います』
既読。
『でも、置きたい気もする』
『置きすぎると飾ることになるって理沙さんに言われた』
悠真は少し笑った。
『理沙さんらしいですね』
既読。
『昨日の第一声を、額装して飾らないことって』
『それはかなり理沙さんですね』
『うん』
『でも分かる』
『褒められた場所に住まない』
悠真は、その言葉を読んで静かに頷いた。
『大事ですね』
『三崎も似たことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『普通の一言が痛いのは強いけれど、その痛みを演じ終わったあとに置ける場所が必要だと』
既読。
長い沈黙。
しらいさんがその言葉を受け止めているのが分かる。
数分後、返信が来た。
『三崎さん、もうノートの存在知ってる?』
『知りません』
『怖いくらい近い』
『はい』
『でも、ありがたい』
『はい』
『今日はそれを一文にする』
写真がもう一枚届いた。
ノートのページに、短く書かれている。
『痛い声を出した日は、その痛みを置く場所が必要。』
悠真はしばらくその文字を見た。
『読みました』
『いい一文です』
既読。
『今日はこれで止める』
『はい』
『褒められたことは飾らない』
『でも、なかったことにもならない』
悠真は返信した。
『置けましたね』
既読。
『うん』
◇
夜、しらいさんは部屋へ来なかった。
仕事が遅くなったわけではない。
むしろ今日は早く終わった。
けれど、理沙さんと相談して「今日は自分の部屋で戻る練習をする」と決めたらしい。
それは少し寂しかった。
でも、悠真はその寂しさごと受け取った。
『今日は自分で戻る日ですね』
送る。
既読。
『うん』
『でも少し電話したい』
『もちろんです』
夜、短い通話がつながった。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「今日は自分で戻る日なんですね」
「うん」
「どうですか」
「七割くらい戻ってる」
「昨日と同じですね」
「うん。でも今日は部屋に行かずに七割」
「すごいです」
「本当?」
「本当です」
「じゃあ、あと三割を電話で戻す」
「はい」
電話の向こうで、しらいさんが少しだけ笑った。
「昨日の声、まだ少し残ってる」
「はい」
「大丈夫です、私がやっておきます、って」
「はい」
「普通の一言なのに、重かった」
「はい」
「監督に褒められて、嬉しかった」
「はい」
「でも、褒められたからって、そこに住んだらだめ」
「はい」
「理沙さんの言葉」
「はい」
「三崎さんは、痛みを置く場所が必要って」
「はい」
「春日くんは?」
悠真は少し考えた。
今日、自分は何を言うべきなのか。
「俺は」
「うん」
「昨日の声を、無理に今日のしらいさんから剥がさなくてもいいと思います」
「はい」
「でも、抱えたまま寝なくてもいいと思います」
「うん」
「だから、今日のぶんは青灰色のノートに置いて」
「うん」
「残りは、明日の白瀬アカリに渡さなくていい」
しらいさんは黙った。
少しして、息を吐く音が聞こえた。
「それ、いい」
「はい」
「明日の白瀬アカリに渡さなくていい」
「はい」
「昨日の岸谷紗季の声は、昨日の場所に置く」
「はい」
「今日の私は、今日の私」
「はい」
しらいさんの声が、少しずつ柔らかくなる。
「春日くん」
「はい」
「今日はことん、聞かなくても大丈夫そう」
「そうですか」
「うん。声で戻った」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「でも、少しだけ言って」
「何をですか」
「おかえり」
悠真は、スマホを持つ手に少しだけ力を入れた。
「おかえりなさい」
電話の向こうで、彼女が小さく笑う。
「ただいま」
「戻りましたか」
「八割五分」
「増えましたね」
「うん。残りは寝たら戻る」
「では寝ましょう」
「理沙さん側」
「彼氏側もです」
「強い」
いつもの言葉が戻る。
その声は、かなりしらいさんだった。
◇
通話を切ったあと、悠真はローテーブルを見た。
今日はマグカップを鳴らさなかった。
スプーンも右側ではない。
蜂蜜も使っていない。
それでも、彼女は八割五分まで戻ってきた。
自分の部屋で。
自分の声で。
青灰色のノートに一文置いて。
帰り道は、また少し広がった。
悠真はスマホを伏せ、静かな部屋で思った。
彼女はもう、戻るために必ずこの部屋へ来なければならないわけではない。
それは少し寂しい。
けれど、誇らしい。
この部屋は、唯一の帰り道ではなくなりつつある。
でも、帰る場所の一つであることは変わらない。
それでいい。
たぶん、それがいい。
悠真はマグカップをそっと棚へ戻した。
音は鳴らさなかった。
今日の夜は、音なしでも十分だった。




