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第108話 共演者の何気ない一言が、君の戻る場所を少し試した

 本読みの翌々日、白瀬アカリは衣装合わせのためにスタジオへ向かった。


 まだ撮影初日ではない。


 けれど、ドラマの準備は確実に進んでいる。

 台本の中にいた岸谷紗季が、少しずつ現実の仕事へ移されていく。


 衣装。

 髪型。

 メイクの方向性。

 小道具。

 靴。

 鞄。

 職場で使うペン。

 部屋に置かれるマグカップ。


 それらが決まっていくたびに、岸谷紗季は紙の中から少しずつ外へ出てくる。


 白瀬アカリは、鏡の前で淡いグレーのブラウスを合わせられていた。


 岸谷紗季の職場用の衣装候補だった。


 派手ではない。

 地味すぎもしない。

 誰かに不快感を与えないように選ばれた、無難できちんとした服。


 それが逆に、痛かった。


「紗季は、自分の好みより“周りから浮かないこと”を優先する人ですね」


 衣装担当の女性が、柔らかい声で言った。


「きれいだけど、目立たない。ちゃんとしてるけど、主張しすぎない。そういう感じで考えています」


「はい」


 白瀬アカリは鏡の中の自分を見た。


 似合っている。


 それが少し怖い。


 白瀬アカリとして着ているのに、岸谷紗季がそこに薄く重なってくる。


 でも、今日は沈まない。


 役名を呼ぶ前に、自分の名前を確かめる。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 岸谷紗季ではない。


 でも、会いに行く。


 心の中でそう言ってから、鏡に向かって少しだけ微笑んだ。


「この感じ、分かります」


 衣装担当が嬉しそうに頷く。


「白瀬さんが着ると、普通なのに目が離せないですね」


 普通なのに。


 その言葉が、少しだけ刺さった。


 岸谷紗季は、きっと普通の人だ。

 普通に働いて、普通に笑って、普通に帰る。


 でも、心だけが帰れない。


 普通なのに痛い人。


 白瀬アカリは、鏡の中で一度だけ瞬きをした。


 そこに住まない。


 理沙さんの言葉を思い出す。


 褒められた場所に住まない。

 痛い声を飾らない。

 衣装も同じだ。


 似合っているからといって、そのまま岸谷紗季の部屋へ入っていってはいけない。


 衣装は衣装。

 今は合わせているだけ。


 撮影が終われば脱ぐ。


 自分へ戻る。


    ◇


 衣装合わせの休憩中、共演者の一人が声をかけてきた。


 主演の松岡遥だった。


 白瀬アカリより少し年上で、落ち着いた雰囲気の女優だ。

 以前から何本も作品に出ていて、演技派として知られている。


「白瀬さん、昨日の本読み、よかったです」


 突然そう言われ、白瀬アカリは少しだけ姿勢を正した。


「ありがとうございます」


「紗季の最初の一言」


 松岡は紙コップを両手で包みながら、少しだけ目を細めた。


「“大丈夫です”って言葉が、大丈夫じゃない人の声に聞こえました」


 胸の奥が、静かに鳴った。


 褒め言葉だ。


 嬉しい。


 けれど、怖い。


 そこは昨日、青灰色のノートに置いた場所だった。


 第一声。

 普通なのに痛い声。

 痛みを置く場所が必要だった声。


 それを共演者にも拾われた。


 白瀬アカリは、微笑んだ。


「ありがとうございます。まだ、探っているところです」


「ですよね。私もまだ全然です」


 松岡は軽く笑った。


 その笑い方は、重くなりすぎないようにしてくれているものだった。


「この作品、静かなぶん、変に刺さりますよね」


「はい」


「台詞より、言わないところが多い」


「そうですね」


「だから、持ち帰りすぎないようにしないと危ないなって思っています」


 その言葉に、白瀬アカリは思わず顔を上げた。


 松岡は少しだけ苦笑する。


「すみません、急に真面目なことを」


「いえ」


 白瀬アカリは首を振った。


「今、少しほしかった言葉でした」


「本当ですか」


「はい」


「よかった。私も、重い役のときは“現場に置いて帰るもの”を決めてるんです」


「現場に置いて帰るもの」


「そうです。持って帰ると眠れなくなるものは、全部は持って帰らない。もちろん簡単じゃないですけど」


 白瀬アカリは、青灰色のノートを思い出した。


 しらいさんには、置く場所がある。

 でも、全部を春日くんの部屋へ持って帰るわけではない。

 青灰色のノートへ全部書くわけでもない。


 役の痛みの一部は、現場に置いて帰る。


 それも必要なのかもしれない。


「それ、覚えておきます」


 白瀬アカリが言うと、松岡は少し照れたように笑った。


「私も毎回できるわけじゃないですけどね。できなかった日は、帰ってからお風呂でめちゃくちゃ反省します」


「それは、少し安心します」


「安心?」


「できる人でも、毎回できるわけじゃないんだなって」


 松岡は、ふっと笑った。


「できる人に見えてたなら、今日の衣装合わせは成功です」


 その軽さに、少し救われた。


 白瀬アカリは、心の中でそっと言った。


 この言葉は、今日持ち帰る。


 でも、飾らない。


 必要な分だけ、置く。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は今日も、何かを読んでいる。


「また白瀬アカリか」


 悠真が言うと、三崎は顔を上げた。


「今日は違う」


「何だ」


「白瀬アカリの共演者候補の記事」


「結局近いな」


「近いけど別」


「沼の支流だな」


「うまいこと言うな」


 三崎はカフェラテを飲み、少しだけ真面目な顔になる。


「演技派の人と組むと、白瀬アカリはまた変わりそうだな」


「そう思うか」


「思う。今まで自分の内側で作ってたものが、相手役の声で揺れるだろ」


「……」


「本読みでも衣装合わせでも、誰かの何気ない一言で役の見え方が変わることってありそうじゃん」


 悠真は、箸を止めた。


 三崎は本当に、今日も近い。


「お前、演技の仕事をしたことあるのか」


「ない」


「なのに、なぜそんなことを言う」


「外側の番人だから」


「便利に使い始めたな」


「便利だから」


 三崎は少し笑った。


「でも、共演者の言葉って怖そうだよな」


「怖い?」


「うん。監督に褒められるのも怖いけど、同じ役者に“そこ見えてます”って言われるのも怖いだろ」


 悠真は、心の中で静かに頷いた。


 たぶん今、しらいさんはそれに近いことを経験している。


 岸谷紗季の第一声を、誰かに見つけられる。

 それは嬉しくて、怖い。


「でも」


 三崎は続けた。


「そういう人がそばにいると、役から戻る方法も学べそうだよな」


「どういうことだ?」


「同じ現場の人だから分かることってあるだろ。重い役のとき、持ち帰りすぎない方法とか」


 悠真は、思わず三崎を見た。


 本当に、何も知らないのか。


 知らない。

 知らないからこそ、外側からその言葉が出る。


「三崎」


「何」


「今日も唐揚げ一個分くらい鋭い」


「唐揚げ一個分ならくれる?」


「やらない」


「けち」


 三崎は不満そうにしながらも、少し楽しそうだった。


    ◇


 衣装合わせが終わったあと、しらいさんは控室でスマホを開いた。


 春日くんへメッセージを送る。


『共演者さんに、第一声のことを言われた』


 すぐ既読がついた。


『大丈夫ですか』


 やはり、最初にそこを聞いてくれる。


『大丈夫』


『嬉しかった』


『でも怖かった』


 既読。


『置けそうですか』


 しらいさんは、少し考えた。


 青灰色のノートを取り出す。

 まだ開かない。


『たぶん』


『でも、今日はノートだけじゃなくて、現場にも少し置いて帰るかも』


 既読。


『それはいいと思います』


『誰かに言われましたか』


 しらいさんは、少し笑ってしまった。


『分かる?』


『文面が、しらいさん一人の言葉ではない気がしました』


『春日くん、最近読む』


『少し慣れました』


『慣れないで』


『慣れて。でも慣れないで』


『また先に言った』


 いつものやり取り。


 それだけで、少し戻れる。


『松岡さんに言われた』


『重い役のときは、現場に置いて帰るものを決めてるって』


 既読。


『とても大事な言葉ですね』


『うん』


『全部持って帰らなくていいんだって思った』


『はい』


『でも、全部置いてきたら、私が何を感じたか分からなくなる』


『はい』


『だから、少しだけノートに書く』


『少しだけ』


 既読。


『春日くん』


『はい』


『今日の三崎さんは?』


 悠真は、昼の三崎の言葉を思い出す。


『共演者の何気ない一言で、役の見え方が変わることがありそうだと言っていました』


『あと、そういう人がそばにいると、役から戻る方法も学べそうだと』


 既読。


 少しして、


『外側の番人、今日も現場を見てないのに現場を見てる』


 と返ってきた。


『本当にそうですね』


『心の中で唐揚げ二個』


『一個から増えましたね』


『今日は二個』


 しらいさんは少し笑った。


 笑えるくらいには戻ってきている。


    ◇


 夜、しらいさんは部屋へ来た。


 来られない予定だったが、仕事が予定より早く終わり、理沙さんから「一時間だけ」と許可が出たらしい。


 玄関を開けると、彼女は少し疲れた顔で立っていた。


 でも、沈んではいない。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その声は、昨日より少し軽かった。


 部屋に入り、ローテーブルの前へ座る。


 今日は青灰色のノートをすぐに出した。


「置くことがある日ですね」


 悠真が言うと、しらいさんは頷いた。


「でも、全部じゃない」


「はい」


「一部だけ」


「いいと思います」


 悠真はミルクティーを作った。


 蜂蜜は普通。

 多すぎず、少なすぎず。


 カップを渡すと、しらいさんはコースターへ置く。


 ことん。


 今日は、その音を聞いて少し笑った。


「戻った?」


 悠真が聞くと、しらいさんは首を少し傾けた。


「八割」


「高いですね」


「今日は、現場に少し置いてきたから」


「はい」


「でも、少しはここに置きたい」


 彼女はノートを開いた。


 ペンを持ち、少し迷ってから書き始める。


 書き終えると、こちらへ向けた。


『第一声を褒められた。嬉しかった。でも、その声に住まない。現場にも、ノートにも、少しずつ置く。』


 悠真は、ゆっくり読んだ。


「いい一文ですね」


「一文じゃないかも」


「今日は一文扱いで」


「甘い」


「彼氏側なので」


「便利」


 しらいさんは少し笑った。


「今日、共演者さんに言われたの」


「はい」


「“大丈夫です”が、大丈夫じゃない人の声に聞こえたって」


「はい」


「嬉しかった」


「はい」


「でも、その言葉に住みそうになった」


「はい」


「その声を正解にしたくなった」


「はい」


「でも、理沙さんに言われたこと思い出した」


「褒められた場所に住まない」


「うん」


「松岡さんにも、現場に置いて帰るものを決めるって言われた」


「はい」


「三崎さんも、戻る方法を学べそうって言った」


「はい」


「みんな違う場所から、同じこと言う」


 しらいさんは、マグカップを両手で包んだ。


「私、ちゃんと戻る練習をしてるんだね」


「はい」


「一人じゃなくて」


「はい」


「でも、自分でも」


「はい」


「それが大事?」


「大事だと思います」


 しらいさんは小さく頷いた。


    ◇


 しばらく、二人は共演者の話をした。


 松岡遥が落ち着いた人だったこと。

 演技派と呼ばれていても、本人は毎回揺れていると言っていたこと。

 できる人でも毎回できるわけではない、と笑っていたこと。


「それ、安心した」


 しらいさんは言った。


「みんな、毎回できるわけじゃないんですね」


「うん」


「理沙さんも、たぶんそう言うでしょうね」


「言いそう」


「三崎も?」


「三崎さんは、たぶん唐揚げ食べながら言う」


「かなり言いそうですね」


「うん」


 彼女は少し笑った。


 その笑いは、岸谷紗季のものではなく、しらいさんのものだった。


「春日くん」


「はい」


「今日、ことんの音は一回で足りた」


「そうですか」


「うん」


「本物を聞きに来たけど」


「はい」


「何回も鳴らさなくても戻れた」


「すごいです」


「本当?」


「本当に」


「じゃあ、今日は九十点」


「高いですね」


「十点は?」


「何でしょう」


「第一声に少し住みそうになった分」


「でも、戻ってきました」


「うん」


「なら、九十五点でも」


「春日くん、甘い」


「彼氏側なので」


「便利に使いすぎ」


 二人で笑った。


    ◇


 帰る時間になり、しらいさんはマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 最後の音。


 彼女はその音を聞いて、少しだけ目を閉じた。


「今日は、この部屋に全部持ってこなくてよかった」


「はい」


「でも、来てよかった」


「はい」


「一部だけ置けた」


「はい」


「残りは現場に置いてきた」


「はい」


「明日の私に渡さない分もある」


「はい」


「それでいい?」


「いいと思います」


 しらいさんは頷いた。


「春日くん」


「はい」


「私、少しだけ現場でも戻る方法を覚えられるかも」


「はい」


「共演者さんからも」


「はい」


「理沙さんからも」


「はい」


「でも、ここにも戻る」


「もちろんです」


「面倒くさい顔で?」


「たぶん」


「よし」


 玄関で、彼女は靴を履きながら振り返った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻った。


    ◇


 悠真はローテーブルの前に戻った。


 今日は、彼女が全部を置いていったわけではない。


 第一声を褒められた嬉しさ。

 怖さ。

 共演者の言葉。

 現場に置いてきたもの。

 ノートに少しだけ書いたもの。


 その一部だけが、この部屋に残っている。


 それでよかった。


 春日悠真の部屋は、彼女のすべてを抱える場所ではない。


 彼女が戻ってくる場所の一つ。


 そう思えることが、少しずつ増えてきた。


 寂しさもある。


 でも、それ以上に、しらいさんが戻る方法を自分で増やしていることが嬉しかった。


 悠真は、棚のマグカップを見た。


 ことん。


 さっきの音が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。

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