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第109話 撮影初日前夜、君は台本ではなく靴を見ていた

 撮影初日の前夜、しらいさんは台本を持ってこなかった。


 玄関を開けた春日悠真は、彼女の手元を見て少しだけ意外に思った。


 いつもの鞄はある。

 黒いキャップも、薄いマスクも、ベージュのコートもいつも通りだ。


 けれど、台本の角が見えない。


 青灰色のノートも、すぐ取り出せる場所には入っていなさそうだった。


 代わりに、彼女は小さな紙袋を抱えていた。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 そのやり取りをしたあと、しらいさんは少しだけ紙袋を持ち上げた。


「今日は、台本じゃない」


「はい」


「靴」


「靴?」


「うん。見せたくて」


 部屋へ入ると、しらいさんはコートを脱ぎ、ローテーブルの前へ座った。


 悠真はいつものようにミルクティーを作ろうとして、少しだけ手を止めた。


「蜂蜜はどうしますか」


「今日は少なめ」


「分かりました」


「甘すぎると、靴の話がぼやけそう」


「靴の話、そんなに重要なんですか」


「たぶん」


 しらいさんは、紙袋を膝の上に置いたままそう言った。


 冗談めいた声ではなかった。


 けれど、重く沈んでいるわけでもない。


 撮影初日の前夜。

 台本ではなく、靴を持ってくる。


 その選び方が、どこか今のしらいさんらしいと悠真は思った。


 キッチンでミルクティーを作り、蜂蜜を少しだけ入れる。

 カップを持って戻ると、しらいさんはまだ紙袋を開けていなかった。


 悠真がカップを置く。


 しらいさんはそれを両手で受け取り、青灰色のコースターへ置いた。


 ことん。


 その音を聞いてから、彼女は紙袋の口を開いた。


 中から出てきたのは、黒いパンプスだった。


 新品ではない。


 もちろん、実際には衣装部が用意したものだから、汚れているわけではない。

 けれど、少し履き慣れたように加工されている。


 つやを抑えた黒。

 低めのヒール。

 歩きやすそうで、どこにでもありそうで、誰にも褒められなさそうな靴。


 しらいさんは、それをローテーブルの横にそっと置いた。


「岸谷紗季の靴です」


 その言葉だけで、部屋の空気が少し変わった。


 台本の中にいた人が、いきなり足元だけ現実へ出てきたようだった。


    ◇


「衣装合わせで決まったんですか」


「うん。明日の最初の撮影で履く予定」


「職場の場面ですか」


「そう。あの台詞の場面」


 大丈夫です。

 私がやっておきます。


 悠真は、その一言を思い出した。


 岸谷紗季の第一声。

 本読みで褒められ、嬉しくて怖かった声。


 その声を出すとき、彼女はこの靴を履いているのだ。


 しらいさんはパンプスを見つめていた。


「変な靴じゃないでしょ」


「はい」


「普通」


「普通ですね」


「そこが、少し怖い」


「……はい」


「すごくつらい過去がありそうな靴じゃない。何か特別な意味がある靴でもない」


「はい」


「ただ、毎日履いてる靴」


 彼女は指先でパンプスのつま先に触れた。


「この靴で職場に行く」


「はい」


「頼まれた仕事を引き受ける」


「はい」


「帰る」


「はい」


「でも、帰ってるのに帰れてない」


 その言葉は、台本の説明よりもずっと静かに刺さった。


 黒い靴。


 どこにでもある靴。

 毎日を終わらせるために履く靴。


 歩いている。

 移動している。

 家に向かっている。


 でも、心はどこにも戻っていない。


「紗季さん、この靴で毎日帰ってるんだと思った」


 しらいさんが言う。


「はい」


「でも、この靴は、帰るための靴じゃないのかもしれない」


「どういう意味ですか」


「今日を終わらせるための靴」


 しらいさんは、少しだけ眉を寄せた。


「職場に行って、仕事して、頼まれて、大丈夫って言って、夜になったから家へ向かう」


「はい」


「帰りたいから帰るんじゃなくて」


「はい」


「今日が終わったから、足が勝手に家へ向かう」


 悠真は黙って聞いていた。


 それは、怖い感覚だった。


 帰るためではなく、今日を終わらせるために歩く。


 誰かに会いたいからでも、安心したいからでもない。

 ただ、一日が終わったから、次の朝まで自分をどこかに置きに行く。


 そんな靴。


「しらいさん」


「うん」


「かなり近いところまで見ていますね」


「うん」


「大丈夫ですか」


「今は大丈夫」


 彼女はすぐに答えた。


 少し前なら、ここで「たぶん」と言ったかもしれない。

 でも今日は、大丈夫、と言った。


「理沙さんにも言われた」


「何をですか」


「小道具や衣装に引っ張られすぎないこと」


「はい」


「靴は紗季さんのもの。でも履く足は私のもの」


 しらいさんはパンプスから視線を上げ、悠真を見た。


「分かってる」


「はい」


「でも、見せたかった」


「どうしてですか」


「台本より先に、春日くんにこの靴を見てもらいたかった」


 その言葉は、少し意外だった。


「俺に?」


「うん」


「なぜ」


「明日、私はこの靴で行くから」


「はい」


「でも、行くのは私だって、先にここで確認しておきたかった」


 悠真は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 岸谷紗季の靴を履く。

 でも、行くのは白瀬アカリであり、しらいさん。


 役の足元へ入る前に、自分の足を確かめに来たのだ。


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを取り出した。


 台本はない。

 でもノートはあった。


「今日は一文だけにする」


「はい」


「靴のこと」


「はい」


 彼女はペンを持ち、少しだけ考えてから書き始めた。


 紙をこする音が、夜の部屋に小さく響く。


 書き終えると、しらいさんは少し迷ってからノートをこちらへ向けた。


『紗季さんの靴は、帰るための靴じゃなくて、今日を終わらせるための靴かもしれない。』


 悠真は、ゆっくり読んだ。


「読みました」


「うん」


「すごくいい一文です」


「いい?」


「はい」


「痛すぎる?」


「痛いです」


「うん」


「でも、見えすぎているわけではないと思います」


 しらいさんは少しだけ息を吐いた。


「よかった」


「ただ」


「ただ?」


「今日は、ここで止めましょう」


 彼女は一瞬だけノートを見た。


 まだ書きたそうだった。


 靴のこと。

 紗季のこと。

 明日の撮影のこと。


 言葉にしたいものは、たぶんいくつもある。


 けれど彼女は、ペンを閉じた。


「止める」


「はい」


「一文だけ」


「はい」


「理沙さんとの約束」


「はい」


「春日くんとの約束でもある?」


「必要なら」


「じゃあ、約束」


 しらいさんはノートを閉じた。


 その仕草が、少しだけしっかりして見えた。


 近づく。

 でも、閉じる。

 戻る。


 その練習は、少しずつ彼女の手つきになっている。


    ◇


 ミルクティーを飲みながら、しらいさんは黒いパンプスを見ていた。


「明日、この靴を履いたら、たぶん少し紗季さんに近づく」


「はい」


「衣装って怖いね」


「はい」


「着たら、少しその人になる」


「はい」


「靴はもっと怖いかも」


「どうしてですか」


「足元だから」


 しらいさんは、自分の足先を見た。


「歩き方が変わる」


「はい」


「立ち方が変わる」


「はい」


「痛いところができたら、それも紗季さんの痛みみたいに思えてくる」


「はい」


「だから、気をつける」


 その言葉に、悠真は頷いた。


「いいと思います」


「うん」


「靴に引っ張られたと思ったら、どうしますか」


「脱ぐ」


「はい」


「自分の足を見る」


「はい」


「白瀬アカリ。しらいさん。岸谷紗季ではない。でも、会いに行く」


「はい」


「それで戻る」


「はい」


 しらいさんは少しだけ笑った。


「春日くん、今日先生みたい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、今日は先生いてほしい日」


「それならよかったです」


「出た」


「出ます」


 いつもの言葉が戻る。


 それだけで、部屋が少し軽くなった。


    ◇


「三崎さんは、今日何か言ってた?」


 しらいさんがふいに聞いた。


 悠真は少し笑った。


「外側の番人ですか」


「うん」


「今日は、まだ何も」


「そっか」


「ただ、昨日は言っていました」


「何て?」


「役を外せる場所が必要だと」


「ああ」


「それと、重い役を見たいと思っても、本人が削れてまで見たいわけではないと」


 しらいさんは、ミルクティーのカップを両手で包んだ。


「その言葉、明日も持っていく」


「はい」


「外側からそう思ってくれる人がいるの、少し安心する」


「はい」


「春日くんは?」


「俺ですか」


「うん。明日の私に言うこと」


 悠真は、少し考えた。


 撮影初日前夜。

 岸谷紗季の靴。

 帰るためではなく、今日を終わらせるための靴。


 しらいさんは明日、その靴を履いて現場へ行く。


 なら、言うべきことは決まっていた。


「明日は、しらいさんの足で行ってきてください」


 しらいさんが、静かに顔を上げる。


「岸谷紗季の靴を履いても」


 続ける。


「歩くのは、しらいさんの足です」


 彼女は、何も言わなかった。


 ただ、ミルクティーのカップを持つ指先に少しだけ力が入った。


「春日くん」


「はい」


「それ、明日の朝にも言って」


「分かりました」


「忘れたら?」


「忘れません」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、大丈夫かも」


「かも、で十分です」


「うん」


 しらいさんは小さく笑った。


「私の足で行ってくる」


「はい」


「紗季さんの靴を履いても」


「はい」


「帰ってくる足も、私の足」


「はい」


「それ、ノートに書きたい」


「今日は一文だけでは?」


「あ」


 しらいさんは少し悔しそうな顔をした。


 それから、ノートを見て、ペンを見て、悠真を見た。


「書かない」


「はい」


「明日の朝、心の中で言う」


「それがいいと思います」


「書かない練習」


「はい」


「難しい」


「でもできています」


「うん」


    ◇


 帰る時間は、早めだった。


 明日は撮影初日。

 夜更かしはできない。


 しらいさんは黒いパンプスを紙袋へ戻した。


 まるで、役を一度きちんとしまうように。


「今日は、靴を置いていかないんですね」


 悠真が言うと、彼女は頷いた。


「明日持っていく」


「はい」


「ここに置いたら、少し安心しすぎる気がする」


「そうですか」


「うん。これは現場へ持っていくもの」


「はい」


「でも、一度ここで見てもらったから」


「はい」


「怖さが少しだけ変わった」


「どう変わりましたか」


「一人で履く靴じゃなくなった」


 悠真は、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。


「履くのは私だけど」


 しらいさんは続ける。


「この靴を春日くんも知ってるって思える」


「はい」


「それだけで、少し違う」


「覚えています」


「うん」


「黒い、少し古いパンプス」


「誰にも褒められない靴」


「今日を終わらせるための靴」


「でも、私は帰ってくる」


「はい」


 しらいさんはマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日は、その音がとても静かだった。


「明日の朝、この音は聞けない」


「はい」


「でも、覚えてる」


「はい」


「足元が怖くなったら、この音を思い出す」


「必要なら、メッセージをください」


「うん」


「音が必要なら送ります」


「うん。でも、まずは自分の足で行く」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは紙袋を持ち直した。


「春日くん」


「はい」


「行ってきますは、明日の朝?」


「今も言います」


「今も?」


「明日へ行く前夜なので」


 彼女は、少しだけ目元を赤くして笑った。


「ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


 悠真は、まっすぐ彼女を見た。


「行ってらっしゃい」


 しらいさんは、紙袋を胸に抱えるようにして頷いた。


「行ってきます」


「帰ってきたら」


「ただいまって言う」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まった。


    ◇


 部屋に静けさが戻る。


 ローテーブルには、青灰色のコースターと、ミルクティーの甘さが少しだけ残っている。


 黒いパンプスはもうない。


 でも、その靴の輪郭だけが、まだ部屋の中に残っている気がした。


 帰るための靴ではなく、今日を終わらせるための靴。


 明日、しらいさんはその靴を履く。

 岸谷紗季の足元で、白瀬アカリとして立つ。


 でも、歩くのはしらいさんの足だ。


 悠真は、棚に戻されたマグカップを見た。


 明日の朝、もう一度言おうと思った。


 しらいさんの足で行ってきてください。


 岸谷紗季の靴を履いても。


 そして、帰ってきたら。


 いつものように言う。


 おかえりなさい。

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