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第110話 最初の本番で、君は「大丈夫です」を一度だけ間違えた

 朝、春日悠真から届いた言葉は、短かった。


『しらいさんの足で行ってきてください』


 続けて、もう一文。


『岸谷紗季の靴を履いても』


 しらいさんは、玄関で黒いパンプスを履く前に、その文字を見た。


 昨日、春日くんの部屋で見せた靴。


 どこにでもありそうで、誰にも褒められなさそうな、少しだけ履き慣れた黒いパンプス。


 帰るための靴ではなく、今日を終わらせるための靴かもしれない。


 そうノートに書いた靴。


 それを今、自分の足に履こうとしている。


 しらいさんは、スマホの画面を一度閉じた。


 それから、パンプスに足を入れる。


 かかとが収まる。

 床に立つ。


 いつもの靴より、ほんの少しだけ重心が前に来る。

 ヒールは高くない。それでも、足元が変わるだけで、体の置き方が少し変わる。


 岸谷紗季の靴。


 でも、歩くのは私の足。


 しらいさんは、心の中で言った。


 白瀬アカリ。


 しらいさん。


 岸谷紗季ではない。


 でも、会いに行く。


 スマホを開き、春日くんへ返信する。


『私の足で行ってくる』


 すぐに既読がついた。


『行ってらっしゃい』


 その一文を見てから、しらいさんは玄関のドアを開けた。


    ◇


 撮影初日の現場は、思っていたより静かだった。


 もちろん、スタッフの数は多い。

 照明、カメラ、音声、美術、衣装、メイク、制作。

 人が動き、ケーブルが床を這い、誰かが小さな声で確認をしている。


 けれど、空気は騒がしくない。


 みんなが初日の緊張を持っている。

 そのせいか、声の一つ一つが少しだけ丁寧だった。


「白瀬さん、入られます」


 制作スタッフの声に、現場の何人かが振り返る。


「おはようございます。よろしくお願いします」


 白瀬アカリとして、きちんと頭を下げる。


 声は出た。

 喉も問題ない。


 理沙さんが少し離れた場所でこちらを見ている。

 目が合うと、ほんの小さく頷いた。


 今日の最初の撮影は、職場の場面だった。


 岸谷紗季が、同僚の仕事を引き受ける。


 台詞は、もう何度も読んだ。


「大丈夫です。私がやっておきます」


 本読みで、監督に褒められた第一声。


 普通なのに痛い声。


 それを今日は、カメラの前で言う。


 衣装担当が最後の確認をする。


 淡いグレーのブラウス。

 膝丈のスカート。

 黒いパンプス。

 小さな腕時計。


 鏡の中には、白瀬アカリがいる。


 でも、足元には岸谷紗季がいる。


 しらいさんは、軽く息を吸った。


 靴に引っ張られすぎない。

 痛い場所に住まない。

 役より先に痛がらない。


 それでも、知らないふりもしない。


    ◇


 一度目の本番は、静かに始まった。


 職場のセットはよくできていた。


 無機質すぎないオフィス。

 整理された机。

 パソコン。

 付箋。

 紙の資料。

 誰かが置いたままにしたペン。


 紗季のデスクは、きちんとしている。


 きちんとしすぎている。


 自分の場所を乱さないようにしている人の机だった。


 共演者が台詞を言う。


「ごめん、これ今日中に確認しなきゃいけなくて。お願いできる?」


 軽い頼み方だった。

 本当に悪気はない。


 現実にもよくある。

 断るほどではない頼みごと。


 でも、紗季はきっと、こういう頼みごとを何度も引き受けてきた。


 頼られることで、自分の居場所を確認してきた。


 だから、白瀬アカリは一度目、少しだけ痛みを乗せすぎた。


「大丈夫です。私がやっておきます」


 声を出した瞬間、自分でも分かった。


 痛い。


 でも、痛すぎる。


 紗季がまだ気づいていない傷を、白瀬アカリが先に開いてしまった。


「カット」


 監督の声が響く。


 現場は止まる。


 怒られたわけではない。

 失敗でもない。


 けれど、胸が少しだけ冷えた。


 監督はモニターを見てから、ゆっくりこちらへ向いた。


「白瀬さん、今のも悪くないです」


「はい」


「ただ、少し痛みが見えすぎました」


 やはり。


 白瀬アカリは静かに頷いた。


 監督は言葉を選ぶように続けた。


「紗季は、この時点では自分が傷ついていることに、まだちゃんと気づいていないかもしれません」


「はい」


「本人は本気で“大丈夫”だと思おうとしている。だから、観ている側があとから、あれは大丈夫じゃなかったんだと気づくくらいでいいです」


 白瀬アカリは、台本を持つ手に少し力を入れた。


 紗季より先に、私が痛がった。


 そう思った。


 自分は、岸谷紗季の痛みを知ろうとしすぎて、先に痛がってしまった。


 役がまだ気づいていないところまで、演じる側が先回りしてしまった。


「もう一度、少し普通にいきましょう」


 監督が言う。


「はい。お願いします」


 白瀬アカリは頭を下げた。


 理沙さんが視界の端に入る。


 厳しい顔ではない。

 でも、きちんと見ている顔だった。


 大丈夫。

 今、気づけた。


 しらいさんは、心の中で一度だけ戻った。


 白瀬アカリ。


 しらいさん。


 岸谷紗季ではない。


 でも、もう一度会いに行く。


    ◇


 二度目の本番。


 同じ場面。


 同じ職場。

 同じ頼みごと。

 同じ台詞。


 でも、今度は違う。


 痛みを出そうとしない。

 隠そうともしない。


 紗季は、自分がどれほど削られているかを、まだ知らない。


 ただ、頼まれた。


 引き受ける。


 それで今日も、自分がここにいていい理由ができる。


 同僚が言う。


「ごめん、これ今日中に確認しなきゃいけなくて。お願いできる?」


 白瀬アカリは、少しだけ顔を上げた。


 小さく笑う。


 相手を安心させるための笑み。


 自分に言い聞かせるための笑み。


 そして、普通に言った。


「大丈夫です。私がやっておきます」


 言った瞬間、現場の空気がほんの少し変わった。


 何かが大きく動いたわけではない。


 誰かが息を飲むほどでもない。


 ただ、普通の一言が、静かに残った。


 紗季は痛がっていない。


 でも、観ている側が痛くなる。


 その距離だった。


 撮影は続く。


 同僚が「助かる」と言う。

 紗季は「いえ」とだけ返す。

 パソコンへ向き直る。

 少しだけ手元を見る。


 カット。


 監督がモニターを見た。


 数秒の沈黙。


 その沈黙が少し長く感じられた。


 やがて、監督が言った。


「今のほうが、紗季です」


 その一言で、胸の奥が震えた。


 嬉しい。


 怖い。


 でも、一度目とは違う怖さだった。


 近づけた。

 でも、飲まれてはいない。


 少なくとも今は。


「ありがとうございます」


 白瀬アカリは、静かに頭を下げた。


 その瞬間、足元の黒いパンプスが少しだけ重くなった気がした。


 でも、立っていられる。


 これは紗季の靴。

 歩くのは、私の足。


    ◇


 休憩に入ると、松岡遥が近づいてきた。


「二回目、すごくよかったです」


「ありがとうございます」


 白瀬アカリは少しだけ緊張しながら答えた。


 松岡は紙コップの水を持ちながら、軽く笑う。


「一回目もよかったんですけど、二回目のほうが怖かったです」


「怖かった、ですか」


「はい。本人が痛がっていないのに、見てる側が痛くなる感じ」


 その言葉に、白瀬アカリは少しだけ息を止めた。


 監督と同じ場所を、松岡も見ている。


「一回目は、私が先に痛がってしまった気がしました」


 思わず言うと、松岡は少し驚いた顔をして、それから頷いた。


「ああ、分かります」


「分かりますか」


「分かります。役より先に泣いちゃうこと、あります」


 白瀬アカリは、その言葉に救われた。


 松岡は続ける。


「でも、気づけたら大丈夫です。気づかないで正解にしちゃうほうが怖いので」


「気づけたら」


「はい。今日の白瀬さん、気づいて戻してました」


 戻していた。


 その言葉が、胸に静かに入ってきた。


 戻る。


 ここでも、その言葉が出てくる。


 役へ近づく。

 痛みを出しすぎる。

 気づく。

 戻す。


 現場の中にも、戻る練習がある。


「ありがとうございます」


「いえ。初日からかなり深いところやってますよね、この作品」


「はい」


「帰りに甘いもの買いましょう」


「甘いもの?」


「私は今日はプリンです」


 松岡が真面目な顔でそう言うので、白瀬アカリは思わず笑ってしまった。


「プリンですか」


「戻るためのプリンです」


「戻るための」


「大事ですよ。帰り道に役を全部連れて帰らないためのプリン」


 軽いのに、ちゃんと大事なことを言っている。


 松岡遥という人は、そういう人らしい。


「覚えておきます」


「はい。プリンは偉大です」


 その言い方がおかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当を開きながら、何かを考えている顔をしている。


「今日は読まないのか」


 悠真が聞くと、三崎は首を振った。


「今日は考えてる」


「何を」


「白瀬アカリが“普通の大丈夫です”を言ったら怖そうだなって」


 悠真は、箸を落としそうになった。


「……急に何だ」


「いや、重い役をやるならさ」


 三崎は唐揚げをつまみながら続ける。


「助けてくださいとか、つらいですとかじゃなくて、“大丈夫です”が一番怖いときあるだろ」


 近い。


 あまりにも近い。


「三崎」


「何」


「お前、本当に何なんだ」


「外側の番人」


「自分で言うな」


「もう自分で言うことにした」


 三崎は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。


「でも、白瀬アカリはそういう普通の言葉で刺してきそうなんだよな」


「刺す」


「うん。刺しにいってないのに刺さる感じ」


 悠真は、しらいさんから届くかもしれないメッセージを思った。


 今日、彼女は撮影初日だ。


 黒い靴で、最初の本番に向かっている。


 あの「大丈夫です」を、どう読んだのだろう。


「ファンとしては見たいけど」


 三崎は少しだけ声を落とした。


「本人は、ちゃんと帰ってきてほしいな」


 悠真は、その言葉を聞いて静かに頷いた。


「そうだな」


「なんか今日、春日しみじみしてる」


「してるかもしれない」


「白瀬アカリ、仕事決まったの?」


「さあな」


「誤魔化し方が下手」


「放っておけ」


 三崎は笑いながら、唐揚げを食べた。


    ◇


 撮影初日の終わり、しらいさんは現場を出る前に青灰色のノートを開いた。


 今日は書かないつもりだった。


 でも、一文だけは置いたほうがいい気がした。


 ペンを持つ。


 少し考え、書く。


『役より先に泣かない。役より先に痛がらない。でも、痛みを知らないふりもしない。』


 書き終えて、しばらく見た。


 長い。


 一文というには少し長い。


 でも、今日はこれでいいと思った。


 その下にもう何か書き足したくなる。


 一度目、間違えた。

 二度目、少し近づけた。

 監督に褒められて嬉しかった。

 松岡さんにプリンと言われた。


 書きたいことはたくさんある。


 でも、書かない。


 ノートを閉じる。


 閉じて、戻る。


 そのあと、春日くんへメッセージを送った。


『終わった』


 すぐ既読。


『おつかれさまでした』


『戻ってこられましたか』


 しらいさんは少し考えた。


『六割』


 正直に送る。


 既読。


『初日で六割戻れたなら十分です』


 その一文に、少しだけ泣きそうになった。


『一回間違えた』


 送る。


『大丈夫です、を』


 既読。


『どう間違えましたか』


『痛がりすぎた』


『紗季さんより先に、私が痛がった』


 既読。


 少し間。


『気づけたなら、戻れています』


 しらいさんは、その文字を見て目を閉じた。


 気づけたなら、戻れている。


 それは、今日一番ほしかった言葉だった。


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


『今日はもう終業後です』


『そうだった』


『でも、だめ』


『すみません』


『謝るところではある』


『でも、ありがとう』


 いつものやり取りができた。


 六割が、少しだけ七割に近づく。


『ノートに一文書いた』


『読んでいいですか』


 写真を送る。


 青灰色のノートのページ。


『役より先に泣かない。役より先に痛がらない。でも、痛みを知らないふりもしない。』


 既読。


 少しして、


『すごく大事な一文です』


 と返ってきた。


『今日の撮影初日の答えだと思います』


 しらいさんは、スマホを持ったまま静かに息を吐いた。


    ◇


 その夜、しらいさんは春日くんの部屋へは行かなかった。


 撮影初日で疲れている。

 理沙さんからも直帰を言われている。


 松岡に言われた通り、帰りにプリンを買った。


 コンビニの、小さなカスタードプリン。


 袋から出して、自宅のテーブルに置く。


 台本。

 青灰色のノート。

 プリン。


 少し変な並びだった。


 写真を撮って、春日くんに送る。


『戻るためのプリン』


 既読。


『松岡さんですか』


『うん』


『偉大らしい』


『プリンは偉大ですね』


『春日くん、乗った』


『乗りました』


 しらいさんは、少し笑った。


 その笑いは、岸谷紗季のものではない。


 プリンの蓋を開ける。


 一口食べる。


 甘い。


 単純に甘い。


 難しい味ではない。

 役の解釈も、沈黙の余白も、帰れない痛みも、そこにはない。


 ただ、甘い。


 それだけで、少し戻った。


『プリン、効く』


 送る。


 既読。


『よかったです』


『出た』


『出ます』


 しらいさんは、もう一口食べた。


 八割くらい戻った気がした。


    ◇


 短い通話は、寝る前につながった。


「もしもし」


「春日くん」


「おつかれさまでした。初日」


「うん」


「プリンはどうでしたか」


「偉大だった」


「それはよかったです」


「松岡さんに報告する」


「ぜひ」


 しらいさんの声は疲れていた。


 でも、沈んではいない。


「今日は部屋に行かなかった」


「はい」


「少し寂しかった?」


「寂しかったです」


 春日くんは素直に言った。


 しらいさんは、少しだけ胸が温かくなった。


「でも、プリンで戻れたならよかったです」


「うん」


「何割ですか」


「八割五分」


「増えましたね」


「うん。春日くんと話したから、九割」


「あと一割は?」


「寝る」


「では寝ましょう」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「強い」


 いつもの言葉。


 それで、さらに少し戻る。


「春日くん」


「はい」


「今日、二回目の“大丈夫です”は、少し紗季さんだった」


「はい」


「でも、一回目に間違えたから分かった」


「はい」


「役より先に痛がらない」


「はい」


「でも、痛みを知らないふりもしない」


「はい」


「これ、撮影中ずっと必要かも」


「そうですね」


「忘れたら言って」


「言います」


「何度でも?」


「何度でも」


「知ってる」


 少し沈黙があった。


 しらいさんは、ふと聞いた。


「ことんの音、今日は聞かなくて大丈夫かも」


「はい」


「プリンと電話で戻った」


「すごいです」


「本当?」


「本当です」


「じゃあ、今日は音なし」


「はい」


「でも、おかえりは言って」


 春日くんは、すぐに言った。


「おかえりなさい」


 しらいさんは、目を閉じた。


「ただいま」


 その声は小さかったが、ちゃんと自分のものだった。


    ◇


 電話を切ったあと、春日悠真はローテーブルの前に座ったままだった。


 今日はマグカップを鳴らさなかった。


 しらいさんは、部屋に来ず、プリンを食べて、電話で戻った。


 それは少し寂しい。


 けれど、同時にとても大事なことだった。


 撮影初日。

 最初の本番。

 一度目の間違い。

 二度目の「大丈夫です」。

 監督の言葉。

 青灰色のノート。

 戻るためのプリン。


 彼女は、現場で揺れて、現場の人に助けられ、自分で戻る道を一つ使った。


 そして最後に、電話でただいまを言った。


 それで十分だった。


 悠真は棚のマグカップを見た。


 今日は出番なし。


 けれど、そこにある。


 必要になったら、いつでも音を鳴らせる。


 それでいい。


 帰り道は、一つではなくていい。


 でも、消えてはいけない。

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